倪蒋懐は昭和2年(1927)に,台湾美術研究所を台北近郊の大稲埕に開設し,石川初め七星画壇の同人らがここで木炭デッサンを基礎とする西洋画の指導に当った。その七星画壇は成立3年後の大正15年(1926)に解散して,新たに翌年に日本留学の美術学生によるグループ赤島社に生れ変った。美術集団として明らかにより意識的な意図をもったこの会の13名のメンバーは,倪蒋懐と京都の美術工芸学校に在学中の楊三郎を除いて,東京美術学校卒業もしくは在学中の若者ばかりである。同人展を毎年開催するが,陳澄波は中国大陸へ,顔水龍,楊三郎はフランスへとやがて各自それぞれの道を辿り,陳植棋のような夭折者もあって6年後に会は解散,これは台湾の地により根づいた昭和9年(1934)の台陽美術協会の創立につながる。この会の成立は,それを大きく促した台湾総督府肝入りの官設公募展「台湾美術展覧会」の昭和2年(1927)来の展開と大いに関係がある。

石川の業績が,上記のような美術教育上の成果にあるのは,紛れもない事実である。台北師範にあって課外の写生会をしばしば行っただけでなく,また学外者も対象にした夏期美術講習会を催して,西洋画の普及指導に積極的に努めている。同じ頃,石川は台湾各地を歩いて写生した水彩スケッチを,短文や詩歌を添えて『台湾日日新報』に長期連載し,これは後に画集『山紫水明集』(1932)として台北で出版された。こうして石川の水彩画は,粗略な印刷ながらも当時の台 湾全島各地に西洋風絵画を広めるきっかけをつくり,伝統の古風な中国山水図や四君子の絵しか見たことのなかったこの地の人びとに,台湾の新しい風景の美しさを開示することになったのである。「かくて台湾に来た多くの日本人画家の中で石川は,疑いもなく尋常ならざる一個の人物 であったのを知るのである」。

それにしても50歳を過ぎた石川の再度の渡台の真意は,そもそも何であったか。明治の日本人に共有の一種の国家的な使命感のせいか,あるいはもっと私的な動機があったのか。台湾人の評者によると,これには明白な理由があった。台北師範学校の志保田校長は当時の台湾入学生の騒乱事件に手を焼き,懐柔打開策の一つとして石川に懇請して美術情操教育を行おうとしたというのである。第一に石川は中国通であり,漢人の扱いに慣れていた。第二に石川は老奸巨滑(海千山千のしたたかな)の植民先進国の英国に遊学して,英国人の遣り口を知っていた。第三には美術教育は,学生の政治的な現実の不満を反らして,美術で以って身心を陶冶する最高の植民技術である──この評者は石川を,中国風の大らかな雅量をもち,西欧風の自由主義と民主主義の思想を吸収した進歩的な植民教育家とみる。絵画以外に文学,詩歌,歌謡に親しみ興趣豊かな才子であり,西洋化時代の日本の典型的な一個の明治知識人である,しかも東洋本位の精神的本質をもち,その内容を西欧の美術様式によって表現するのが彼の抱負であり,石川をして台湾の地に長らく居留させた所以がそこにある,と述べていたのだった。彼の絵を,外光派の影響を受けた田園的写実主義と規定するのである。

昭和7年(1932)に志保田校長の勇退と行を共にして,石川も職を辞して帰国する。翌年に,父親同様に水彩画で知られるようになる長男滋彦が,東京美術学校を卒業している。石川は妹の経営する鴎友学園高女の教職にしばらく携わりつつ,光風会展や日本水彩画会展あるいは文展に作品を発表しつづけ,戦争の時代に画家としての穏やかな晩年をおくり,敗戦の年9月に74歳で他界している。

〈温文儒雅〉の石川の人間性については,教え子たちの多くの証言がある。例えば台北師範で彼に学んだ葉火城によると,当時の師範学校は寄宿舎の毛布の支給や修学旅行費用の補助などことごとく,日本人学生と台籍学生との聞に甚だしい差別待遇があった。卒業後の教員の俸給の額にも非常な差があったために,それらに対する台湾学生の不満からしばしば不穏な騒動が生じた。

石川には統治者の政居優越の態度は全然なく,つねに心を開いた温文儒雅の知識人として,台籍学生の敬愛を受けていた,と言う。その実例として張萬傳の語るところでは,不平等の所遇に抗議して起きた騒乱事件で,石川が最もその才能を愛していた熱烈な〈愛国少年〉の5年生陳植棋が退学処分を受けただけでなく5年間の支給官費の全額弁済を求められた時,石川は才能を見込んでいたその学生のために,校長に掛け合って返済の金額を減らさせたということがあった。この後,学生が東京美術学校へ留学するための面倒までみたというのである。除籍学生37名,停学者64名を出した大正13年(1924)の台北師範学校騒乱事件は,治安警察の圧迫を受けながら執拗に続けられていた当時の民族運動,特に前年10月に結成された民族主義的啓蒙指導団体・台湾文化協会の盛んな活動に,呼応するものであった。

当局の記録によると,その悪影響は特に学生に強いものがあったという文化協会の民族主義運動の与えた思想的動揺と〈思慮なき反抗心〉は,台北師範学校生徒の二度にわたる騒擾事件をおこしている。大正11年(1922)2月のそれは,派出所巡査に対する反抗的な「侮蔑不遜の言動」に端を発して警察の圧力に対する全学生600名の騒乱事件になったが,訓戒補導で済んで司法事件にはならなかった。多くの処分者を出したのは大正13年11月の〈台北師範学校第二騒擾事件〉である。修学旅行のことをきっかけに,内地人生徒との差別待遇の改善要求をかかげた同盟 休校の組織的争議に発展し,これが文化協会との密接な政治的連絡に起因するものとして学校側の処分による強行解決となったものである。「之等の退学者は大部分東京若は支那に奔り,学業を継続せしが夫々思想運動に身を投じ,後年本島社会運動の闘士として活躍せし者尠からざりき」というのが,当局の記録である。退学処分37名中に陳植棋が含まれていた。嘱望されていたこの生徒は,美術学校卒業前後に七星画壇や赤島社の同人として活動しながら,才能を十分に開花せぬまま昭和7年(1932)26歳で若死する。

また石川の台湾時代の最後の生徒に当る鄭世璠の話によると,石川は総督府通訳官を兼ねた官立の師範学校の教官であったにもかかわらず,他の日本人がすべて制服制帽を着用して統治者の威厳と階級を顕示する中で,ただ独り自由な洋服姿で通した。自分は一介の教師であって軍人ではないと,日頃語っていたと言うのである。どうやら,英語に堪能なクリスチャンの画家石川に,人びとは日本人離れした一人の自由人を見ていたのである。

昭和61年(1986)秋に台北市美術館で開催された「石川欽一郎師生作品展」は,彼の今は亡い最初の弟子倪蒋懐の許に戦火を避けて大切に保存されていた多量の石川作品中の80点を中心に,また8人の門弟の作品を加えて企画された,初めての回顧展である。その図録の中で白雪蘭が,日本の高圧的な統治体制の中で,台湾の青年に石川が〈鼓動〉的な態度で西洋絵画を教え込んだことは,啓発的な貢献であり,このことによって石川個人は,植民地の〈血涙史〉の中ではかなり懐しい想いを抱かせる一人の日本人となった,と書いている個所は目を引く。加えてこの論者が言うように,石川の台湾での名声が日本での彼の地位を上回っているのは,台湾での作品の量が日本でのそれよりも上回っているからだ,というのも確かなことに違いない。こうしてこの図録の序文は,こう明記する。「石川は台湾美術運動の父として知られ,彼が台湾に種を蒔いた歴史的意義は計り知れないものがある」。──仮りにも終生内地で過ごしていたら,彼の日本での声価はまたもう少し違ったものであったであろう,という推測はそう簡単ではない。

 

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