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水野敬三郎

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-1

治承兵火後、興福寺北円堂は同寺の諸堂の中でも最も遅れて再興が行なわれた。しかしこの再興事業の遅延は、運慶晩年の傑作を我々に伝える幸いな結果となった。いま堂とともに安置仏像中の中尊弥勒仏像、無著・世親の像が存している。北円堂再興造像についてはすでにしばしば論じられているが、ここには中尊像の納入品、同台座の銘記についてあらためてその造像史上の意義を考え、諸像の表現様式の運 慶作品中における位置づけにも及びたい。

一、再興造像の経過

まず興福寺北円堂再興の経過について簡単に述べておこう。その再興の計画は正治二年(一二〇〇)の頃からすでにあった。この年のものと思われる内大臣源通親の書状(『春日文書』)に「北円堂は不日造営すべきの由、仰せ下され、備後国に付せらるべし」とあり、公家(朝廷)沙汰として、その造営費用を受け持つ国も定められたのである。しかしこの計画は実現に至らなかった。建永二年(一二〇七)に至って今度は寺家の力でようやく再建のことが軌道にのりはじめる。東大寺宗性上人の編纂した『弥勒如来感応抄』第一に同年八月日付の「興福寺僧綱等北円堂勧進状」が収録されており、それには『流記』を引いて円堂一宇・瓦葺門一宇・瓦葺廡廊一周と弥勒仏像一軀・脇侍菩薩像二体・羅漢像二体・四大天王の安置仏像より成っていた北円堂院を旧のごとく建立すべく、専心上人が勧進を企てることを記している。また同書第一に引く同年八月三日付の「興福寺政所下文」では菩提山上人を勧進に任じ、造北円堂用途を奉加し、諸卿沙汰人等の奉加物を南都勧進所に送るべきことを指示している。これによって勧進となった専心上人は菩提山の住侶であったことがわかる。なお『弥勒如来感応抄』第一の奥書に宗性は、この中に納めた文は「観兜率記」のほかはみな祖師上人の御草案であると記しているから、この勧進状や下文は解脱房貞慶の草したものである。熱心な弥勒信仰の保持者である貞慶が、この弥勒仏を本尊とする北円堂の再興に深くかかわっていた。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-1

こうして寺家の沙汰として始められた再興事業であったが、事は容易に運んだわけではない。それから一年以上もたった承元二年(一二〇八)十二月十五日、藤原家実はその日記『猪隈関白記』に「興福寺中の北円堂、治承炎上の後、未だ造らず。此の間、寺家の沙汰としてこれを造る云々。御仏は余の沙汰となすべきの由、先日寺家よりこれを申す。すなわちこれを造り奉るなり」と記されている。家実は建永元年に摂政、氏長者、ついで関白となっていた。同記の承元二年十二月十七日条には「未だ北円堂棟上せず」とあるから、この頃北円堂は棟上には至らなくてもある程度工事は進捗していたのであろうが、すでに寺家の勧進による造営費用の調達には限界が見え、造仏のことは力に余るので、氏長者沙汰とすべきことが申し入れられ、家実もこれを受けて立ったのである。

『猪隈関白記』によると、北円堂の仏像はこの十二月十五日、造仏始その翌々日に行なうことが決められた。同十七日の条に造仏始めのことが記されている。仏師は法印運慶、御衣木加持は東寺二長者の法印権大僧都親覚、奉行は関白家の家司兵部権大輔家宣で、彼らが南都に下向し、御仏九体の造仏始めは、まだ棟上していない北円堂の前庭に仮屋を立てて行なわれた。「仏師浄衣十一領(絹。中尊三一人。余各伊人云々。)又五領。(布。供奉仏師料云々。)」とあるから、中尊におそらく運慶を含めた三人の仏師が、他の八体に一人ずつの仏師がつき、ほかに五人の供奉仏師が従ったことがわかる。

これから二年の後、『承元四年具注暦』の裏書によれば、その十一月二十六日に北円堂の宝形を据えて上棟に擬したという。宝珠露盤を上げるに至ったのであるから、堂の造営は完成にかなり近づいていたはずである。しかし安置仏像の方は完成までまだ時日を要したらしい。中尊弥勒仏像の像内から発見された『宝篋印陀羅尼経』の奥書に建暦二年(一二一二)正月二十七日の、同じく「弥勒菩薩小像納入願文」の奥書に同年二月五日の日付が見えるから、その供養日は知られないものの、この頃をもってほぼ像の完成時と考えることができよう。造仏始めからほぼ四年間を経ている。かつて氏長者藤原兼実の沙汰として、康慶が大仏師となり、南円堂の再興造像をした際には、文治四年(一一八八)六月十八日に造仏始め、翌五年九月二十八日に丈六の中尊不空羂索観音像と法相六祖・四天王像あわせて十一体を完成して堂に渡し奉っており、これに比べて北円堂の造仏はだいぶん長い期間を要したわけであるが、おそらく経済的な困難さによるものであったと思われる。

二、納入品をめぐって

北円堂中尊弥勒仏像の像内から、昭和九年修理に際して納入品が発見された。これらは当時もとのとおりに像内に納められたので、いまは見ることができないが、残された記録や写真によって、これらに触れてみたい。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-1

納入品の一は体部内に納められたもので、水晶珠(径四・三cm)を木製の蓮台の上に銅線で固定し、この蓮台の下に横に柄を出して像内背部に留めていた。この水晶珠は密教にいう心月輪にほかならない。

このような心月輪の像への納入は、いまのところ平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に最初の遺例を見ることができる。いうまでもなく藤原頼通の発願になり、仏師定朝により造られ、天喜元年(一〇五三)に供養された像である。この像では梵字の阿弥陀大小呪を輪書した白色の円板を蓮華座上に安置し、それを像内の台座蓮肉上においている。この心月輪の意味は空海の『無量寿如来次第』に説くところ がわかりやすい。「まず壇中の本尊阿弥陀仏の相好円満なるを観念せよ。この本尊に心月輪があり、その上に秘密の真言がある。我が心月輪上にもまた秘密真言がある。本尊の口から秘密の真言が出て我が頂より入り、わが心月輪上にならぶ、また秘密の真言はわが口から出て本尊の足下より入り、本尊の心月輪上にならぶ」、これによって本尊これを拝するものは一体となる。心月輪の納入はいわば像に魂をこめることであった。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-1

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-1

これ以後、上級貴族の発願になる一堂の本尊のごとき本格的造仏においては、真言・種子などを記した月輪の類の納入が慣例となったらしい(水野敬三郎「院政期の造像銘記をめぐる二、三の問題」『美術研究』二九五号)。そのことは当時の公卿日記などに見える造仏記録からうかがわれることで、たとえば仁平二年(一一五二)鳥羽法皇五十の賀に際して造立された等身釈迦如来像は、台座蓮肉上に種子を書いた月輪を立て、その上に仏身をおいたという(『兵範記』)。遺品としては長寛二年(一六四)の後白河院御願になる蓮華王院千体千手観音菩薩像(いま百数十体が現存)のそれぞれに千手観音種子を記した月輪を奉籠しているのが知られている。これは立像で構造上納入品が像内に密閉される状態となるから残ったのであり、坐像の場合には内刳部が像底に通じ、鳳凰堂阿弥陀如来像や鳥羽法皇五十の賀の像のように、台座蓮肉上におかれたので、火災などに際して失われることが多かったと考えられる。そして鳥羽法皇五十の賀の像が像内に金箔を押したという点に注目すれば、このような月輪奉籠は像内を聖なる仏身内そのものとみなす意識に通じたに相違なく、事実、安楽寿院や法金剛院・法界寺の阿弥陀如来像など、この期の上級貴族による造仏と思われるものは、像内を漆箔仕上げとしたり、像内に金箔を押さなくとも平に仕上げて漆塗りとする例がしばしば見られる。

なお月輪奉籠は上級貴族以外の造仏にも及ぼされ、その場合は像内に直接墨で月輪種子の類を書き付けるという省略的な方法も行なわれた。

平安時代後期における以上のような風を念頭におきつつ運慶作品に目を向けてみよう。安元二年(一一七六)の奈良円成寺大日如来坐像は、像内を漆塗りとしている。内刳が像底に通ずる構造で、これにも初めは月輪の類の納入品があって、いまそれが失われたと見られる。文治二年(一一八六)の願成就院諸像では、不動三尊・毘沙門天の各立像には上部に五輪塔形をかたどった木札が納入されていた。いま阿弥陀如来坐像の納入品は失われているが、これも像内を漆塗りとしている。文治五年の浄楽寺諸像でも中尊、両脇侍、不動、毘沙門天とも像内を平にきれいにさらい、上部に月輪形をかたどった木札を納入するが、注目されるのは中尊坐像の構造で、頭体の幹部を構成する四材から膝の高さで底板を彫り残すことによって、頭体の内刳部を密閉する状態とし、この中に納入品を籠めている。この手法は以後の運慶風の作品にまま見られるところであるが、いまのところこの像に初めて見るもので、あるいは運慶の創意によるかとも思われる。ここには坐像の場合にも納入品を堅固に奉籠するくふうを見ることができよう。

さて北円堂弥勒にかえると、心月輪に水晶珠を用いたのは、関白家実のかかわった造像としてことに丁重さが求められたのであろう。そ の納入法はいま明確には知られないが、おそらく月輪が像の心部、すなわち胸部にあたるように納置されたと思われる。鳳凰堂阿弥陀如来像では月輪は台座上に平におかれたが、鳥羽法皇五十の賀の釈迦如来像では月輪を立てたといい、心月輪の本来の意味にそうべくくふうがなされるようになってきていた。北円堂像ではこれに加えて、体部の内刳部に膝の高さで底板をあてて月輪奉籠の空間を密閉し、浄楽寺阿弥陀如来像の場合と構造は異なるが、同様に納入品の堅固な奉籠をはかっている。浄楽寺像以来、運慶が納入品の奉籠にことに意を用いた ことがうかがわれるし、また心月輪の丁重にして堅固な奉籠の、この期に到達した一つの典型として、この像を見ることができよう。なお長子湛慶が二親のため心をつくして貞応三年(一二二四)から寛喜元年(一二二九)までかかって造立し、八条高倉地蔵十輪院に安置した丈六 阿弥陀如来像は、腹中に八葉蓮華上の水精玉を奉納したというが(『来院文書』)、この納入品も北円堂弥勒仏像にならったものであろう。

他の納入品は像の頭部内に奉籠されている。 弥勒菩薩の小像と「弥勒像奉籠願文」を納めた厨子を、二枚の板彫五輪塔ではさみ、その傍に『宝篋印陀羅尼経』一巻をそえて立て、これらを台板上に固定したものである。

このうちの「奉籠願文」は、建暦二年(一二一二)二月五日に堂舎造営行事聖人慈念が記したもので、勧進上人である仏子専心が年来造立随身していた白檀三寸の弥勒像(その首中には唐招提寺の仏舎利一粒を奉籠していた)を北円堂中尊弥勒仏中に奉籠すること、これによって今 生の父母師匠や仏堂造営の間の結縁衆生をはじめとする七世四恩が、弥勒下生の時にこの像を拝見し奉らんと願うこと、ただし堂宇造立の功徳は本願すなわち藤原家実の御廻向に任せ奉ることなどが記されている。また『宝篋印陀羅尼経』の奥書には建暦二年正月二十七日に書写をおわったこと、北円堂御仏に奉籠するため勧進上人専心の仰せによって金剛仏師瞻空がこれを執筆したことが記されている。すなわちこれら頭部内の納入品は寺家の側としてのもの、勧進上人専心の意を体したものであることがわかる。

 

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