水野敬三郎
ここで専心のことについてふれておこう。彼が菩提山上人と呼ばれたことは前述した。この菩提山とは奈良の東南方約八キロメートルのところにある正暦寺のことである。正暦寺は正暦年間(九九〇~九九五)に兼俊が開創した寺で薬師如来を本尊としたと伝え、治承四年(一一八〇)の平家による南都焼打に際してこの寺も焼亡したのを、信円再興したという。信円は藤原忠通の子で、兼実や慈円の異母弟にあたり、興福寺恵信の室に入って尋範・蔵俊らについて修学し、養和元年(一一八一)から文治五年(一一八九)まで興福寺別当をつとめ、文治元年の東大寺大仏開眼供養や建仁三年(一二〇三)の東大寺供養では呪願師となった。菩提山僧正と呼ばれた人である。信円による菩提山再興については亀田孜が「興福寺の絵画と絵所絵師」(『仏教芸術』四〇)でふれているが、これに多少の補足を加えながら述べると、治承の焼亡時、平家の追及を避けて正暦寺から内山永久寺に逃れていた信円が(『内山永久寺置文)、その再興にあたって最初に着手したのは正願院の建立であった。『大乗院寺社雑事記』文明十年(一四七八)六月二十六日条に、本願大僧正が菩提山を開いた時、正願院御堂・中門・奈良大門まず建立し、次に薬師堂・塔・真言堂以下をしだいに建てたと記されている。正願院本尊弥勒が開眼供養されたのは『内山永久寺置文』によると文治二年のことであった。この弥勒のことについては後にまたふれる。ついで元久元年(一二〇四)の「僧専心田地売券」(『大和宝珠院文書』)に菩提山十三重御塔に寄進した水田のことが見えるから、この頃十三重塔がすでにあったのである。建永二年(一二〇七)十月の「院主某置文」(『東大寺文書』二八)にこれより前唐本一切経が正願院に寄進されたことが記され、『大乗院記録抜書』によると承元二年(一二〇八)四月十六日に経蔵が建立された。亀田孜が引く「信円年譜」によると菩提山本堂が建立されたのは建保五年(一二一七)で、本尊は阿弥陀ならびに小仏薬師如来であったという。この小仏薬師如来はい正暦寺に伝存して重要文化財に指定されている倚像の白鳳小金銅仏であろう。なお正暦寺に伝わる菩提山寺絵図(江戸時代の写本)にこれらの堂塔が描かれている。
さて先に引いた元久元年(一二〇四)の田地売券に署名を加えている僧専心が、北円堂勧進にあたった菩提山上人専心にあたることはいうまでもない。十三重塔に寄進された水田が散在地で具合が悪いので、これを沾却する文書であるが、専心は信円のもとで菩提山の経営に力をつくしていたのであろう。ちなみに建暦二年(一二ー二)に専心五十一歳であるから、この時四十三歳、正願院本尊開眼の時は二十三歳であった。専心が菩提山にあって、後々も信円のもとで重要な役割を果たしていたことは、建保七年(一二一九)三月、金峯山と高野山との間の争論について発せられた僧正信円の御教書(『高野山文書』『宝簡集』五〇、五一)に、「専心奉」と署名していることからもうかがわれよう。北円堂本尊弥勒仏の納入品に話をもどす。専心が年来造立所持の弥勒像は、正願院の本尊が弥勒仏であったことからわかるように、彼の師信円の弥勒信仰を反映したものにちがいない。この弥勒菩薩像は像高七・一センチメートル、奉籠願文にいうように白檀を用いた檀像らしい。写真で見ると肩からかかった瓔珞を腹前でX字状に交叉させ、天衣も膝前でX字状に交叉させるなど、古式の形をまなぶと同 時に、目を大きく見開き、頬がはり、口もとのひきしまった厳しい面 相や天衣を右肩からはなして動きをあらわすなど、鎌倉時代初期の慶派の作風を顕著に示すものといえる。
ところで先に述べた正願院本尊弥勒仏像は実は仏師運慶が造ったものであった。『内山永久寺置文』に「菩提山本願大僧正御暦記云」として、「文治二年七月十一日。正願院本尊弥勒皆金色(三尺。仏師運慶これを造る)今日開眼し奉る。導師内山蓮恵随念房聖人。真言供養。布施一疋四丈。色々布五段。蒔絵手筥一合。此像偏えに滅罪生善法界衆生平等利益のためなり」とある。信円の『御暦記』から永久寺に関係のある記事 が、『永久寺置文』に抄記されたのであるが、この正願院弥勒の記事も開眼導師が内山の聖人であったからここに拾われたのである。文治五年(一一八九)に運慶が和田義盛のために造った横須賀市芦名の浄楽寺の諸像の銘札に「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」と記されている から、正願院本尊を造立した頃も運慶は興福寺にいたのであろう。この正願院弥勒はどのような仏像であったろうか。これが開眼供養されたわずか前の文治二年五月三日から運慶は北条時政のためにいま伊豆韮山のこれら願成就院に残る諸像を造りはじめている。これらは当時としてめざましい新様式を示すものであったが、おそらく時を接して造られ始めた願成就院像に迫るものであったろうか。いずれにせよ康正元年(一四五五)に菩提山の本堂以下ことごとく炎上した(『大乗院寺社雑事記』同年八月十一日条)際には救い出されたらしいこの像も、文明十年(一四七八)に盗難にあい(『大乗院寺社雑事記』同年六月二十六日条)、残念ながらその後のことは知られない。
以上のように運慶は古くから信円、菩提山とつながりをもっていた。菩提山上人専心との関係も当然考えられるところである。北円堂弥勒仏の頭部内に納入された専心所持の、慶派の作風を示す弥勒菩薩像は、かつて運慶自身が刻んだものであった可能性も十分に考えてよかろう。ちなみに運慶が檀像を彫刻したことは『猪隈関白記』に見える。同記建仁二年(一二〇二)十月二十六日条に、摂政近衛基通のために白檀一尺六寸の普賢像一体を造立したことが記されている。
次にこの白檀弥勒像を納める厨子は、身部の奥壁に薬師如来坐像、その左右に不動と地蔵の立像を描き、扉には左に弘法大師、右に鑑真和上を描き、それぞれの上方の円相内に各尊の種子を墨書している。弥勒を納める厨子絵の主尊として薬師があらわれるのは、菩提山の本尊薬師小仏とかかわりがあるのではなかろうか。不動・地蔵を両脇に配することについては、正治二年(一二〇〇)伊豆願成就院に阿弥陀三尊不動地蔵等形像を安置したという『吾妻鏡』の記事(同年正月十三日条)が思い起される。願成就院、浄楽寺における造像にはやはり南都の僧侶がかかわっていたのであろう。扉に鑑真和上を描くのは当時の南都における釈迦への帰依、戒律復興の動きを考えれば理解される。この釈迦への帰依が弥勒の信仰を導くわけで、白檀弥勒菩薩像にも唐招提寺の舎利一粒が納められていたことは前述のとおりである。信円が就いてまなんだ興福寺蔵俊も戒学復興に力を尽くした人として名があり、北円堂造営の勧進状を草した貞慶についてはいうまでもない。一方の扉の弘法大師は、大師の弥勒信仰、兜率往生のためにここにあらわされたのであろう。室町時代に尋尊が記した、主として大乗院関係の所蔵画幅を載せる『本尊目六』(『美術研究』五八に公刊)に、正願院十三重塔障子として法相八祖を含む十六鋪の祖師像が見えるが、このうちにも鑑真和尚と弘法大師がある。
なお亀田孜前掲論文が注目したように、『本尊目六』にはほかにも正願院彼岸本尊、正願院経蔵下陣壁代、正願院堂後障子など、正願院堂塔の装画が、多くあげられ、これらは修理して掛幅に仕立てられて大乗院に留めおかれたらしい。その筆者として住吉法眼、尊智法眼の名が見えるが、厨子絵の筆者もそのあたりに求められよう。
この厨子は五輪塔形にはさまれ、『宝篋印陀羅尼経』一巻をこれにそえているが、舎利を入れた五輪塔、また一切如来の全身舎利の功徳を包含した宝篋印陀羅尼やそれを説いた経を仏像内に奉籠する例は、鎌倉時代の初めから知られる。文治元年(一一八五)八月に開眼供養された東大寺の再興大仏に奉籠すべく、その少し前に藤原兼実が仏舎利を納めた五輪塔を重源に渡し(『玉葉』同年四月二十七日条)、『宝篋印陀羅尼経』も『如法経』とともに像内に納入された(『南無阿弥陀仏作善集』)。文治五年供養の興福寺南円堂不空羂索観音菩薩像には、兼実による「奉籠願文」によれば、仏舎利などを入れた五輪塔の四隅に『宝篋印陀羅尼経』その他の経を立て、これを蓮華中に納めて奉したという(『玉葉』同年九月二十八日条)。運慶自身が造立にたずさわった文治二年の願成就院不動三尊像・毘沙門天像の納入品は、板製で上部を五輪塔形にかたどり、その中央に孔を穿って舎利を籠めたと見られ、下方に宝篋印陀羅尼を墨書する。阿弥陀三尊像では像内に宝篋印陀羅尼を直接記している。また文治五年の運慶作浄楽寺不動明王・毘沙門天像の納入品は同じく板製で、上部は月輪をかたどるが、その下方に宝篋印陀羅尼を墨書する。当時の南都における信仰のありかたを反映したものであろう。この五輪塔や舎利、宝篋印陀羅尼などの納入の思想は、重源によって鼓吹されたと見られることが最近論じられている(田辺三郎助 「重源と運慶快慶」『ミュージアム』三五〇号)。
なお『宝篋印陀羅尼経』を勧進上人の仰せによって書写した瞻空は小田原寺(浄瑠璃寺)の住僧で、承元二年(一二〇八)に海住山寺の扁額を執筆し(同額裏面銘)、翌三年に興福寺の春日版『法華経普門品』の板下を書き、同年三月七日、興福寺別当雅縁が発願した大野寺弥勒石仏の供養に当たって唱導をつとめたことが知られている。当時南都で 能書のほまれが高かった人と思われる。
以上に見た頭部内の納入品はすべて寺家の側としてのものである。氏長者関白家実の沙汰になるこの像に、寺家の側からの納入品があることはどのように解したらよいのであろうか。堂舎造営の勧進上人専心が造像のことにもかなり強力にかかわっていたと見るべきなのであろう。このことは造立仏師として運慶が氏長者によって択ばれたのか、または寺家側の推挙によって起用されたのかという問題に関連する。当時の運慶は興福寺をはなれて京都に本拠を移していたとも見られる。すなわち『高山寺縁起』によれば、運慶はおそらくその菩提寺 である地蔵十輪院を建保六年(一二一八)以前に建立したが『来迎院文書』によれば、それは京都八条高倉にあり、また『滝山寺縁起』には「八条法印運慶」の呼称が見出される。その点や建仁二年(一二〇二)には近衛基通のために造仏し(『猪隈関白記』)、建暦三年(一二一三)に供養された上皇発願の法勝寺九重塔の造仏に院派・円派の仏師と共に従った(『明月記』同年四月二十六日条)ことを考えれば、前者の可能性を否定できない。しかし運慶三男康弁が建保三年に興福寺西金堂安置の天燈鬼・龍燈鬼像を造立したことから、この一門が当時なお興福寺と密接な関係をもっていたと考えられ、専心上人と運慶とのつながりは先に述べたとおりである。専心上人が北円堂の堂舎造営のみならず、造像にも関与していたとすれば、運慶の起用には寺家側の意向も強く反映したということになろう。それに造仏始めの前々日に家実が「御仏は余の沙汰となすべきの由、先日寺家よりこれを申す」と記したその書きぶりからは、造仏が氏長者沙汰ときまったのはさほど遠い過去でないように思われ、すでに運慶により御衣木が整えられていた頃かもしれない。おそらくはまず寺家側の意向によって運慶が推され、氏長者としてもこれを抵抗なく受け入れたものであろう。