源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。
梅
日本人の芸術性として季節の感覚が繊細である事はその最も著しい特徴の一つである。俳句はこうした民族的性格を基盤としてはじめて成立する文芸である。 多分菊の頃、読者の手にわたる筈のこの俳句の雑誌に「梅」という様な季節はずれのものを書くという事は余りふさわしい事ではない。ふさわしさは凡そ芸術的なるものの根源的要請である。私はそれを冒すのであろうか。然しふさわしさはともすれば「即く」事の失を冒し易い。しかも私は「梅花」という雑誌に今「梅」についてものを書こうとする。まさにそれは「即く」事になるのではないか。私はどちらにしてもふさわしさを欠く事のまずさを感じる。然しこの「梅花」の誌名からも、その発行の時期からもいわゆる流行の面から離れて不易の相において本誌を考えるならば「梅花」十一月号に「梅」が載っていても必ずしもおかしくはない。況んや花のみが梅ではない。私はかつて伊賀の上野の芭蕉堂で見た五月雨に雫を落している青梅の美しさを忘れる事は出来ない、呉春もこの青梅の美を絵にしている。
梅は普通には春の花とされているが、梅の咲く頃はなお一切の自然は冬の姿のなかにある。日本の様な南北に長い国では、梅の咲く時期は必ずしも同じでない。熱海の辺りではもう十二月の末には咲きはじめる。しかし、ある年四月のはじめ平泉の中尊寺を訪ねた折、軒端の梅はまだ蕾が固かったのを私は覚えている。京都では大体三月の初旬が見頃である。私達は火鉢を膝に近寄せて固くとざした硝子戸の外に、漸く咲きはじめたその梅をな がめるのである。長い冬にとざされていた心が春を待ちわびている時、こうして春の前ぶれとして梅が咲き出すのである。梅がなにか人になつかしいものを感じさせるのは、多分我々から冬を解放してくれる事の予感の故であろう。
それだから暖国に育って冬の憂鬱を経験しない人には、あの梅の情趣はそれ程にも感じないのではなかろうか。南国の日向国に生まれた若山牧水は、あの様なロマンティストではあったが、東京に幾年かを送るに至って 「好かざりし梅の白きを好きそめぬわが二十五歳の春のさびしさ」という歌が出来たのである。雪国に育った私などは、梅の花が咲き出す頃のあの浮き立つような情緒を忘れる事が出来ない。
だが、同じ一つの対象でも、それを観照する個性差に応じて、それぞれの感情体験に相違のある事は、誰でも経験することである。同じ日本人と雖も、梅に対する感じ方、受容の仕方は恐らく一様ではなかろう。私は、それが時代によってもまた非常に相違のある事を、興味深く思うのである。
梅は元来中国原産の植物で、わが国のうめも梅の中国音の転訛である。うまが馬の中国音から来ているのと同様である。梅がいつ頃わが国に移植されたかははっきりしない。然し『万葉集』によると天平時代のはじめにはすでに北は越中にまで行き亘っているのが知られる。
然し梅が愛好されたのは多分奈良朝に近い頃になってからのようである。『懐風藻』には弘文天皇の皇子葛野王の五言律春日翫鶯梅一首をのせている。王は慶雲二年(七〇五)四十五歳で薨ぜられている。その頃、漢詩文を弄する新進の教養人の間には梅を賞する風習が行われていたのであろう。『懐風藻』には、梅の詩はまだいくらか見出される。梅を愛する風は恐らく中国文芸と共に伝えられたものと思われる。『万葉集』にも人麿の時代を過ぎた頃から歌の上に梅が現われて来た。天平になると、特に梅は風流なものとしてもて遊ばれて来る。桜や山吹も愛賞されているが、あくまでもその視覚的な美くしさである。それが梅になると、大伴坂上郎女の「さかつきに梅の花浮べ思うどち飲みて後には散りぬともよし」という様な、特殊な愛玩方式が見られる。それは多分中国風の輸入であろう。そしてそれが風流韻事として愛好されたのである。
しかし天平人が梅を賞美したのは、白梅の清楚さであった。『万葉集』に梅が屢々雪との関聯において歌われているのも、ただに梅の花の季節に基づくがためのみではない。
梅の花零り蔽ふ雪をつゝいみ持ち君に見せむととれば消えつ(巻十、一八三三)
という歌にはその梅の清純な白の美への愛を物語っている。そうした梅の美は清夜の月光のもとにも見出だされる。
わが宿に咲きたる梅を月夜よみよひよひ見せむ君をこそ待て(巻十、二三四九)
そして梅の花を、ただ梅の花として見ようとするのでなく、月の光において見ようとする所に──それはいわば心的加工である──観照精神の新しき段階が認められる。明晰なるもの、壮健なるものを愛した天平芸術の精神が、爽やかさ、清らかさとしての白梅的なるものを愛したのは自然であろう。
梅に鶯は、もみじに鹿という様に我国では離れ難い取合せとして考えられている。かかる取り合せは前にあげ葛野王の春日翫鶯梅の詩にも見え、
梅が枝に鳴きて移らふ鶯のはね白妙に沫雪ぞふる(巻十、一八四〇)
という様に『万葉集』にも見え、当時すでにそうした風習が行われていたのである。起源は多分中国に求むべきであろう。しかしこの伝統が今日にまで及んでいるのは興味が深い。鶯は必ずしも梅が枝にのみ来て鳴くものではない。鶯は春告鳥とも称ばれるように、逸早く里に来て春のおとずれを先き触れすること、梅と共通しているがため、この両者が結合されたのであろう。
『古今集』には、梅は春の部に収めてある。『万葉集』では冬の中に入っていた。梅を春の季節感にとらえた事は、主観主義的な古今的精神としては自然であった。『古今集』において目立つ事は、梅が特にその香において観照されている点である。『古今集』には梅の歌が二十七首数えられる。その中に梅が香を歌ったものはその過半数の十五首もある。
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるゝ
この歌などでは、花は視覚的には見られていない。ただ暗香浮動という形態の否定された、かつ情緒的にのみ受容される香において味わっているのである。我が国における浪漫主義の勃興したのは、この頃であるが、ここにも情緒的観照の浪漫主義がうかがわれる。
梅の花それとも見えず久かたのあまぎる雪のなべてふれゝば
というこの歌も、花に焦点を向けてはいない。それは繽紛として降りしきる雪の中なる梅である。そこにも浪漫的な情趣主義がひそんでいる。
紅梅が好まれるのもその頃からである。『古今集』では明らかでないが、天暦五年(九五一)編纂の『後撰集』になると紅梅の歌が現われて来る。『枕草子』(前田家本)に
木の花は、梅は、まして紅梅は濃くも淡きもいとをかし
といっている。梅は何よりも紅梅である。そのあでやかな色彩の美くしさが魅力だったのである。清少納言は、梅のあとにすぐ続けて、
桜の花びらおほきに、花の色濃きが、枝細くて、葉はまれに咲きたる
としるしているが、当時藤原人が求めていたものが、いかに感覚的な華麗なるものであったかを知る事が出来る。藤原時代は色彩感覚が発達して、服飾の色目なども従来より著しく多様となり、色彩の微妙なニュアンスを求めるようになった事は、やはり精神史的に大きな飛躍といわねばならない。日本美術がこの時代に至ってはじ めて真の絵画の時代に入ったという事実と、同じ時代精神の上に発生した現象に外ならない。
(昭和二十四年十二月 『梅花』第八号)