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源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。

【引用】日本絵画史における花-5

(長谷川等伯 萩芒図屏風)

日本人は古くから、秋草に対して格別な愛をいだいていた。

『万葉集』巻八に、山上憶良が、秋の野の花を詠める歌として秋の七くさをあげている。

秋の野に咲きたる花を指折りてかき数ふれは七種の花
萩が花・尾花・葛花・なでしこの花・女郎花・また藤袴・朝貌の花

このように、特に七つの花を選んで、秋を代表する花として賞美したということは彼らがいかに強く秋咲く花に心をよせていたかを思わせる。ここにあげられた秋の七草の中の朝貌の花については、今日多くの学者は桔梗と解釈している。しかし、私はほかならぬ朝顔そのものであるとみるのであるが、このことは本課題からそれるのでここではふれない。

その七草の筆頭に萩の花をあげたのは単なる偶然であろうか。『万葉集』の巻八は歌をすべて四季にわけてい るのであるが、その秋の歌一二五首の中に、前記の七草を列挙したのを別にして、秋の花としてうたわれている のは、萩尾花・なでしこ・女郎花の四種である。そのうち、萩は三二回、尾花五回、なでしこ三回、女郎花は 二回と、萩が圧倒的に多い。

このような比例は、『古今集』以後になると必ずしも同じではない。たとえば、女郎花がその数を加えてくるし、あらたに菊が著しく台頭してくるが、それでも萩はその優位を失わない。藤原時代の最も中心的な時期の作歌を集めている『後拾遺集』の秋の歌についていうならば、萩は二〇回、菊一二回、女郎花六回、尾花三回、朝顔と葛が各一回という割合である。このように、萩が秋の花として七草の筆頭におかれているのも大きな理由があるのである。そうして、それが秋の花として象徴的な草冠に秋の字を結合した「萩」という字をあてているのも、また大いにうなずかれるのである。しかしはぎを「萩」という字であらわすのは、平安朝時代以前には見あたらない。元来、萩という字は、中国では日本ではぎといっている植物を意味する字ではない。萩なる文字は、中国では「蒿」とも書かれ、その意味する植物はよもぎの一種であるらしい。

『万葉集』には、はぎを多くは「𦬤」の字であらわしている。𦬤は、『康熙字典』では一種の草の名としるすのみで、その草がいかなるものであるかは説明していないが、奈良時代のころの知識では、おそらく日本のはぎはこの中国の𦬤にあたるものと考えていたのであろう。

『万葉集』にはまた「鹿鳴草」ともしるして「はぎ」にあてている。これは、『万葉集』によく見られる一種の機知的なあて字である。
鹿と萩とは、うぐいすと梅とのように観念の上ではいつも結びつけられていたのである。大伴旅人の歌に、わが岳にさを鹿来鳴くはつはぎの
花妻問ひに来鳴くさを鹿

とあるが、いかにも「鹿鳴草」のアイディアが理解される。

はぎは平安朝の初めのころには、いわゆる万葉仮名で「芳宜」や「波岐」などともしるされている。このはぎを、「萩」という今日普通にわれわれが使用している漢字であらわすようになったのはいつか。寛平四年(八九二)僧昌住の著わした『新撰字鏡』には、「萩」の字をまだ「いら」にあてているが、承平(九三一─九三八)年中に源順の編纂した『倭名類聚抄』には、鹿鳴草の下に萩の字をしるし、波岐(はぎ)と読んでいる。『新撰字鏡』は、中国の文字に忠実ならんとしているのに対し、『倭名類聚抄』の立場は、むしろ日本を主にしているので、必ずしも寛平時代にまだ萩の字が、はぎとして用いられていなかったとはいえないとしても、おおよそ一〇世紀のはじめには萩の字が今日の意味で用いられてきたと見てよいであろう。このことは日本のつばきに、中国で全く別の植物を意味する「椿」という字をあてているのを想起させる。もっとも、このつばきを意味する日本的漢字の「椿」という字は、すでに『万葉集』に用いられている。

しかし、萩はいかなるその美しさが賞せられたのであろうか。

『万葉集』をはじめ、『古今集』以下の歌集においても、萩の視覚的な姿や、花などを直接にうたったものはほとんど見あたらない。これはただ単に萩についてばかりではない。桜も橘も、あるいはなでしこも全て同じである。彼らはただそれぞれの有する独特なイメージ(表象)に付随した季節的な雰囲気を、情緒的に表現する媒体としてそれらの植物の名をもちだしてくるにすぎない。すなわち、萩ということばをそこにいいあらわすとき、秋の山路で見た萩、あるいはわが庭先に咲いたなどのイメージが、その咲いていた環境や空気と結びついて、 そこに豊かな表象の世界が絵のように思い浮かぶのである。

本来、歌という文芸のジャンルが表現する世界は、より多くこうした情趣的世界であるが、日本人の芸術的性格は、本質的にものを情趣的に見る所にある。対象を客観的に写実的に表現するという様式は、日本の芸術においては非常に稀薄なのである。

和歌においては、萩は鹿と結びついて秋の野のわびしさを表現するか、白露と結びついて秋の朝のひそけさを うたうのが最も多い。
鹿の朝立つ野辺の秋萩に 玉とみるまでおける白露(大伴家持)
高円の野辺の秋萩このころの 暁露に咲きにけむかも(大伴家持)
しかし、萩の姿は特に花が際だってあでやかというのでもなく、人の目をひく枝ぶりのおもしろさをもつのでもない。そのようなつつましやかな姿ではあるが、なよやかな曲線を描いて大らかにしなだれたその形や、紫がかった淡紅のこまかな花の房には、情緒的な若い淑女の美しさを思わせるものがある。そこに、萩が秋咲く花の中で最も愛好せられた理由がひそんでいるのである。

萩が造形芸術の上に姿を見せるのは、藤原時代より古くはない。西本願寺蔵のたぶん藤原時代元永(一一一八─一一二〇)のころの書写と見られる「三十六人家集」の料紙の中に、萩などの秋草むらに、鹿とそれに猫のいる図をあらわした唐紙がある。唐紙は読んで字のごとく、唐から輸入された工芸紙で、さまざまの意匠を雲母摺りにしたものである。

しかるに、萩は中国の絵画にたえて見ないもので、この秋草文様は日本で考案されたものとすべきである。ここに描かれている萩は、ゆるやかな曲線をもってたわみうなだれ、いかにも藤原時代の優雅な美的感覚をたたえている。

純粋な絵画としては「源氏物語絵」の御法の巻に、光源氏が今わのきわの紫の上と対面している場面の庭先に、一むらの秋草、女郎花尾花といっしょに描かれた萩がある。絵具もはげ落ちてややさだかではないが、その風に吹きそよいだなよやかな曲線は、紫の上が、
おくとみるほどもはかなくともすれば 風に乱るる萩の上露
とあるのに照応している。しかし、それは同時に藤原時代的感覚の表現様式にほかならない。

しかし萩の絵として最も美しいのは、栂尾は高山寺の「鳥獣戯画」の中に見出される。

これは、蛙と兎とが相撲をとっている場面の背景に描かれている。この絵巻はすべて墨描きでいわゆる白猫で あり、その暢達した筆致はむぞうさではあるが、美しい音楽のようなリズムで左右に大きく曲線を描いた萩の姿が、濃墨であらわした花房のアクセントを伴って、流麗でしかも堂々とした表現で示されている。この「鳥獣戯画」の画家は非常に秋草の美しさを理解していた人である。そこにしきりにくり返されている秋草の表現は、どれ一つを見ても魅力的であり、藤袴や女郎花の表現には、独特で優雅な美しさがある。

この「鳥獣戯画」四巻は、古くは鳥羽僧正覚猷の筆とされていたが、四巻は大体三つの時代に分かれており、その最も早いものでも鳥羽僧正の時代にはさかのぼらない。この萩の絵のある巻は、たぶん鎌倉時代の初め、建久(一一九〇─一一九九)のころの作と考えられる。

この萩の絵に似ているのは出雲大社の蒔絵の手箱で、そのふたの表には、少しく左にかたよせて一株の萩が右へゆるやかにしなだれている。

そこには三頭の親子の鹿が遊んでおり、よく見ると萩の葉陰には松虫がひそんでいる。

また、ふくら雀か十数羽の小鳥が枝の上にも空にも群れている。のどかな秋の情趣が、ここでは同時に装飾的な優雅さを帯びて描かれている。この手箱は一三世紀に入るであろうが、日本民族本来の装飾的感覚を典型的に表現したものといってよい。

ことに秋草のなよやかな曲線的形態と、デリケートなやさしさとは、日本人の優美な感覚に最も適したのであろう。日本の典型的な絵画である大和絵においては、好んで秋草が描かれるのである。

足利時代は宋・元から学んだ水墨画の時代であったが、また一面では彩色の花鳥画が中国から伝えられた。雪舟の花鳥屏風のごときはその例である。

伝統的な大和絵も、その刺激を受けて純粋な花鳥画を作ることが始まっている。

明応六年(一四九七)土佐光信の描いた「石山寺縁起絵」には、紫式部が石山寺の局から月をながめている場面に金地の秋草屏風が描かれている。そこには尾花といっしょに、しゃんとまっすぐに立ちあがった萩の姿がうつされている。鎌倉以前のように、もはや根元からたおやかに彎曲した形を描いてはいない。ただ先端においてなだれているのみである。

しかし、北村四郎博士にうかがうと、日本で昔から普通に観賞せられたのはヤマハギで、萩そのものの好みが時代によって種類を異にしたのではないらしい。そこに、時代による美的感覚の変化が、表現様式に影響している事実を見出すのである。

私はこの際、足利時代の庭園に用いられている石が、著しく稜角性を帯びると共に垂直性を強調していることを想起する。足利時代は厳格な美が求められたのである。

この傾向に桃山時代にも続く。もっとも桃山時代には漢画系統の花鳥画が一面大和絵精神と合体して、ここには独自な、装飾的でしかも雄健な花鳥画が盛行したが、いずれかといえば、漢画系の花鳥画には萩を描くことが少ない。

画の伝統には、元来萩を描くことがなかったことによるのであろう。

それでも、長谷川等伯は智積院のふすまに、つっ立った紅の萩と白萩とを入りまぜて描いている。ここでは今までに見ない写実的で生彩のみなぎった表現を見せている。

桃山時代以後の日本の画壇は、一方に風俗画、一方には花鳥画と、この二つのジャンルが最も支配的であった。萩を描いた作品も、かぞえればきりがない。

中でも、東福寺に蔵する六曲一双に、純粋に紅白の萩ばかり描きつらねた屏風絵のあることを注意したい。単調ではあるが、萩に対する深い愛好の反映である。

最後に私は、萩の絵として私の最も好きな作品を語ってこの稿を終わりたい。 

元禄京都の画家尾形光琳は何といっても秋草の画家であった。彼の筆による秋草図は、金地極彩色のものも数点ある。しかし武藤金太氏所蔵の、むしろ淡彩ともいうべき六曲一双の「秋草屏風」は、日本の民族的 な、優雅な大和絵精神と、瀟酒をよろこぶ粋な江戸時代の感覚とが合致した代表的な作品である。そこに描かれた萩は、これも足利時代以来の直立したであるが、墨をまじえた萩の枝葉の瀟洒な美しさは、彼の絵具皿のみ がつくりだした粋な淡紅でいろどった花との対照によって、ひとしお清新さを加えている。

このような絵画における萩のみでなく、庭園の前栽としての萩にもふれるべきであったが、予定の枚数を越えるので他日を期することにしたい。

(昭和四十年八月『園芸新知識』第二〇─一二号)

 

 

 

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