源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。
三 桃山時代
現在の南禅寺方丈は慶長十六年(一六一一)京都御所の一部を賜って移建したものであるが、それらの建築は元亀元年(一五七〇)信長の沙汰として工を始められたもので、そこに画かれている襖絵はその当時の製作と見ていいであろう。それに動員された画家は、その画風からみて何れも狩野派の一門と考えられるが、それは元信歿後の当時にあっては、当然、狩野松栄が中心作家としてその子永徳などを率いてこれに従事したと思われる。この南禅寺方丈の襖絵は必ずしも当初のままの配置ではないが、これらの襖絵の主題が圧倒的に花鳥画的であることは注目に価する。それはこの桃山時代の黎明において、すでに花鳥画時代の到来を物語っているからである。
この南禅寺に活躍した作家には一面なお足利的様式としての水墨的感覚を脱しきれず、たとえば枇杷に雉子のいる西側の奥室の如き、著色でありながら土坡や岩などに水墨画の手法をとどめているものが少なくない。しかもそこには元信の花鳥画にも見られなかった強烈な花鳥画への意欲を燃やしている。この南禅寺には桃山的金地濃彩の花鳥画への諸段階が──全く金雲を用いない右の枇杷の図や芦雁図から、雲だけを金にした東の狭屋の間の柳と梅の図、全く金地濃彩の同じ部屋の桜の図の如き──画かれているのは興味が深い。しかし桃山的花鳥画の様式的完成は、少なくもその遺品からみれば、文禄元年(一五九二)前後に画かれたと思われる智積院の障壁画であろう。智積院は秀吉が天正十九年(一五九一)に歿した愛子鶴松のために造営した祥雲寺を継承したものであるが、当時秀吉に深き知遇を得ていた長谷川等伯の一門によってかれたのである。創建当時の祥雲寺の障壁画は、その数量において現在をはるかに超えるものであったとしても、恐らくはその画題は結局花鳥を出でなかったと思われる。その四年前秀吉が母大政所のために建立した天瑞寺方丈には、狩野永徳がその障壁を画いたが、従来の山水花鳥・人物の三様を画く約束を破って、松・竹・梅という単一的花鳥的主題を三室に配していていることにも知られるように、桃山時代の嗜好は、著しく花鳥画に傾いて来たのであった。尤も桃山時代には花鳥画と並んで、庶民の日常的生活を画いた風俗画が盛んであった。しかし桃山時代の装飾主義的精神は、特にこのような寺院の襖絵には花鳥画がより多くえらばれたのである。
智積院の障壁画は、花鳥画とは云え、そこには全く鳥獣は描かれていない。唯植物のみである。永徳の画いた天瑞寺の松・竹・梅は果して純粋に植物のみであったか明かでないが、その可能性を認められる。しかし現実には智積院の障壁画は全く鳥のいない花鳥画である。慶長六年(一六〇一)に狩野光信の画いた勧学院一ノ間の金地濃彩の障壁画も全く鳥のいない花鳥画である。桃山時代に花鳥画が非常に盛行したことは、この時代の新興庶民のはつらつとした官能が、より多く花鳥画という装飾性のゆたかな絵画に傾斜したからであるが、この桃山的装飾主義の結晶が宗達の芸術に他ならない。その宗達の花鳥画、たとえば畠山記念館の光悦筆歌巻の料紙に画かれ四季さまざまの花卉の金銀泥絵、長谷川家の同じく光悦歌巻の桜の下絵など全く花卉ばかりである。宗達工房の作である玉城家旧蔵の金地濃彩の草花図襖は、其の後盛行してくる草花の意匠的配置の先駆をなすものであるが、これも純粋に草花だけである。恐らくその装飾主義的意図からは、花卉のみの構成がより多く純粋性を感じ させたからであろう。この鳥のいない花卉のみの花鳥画は、本来大和絵の伝統的な好みではなかったかと思われる。扇面写経巻八の秋草図はその意味で興味が深い。文明十四年(一四八二)補写の「慕帰絵」(西本願寺)巻一の図中に画かれている松につつじの絵の屏風もその例である。室町系の作風を持つ興福寺蔵松梅芭蕉牡丹の図の屏風もそれである。智積院の障壁画もまさにその系統に属する。
桃山時代の絵画は、大和絵的情趣性と装飾性とを復興させた点に大きな特色がある。智積院の障壁画、たとえば桜図の如きも、今をさかりと咲きあふれた満開の桜には、その背景の柳や山吹などと共に春の抒情がただよっている。里見氏蔵の「紅楓雪柳図屏風」の如きも日本的情趣の濃やかな表出が見られる。それと同時にその賦彩及び構図における装飾主義的造形は此の時代の障壁画の典型を示している。右の桜図に見ても、燦然たる金地に施された豊麗な色彩、それに構図そのものが、卓抜な意匠性をおびている。
四 江戸時代
桃山の官能主義がその絵画的主題をとくに花鳥に求めたのは自然のなりゆきであった。このことは桃山の花鳥画が装飾的に表現された理由でもある。江戸前期における花鳥画の流れにおいて、もっとも大きな存在はいわゆる宗達派のそれといえよう。宗達自身はより多く物語性の題材を主として興味の対象としたかのごとくであるが、いわゆる伊年を踏襲した亜流はむしろ花卉の抽象的配列に独自な画面を開拓した。ここにも鳥無き花鳥画の 伝統が流れている。光琳もかかる花鳥画にその特色を発揮した。光琳は好んで草花を描いている。宗達がむしろ物語を主としたのと対照的である。彼の草花はその先駆者とは異なった意匠的造形に特質を求められるべきである。光琳の構図のリズミカルな配列すなわち構図主義は、花鳥の個々の生態的な美しさではなく、むしろ花鳥を素材としてそこに美的な画面構成を生みだそうとするのがねらいであった。
全般的な傾向としては、桃山時代にみたような金碧花鳥画はむしろ下火となる。狩野派の水墨主義への復帰は桃山的官能的な花鳥画から筆意を主とする瀟洒な花鳥に向わせた。そのことは花鳥画本来の意欲とやや趣を異にしたものを生むことにもなる。探幽の花鳥画(藤田美術館)はその一例といえよう。また官能的な情熱に代って江戸前期に抬頭したのは一種の理性主義である。彼等の冷静な理性は対象を省察し、理性的な秩序とリズムとで配列し、おだやかな色彩で閑雅な形式美を求めた。 大徳寺の「秋草図屏風」はその典型といえる。
江戸時代のこの理性的風潮は学問に於ても科学の発達を促したが、本草学の如きこの新しい科学の一つであった。かかる知的精神は花鳥画に一つの新な作風を発展させた。近衛豫楽院「花木真写」の図巻は恰も植物学の図本である。円満院の祐常門主も科学的写生を試みた。大阪の橘守国の絵本は様々な観賞植物を集めている。こうした風潮を側面的に鞭撻したのは長崎の窓から伝えられた和蘭陀の画風と中国の沈南蘋風の様式であった。平賀源内によって起った秋田佐竹侯等の洋風花鳥画は一つの異例ではあるが、当時の風潮の所産でもある。長崎派の南蘋風も日本美術史としては地方的現象ではあるが、時代の風潮に関聯するものである。
中央においてこの新しい写実主義の様式を花鳥に示したのは円山応挙である。彼以前には長崎派の影響と考べき柳里恭、伊藤若冲があるが、それは応挙の出現を準備する役割をとげる大きな意味をもつとしても、それは一つの流派を発生しなかった。応挙の手法は彼の画技の基底をなした狩野派からきているが、その表現は新しいリアリズムの精神が溢れている。彼は三十三才にして、その独自の様式を完成すると共に、次第に新しい写実的 手法を形成していった。三十三才仙嶺の款記ある「南天に雀の図」から二年を経て描いた円満院の「波雁図」は、もはや筆意を主とする狩野派とは異なって、克明な対象描写の客観的筆致となっている。
桃山時代の花鳥画は鳥よりも花であったが、応挙は盛んに鳥獣を描いた。花は従である観を呈している。そこから芦雪の雀、狙仙の猿、直賢のねずみという特技が出たのである。応挙は魚、中でも鯉を好んで描いた。ただ鯉がめでたいというのみでない。鯉は海魚と異なって彼には最も写実の対象となり得たからである。然し彼が描いた鯉はすでに彼の写生帳に描きとられたその生態といつでも殆ど同じ様に描かれた。ここに彼等が必ずしも常に創作的な生気の表現を求めたのでなく、むしろ形態の客観的真実を求めた事が知られる。しかし応挙のごとき天才にあってはその筆致の生気が対象に生気を与え、それが必ずしも常に生の写生から来たものでなくても十分に芸術的価値をもち得たのである。応挙の写生帳は彼が自然を極めて克明に描写する事に努力し、かつそれがいかに卓越した技能においてなされたかを示す。しかし応挙は人物の描写は得意としなかった。人物の精神描写は当時の客観主義の視覚からは表現の限界外であった。そして当時の町人階級の感覚では(むしろ世俗性を標榜する当時の一風潮からは)人間は一種の卑俗性において描かれ易かったからである。
応挙の作風の修正として出現したのは四条派であった。四条派の確立者呉春は対象をその客観的真実において描写する事と共に、蕪村から学んだ俳味的な詩情の表現を意図した。さらに彼の意図したのはその軽妙な南画的筆致による機知的表現であった。彼はしかし花鳥が得意とはいえない。より多く風景が彼の特徴を示している。呉春の弟の景文は花鳥をもっとも得意とした。呉春と異って、色彩家でもあった彼が、花鳥を愛したのは理由のあることである。然し四条派の本質は刷毛さばきの器用さ軽妙さにある。景文の花鳥はその点において四条派画家中もっともすぐれた一人である。その「七草図」は一つの典型的作品といえよう。
この時代には、蝶ばかりを群れ飛ばせて、一種の装飾性のある画面を構成させた香住大乗寺の山口素絢の画の如きがある(これに類するものは琴平神社にもある)。尤も蝶やとんぼの如きものを描くことは元信の霊雲院の水墨画の襖絵にもある。更に克明な写実性をもって描かれたものには大徳寺の「秋草図」がある。そこにはあげは蝶な どが極めて精緻な筆で描かれている。しかし蝶のみも、その昆虫学的な種類の豊富さにおいて、かつその正確さにおいて描写した素絢の大乗寺の作品は注目に価する。
江戸後期のリアリズムは浮世絵にも花鳥版画の製作を要求した。浮世絵画家もその春信や清長はその人物のバックに花鳥的な添景を描いたが、歌麿の如きは当時の狂歌の流行と結んだ花鳥的画集を刊行した。絵本『虫えらび』などその例である。しかしそこには狂歌的表現でなく、おだやかな情趣的に見られた動植物の表現がある。北斎は一枚摺の作品を多く描いた。多分五十才以後天保前後の作であろう。北斎的な特殊な筆致で神経の苛立った輪郭をもったその表現は彼の人物風景と一致する。しゃがの花やかわせみの図の如きも彼の独特な性格を露出している。広重もすぐれた花鳥版画を作った。多少圭角の鋭さをもっているが色彩も構図も極めてすぐれている。
南画は本来山水本位である。しかしそのピューリタニズムは花鳥の中にもその趣味にかなうもののみ択んでいる。梅・竹・蘭・菊は四君子と称せられて南画人の好む所であった。南画の我が国における創始者祇南海も梅をよく描いた。大雅も『八種画譜』を学んで四君子を彼独自の飄逸さをもって風韻の秀でた作品を作った。しかしそこでは対象の自然は全く無視され、彼等の理念的表象が端的に描かれたのである。
蕪村は写実的性格を一面にもつ人であった。彼はむしろ長崎派的リアリズムを以って屢々鹿や馬や鳥を描いた。彼に学んだ呉春が応挙に身を寄せる理由でもある。しかし寛政以来のリアリズムの風潮は南画壇にも波及せずにおかなかった。柳里恭も南画的傾向の一人であったが、その感化もあって、野呂介石のごときも顕著な写実性をもって、一種の高邁な風格をおびた花卉を描いている。
竹田も好んで花卉を描いている。彼の画冊にはその佳品がある。ぼたん、水仙、栗など好んで藍墨の清雅な色調をもって描いた作品が多い。花卉をもっとも得意とする南画家は山本梅逸、殊に浦上春琴である。南画が求め る高逸な風格は必ずしも求めがたいが、なお江戸的な倫理的理念としての君子的精神をもったその筆致と色調において、花鳥を写実的に描いた点ですぐれた花鳥画家であった。江戸における渡辺崋山の花鳥画はその高邁な風格と、洋画にも心を寄せていた彼の自然主義的な作風が、気品のある精確な花鳥を描いた。そしてそれは明治に及ぶ江戸派の花鳥画の根底を築いたのである。
(昭和四十年十月 『日本の花鳥画』)