源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。
日本の花鳥画
日本美術史における花鳥画
一 鎌倉時代
日本民族の芸術は、その表現内容の面からは情趣主義、表現の造形方式の面からは平明性、そしてその美的性格の面からは優美主義という風に特徴づけることができる。日本民族のこの人間主義的な情趣的性格は、いきお人間の世界の表現に向い勝ちである。そこに、日本美術における最も代表的な芸術が絵巻であり、かつその絵巻は、何れも人間の情趣的な生を描写した物語が主題となっている所以である。そして、藤原時代の貴族達がもっとも好んで彼等の住居をかざった屏風には、四季の風物を各扇(屏風の各枚)に描いたが、それらはたとえば「をんな庭にいでて梅花残雪をもてあそぶ」、「池のほとりに藤の花ありて水にのそみてこれをみる」というように、自然の景観をえがいてもそこには人間の参加した、一つの情趣的なおもむきが表現されていた。それ故、日本の絵画に、人間社会とかけ離れた花鳥が独立した画題として出現してくるのは、日本の美術史が新らしい転機に立った鎌倉時代末より早くはなかった。
中国では、花鳥画というものが発生したのは、日本よりはるかに古く唐時代である。宋に至ってはそれが画院の正系を形づくり、いわゆる院体の伝統として根強く中国の歴史を貫いている。しかし中国の花鳥画は、何よりも対象の生態の克明な描写を本意とした。無論、単なる理知的な客観的描写ではなく、あくまでも対象の本質を表現しようとする一種の形而上学的な芸術観がその根底にひそんでいるので、そこには厳粛な生気がこもっている。しかも中国民族独特の緊密な均衡をもった構図は、造形的にも気韻の高い美しさを帯びている。わが国に伝来し現に保存されている宋の徽宗皇帝の「桃鳩図」、李迪の「芙蓉図」の如きはその極めてすぐれた作例であもっとも、こうした全く背景を絶した折枝画がいわゆる院体の典型的作品ではあるが、実は、むしろ古くから景観的な花鳥画、たとえば知恩院の久しく徐熙の筆と伝えられてきた南宋の於子明の「蓮池水禽図」の如き、より絵画的構成の作風が、かえって一般的な花鳥画であった。西本願寺蔵趙仲穆筆という元画の「柳鷺図」、東京国立博物館の明の呂紀筆の「四季花鳥図」はこの形式の典型的な作例である。
日本における独立した花鳥画の出現をいつに置くか、これは必ずしも簡単な問題ではない。さきにも述べたよ うに藤原時代の四季屏風には、「松にさける藤の花」や「河のほとりに鶴のむれゐたる」ところなどが描かれているが、花鳥自体の描写であるよりも、情趣的景観の表現であったと考えられる。しかるに扇面写経の中に、柏の木に鷹と覚しき鳥のとまっているもの(四天王寺)、また同じく柏の梢にうそのとまっているもの(藤田美術館)、ことに東京国立博物館蔵の秋草を画面の左方から恰かも折枝画的に描いたものが見られる。扇面写経は様式としては藤原的であるが、平家がほとんど亡びた頃の十二世紀末の作品で、恐らくは中国花鳥画の影響を感受した結果と思われる。柏に鷹の図の如きは宋の花鳥画に好まれた画題であった。しかし秋草の図の様式は全く日本的といってよい。しかしこれをはたして日本花鳥画の自律的な発生として見るべきかどうかは問題である。まだ鎌倉時代後半に入るまでは、花鳥画と称するに足るものはじじつ見出さない。もっとも単に工芸品の装飾としては、花鳥を素材としたものは少しもめずらしくない。すでに正倉院の御物には豊富にその例が見られるが、それはむしろ模様的だというならば、時代を下って、河内金剛寺所蔵の蒔絵の手箱に描かれているえの子草やおおば この雑草の生えている傍に雀の遊んでいる図をあげよう。それは著しく絵画的な意匠である。これは蒔絵の技法としては藤原的な伝統が濃厚であるが、その写実的な描写はやはり鎌倉時代に入るものと見るべきであろう。鶴岡八幡宮の籬の菊に雀を配した蒔絵螺鈿硯筥、出雲大社の萩に雀の蒔絵手箱なども鎌倉時代初期における一種の花鳥文様である。和鏡にも絵画的な花鳥文様が藤原末あたりから盛んになってきた。
本来楽天的(オプティミスティック)な日本人の性格は、自然に対して親和的な愛情をもち、それへの味は日本文学の主題における大きな部分をなしている。ことに花・鳥に対しては、それが自然の中にあっても特に人の感覚をたのします「美くしきもの」であるだけに、深い関心があったのである。そこに文様もしくは意匠という主として美的感覚に訴える造形において、本来「美くしきもの」である花鳥がその素材として愛好されたのは当然である。まして花鳥という時のうつろいを感じさせる情趣的な対象は、時間的世界観の日本民族の抒情的性格において、特別な親愛感をいだかせたのである。
しかし花鳥が、絵画として、それ自身鑑賞の対象として取りあげられたのは、鎌倉時代の後半期をまたねばならなかった。ただ今日はその頃の十分な花鳥画の遺品を見ることはできないが、当時の絵巻の画面の中に描かれた屏風や襖や杉戸に、文句なしに花鳥画と云えるものが盛んに見出される。十四世紀に入って間もなく画かれた知恩院の四十八巻本「法然上人伝絵」の如きには様々な花鳥画が画かれている。ことに第三十六巻の摂津勝尾寺の本堂外陣の襖には、桃山様式とも見まがうばかりの梅が描かれている。大体この鎌倉時代に入ると、次第に花鳥画的趣味が高まり、絵巻において情景的描写の点景に花鳥的要素が、絵師の格別な嗜好をもって描き加えられている。比較的鎌倉時代の早い頃(一二二〇年ごろ)に画かれた「北野天神縁起絵」には桜や梅の美しい絵が見られると共に、鳩や啄木鳥が写実的に描かれている。それが末期になると一層著しくなってくる。高階隆兼筆の「春日権現験記絵」には、ほほづきや、梅の枯木にぶらさがったみの虫の描かれている図もある。これは時代の精神的風潮の方向転換を物語るのである。つまり従来の古典的な人間中心的傾向から、浪漫的な自然中心の思想的方向へ移っていくことを意味している。
しかし厳密な意味の花鳥画の成立したのは、まだ鎌倉時代の後期でもなかった。鎌倉時代の末に現われてきた花鳥画は、従来の貴族的社会の温床にはぐくまれて来た大和絵における情趣的点景に外ならなかった。しかるに、鎌倉時代の中頃から徐々として日本文化の上に影響を与えつつあった禅宗は、足利勢力の京都進出と共に絶対的な支配力をもち、芸術においても官能否定の方向に展開し、水墨画の全盛を現出するに至った。大和絵は、さなきだに貴族社会の衰えによって斜陽的状態におちいっていたのであるが、ここに一層の拍車が加えられて、著しい落ち目に向わねばならなかった。
もっとも、鎌倉時代の末に新しい花鳥画的方向への展開を示しつつあった大和絵は、必ずしもその発展の芽を枯らしてしまったのではないが、少くともそこに頓坐を余儀なくさせられたのである。しかしそれが、足利時代の後半期に来ると、新しい姿をとって日本の花鳥画が生れはじめたのである。
二 室町時代
鎌倉時代の末以来、逸はやく鎌倉を中心に水墨画の鑑賞が盛になるにつれ、梅・竹・蘭・葡萄等の水墨花菓図が、一つのジャンルとして行われた。墨梅は揚補之や華光、蘭は雪窓、葡萄は日観の如き専門作家をもつ宋元画壇の反映ではあるが、それはおのずから絵画的主題としての花鳥への関心を促して行った。鎌倉末の絵巻にはよく筍の生えた竹林が描かれているが、藤田美術館の「玄奘三蔵絵」にそのよき例がある。恐らく舶載された竹林図の墨絵から来ている事を思わせる。そしてそれが日本の画家の筆にかかると、康永三年(一三四四)の奥書のある千葉県照願寺の「親鸞伝絵」第二巻第四段に見られる様な、杉戸に大きく画かれた、著色の竹に虎の絵のようなものに発展するのである。
中国の花鳥画は、前にも述べたように、特に五代前後から発達して来た黄筌や徐熙の作風を継承する著色の綺麗な花鳥画が行われていた。知恩院の南宋於子明の筆になる「蓮池水禽図」などもその系統に属することに元明における花鳥画の発達、それはやがて辺文進、更には呂紀の如き名家を輩出するに至っているが、そういうたぐいのものが、かなり我が国にも入って来た事と思われる。前記照願寺の「親鸞伝絵」第二巻第二段の法然房の室内の襖には大きな蓮の生い茂った景観を画いている。こういう風潮が、日本絵画の根底に流れている装飾主義的精神と結合して、襖絵や屏風に花鳥を主とするものを育成した。前田家や大橋家に蔵する雪舟筆の「花鳥図屏風」は彼独特の筆致を主とした淡彩であるが、彼としてはむしろ中国において学んだ所がその根底をなすかもしれない。画伝に小栗宗湛が花鳥をよくした というのは、かかる舶載画の感化を思うべきであろ 「石山寺縁起絵」の土佐光信が画いた第四巻の第一段をみると、紫式部がこもる石山寺のつぼねにたてられた屏風は、金泥を引いた地に秋草が一ぱいに大きく描かれている。これらは、鎌倉末以来の絵巻に見られる花鳥画趣味の発展したことにもよるが、独立したジャンルとして発達していた中国花鳥画からの影響を無視できない。この「石山寺絵」の秋草屏風は純然たる大和絵であるが、三河安城上宮寺の文明十八年(一四八六)の裏書をもつ掛幅の「親鸞伝絵」には、後の狩野元信の金碧花鳥画(白鶴美術館)を思わせる金地彩色の四季花鳥画が、或は屏風、或は襖絵として盛んに画かれている。それは雪舟の墨と筆との意識の支配的ないわば唐様花鳥画に比較すると、はるかに装飾意識の旺盛な妍麗な花鳥画である。すでに十五世紀の後半になるとこのような桃山的花鳥画の兆候が現われていたということは、非常に興味が深い。
こうした屏風や襖に画かれた金碧画は、多分、流派意識から自由な立場にあった町絵師達によって作られたものであろう。彼等は大和絵でも漢画でも画こうと思えばかけたであろうが、むしろ彼等の本領は漢画とチャンポンの大和絵、いわば大和絵でない大和絵私はそれを伝統的な大和絵と区別するために国画とよぶことにする──であった。この上宮寺の伝絵に見える花鳥の障屏画はそれである。画中の障屏画のみではない。この「親鸞伝絵」そのものが国画だといえる。東京国立博物館の桜の描写の美しい「日月四季屏風」も、土佐光茂の筆といわれているが、かかる光茂というような伝統的大和絵画家の本来の作風ではない。もっと自由な装飾的感覚をもった町絵師の筆とすべきであろう。狩野派もかか る風潮に押されて、また大和絵にも積極的に接近して、漢画的筆技をその基盤に把持しながらも、国画的方向に発展した。そこに「清涼寺縁起絵」を画き、白鶴美術館の「花鳥図屏風」を画く元信が出現したのである。
更にこういう我が国の花鳥画の発達に忘れてならないのは、いわゆる院体の小品の花鳥画の伝来である。院体画は勿論小品とは限らないが、小品の折枝画的な院体画に見られる対象の克明な写実的描写と、精細な彩色、そして画面の中央に対象を据える集中的構図は、在来の日本の絵画に見られない様式的特徴である。『天王寺屋会記』等にはこの種のものが相当伝えられていたことを物語っているのみでなく、今日その遺品も乏しくない。徽宗の「桃鳩図」(井上家)、李迪の「芙蓉図」(福岡家旧蔵)、李安忠の「鶉図」(根津美術館)などそれである。中国的なものへの関心からではあるが、やはりその花鳥的主題への共感が、日本の画家を誘って院体的な小品の花鳥画に筆をとらせたのである。宜竹周麟の賛をもつ「長春花と鶉の図」もその一つである。宜竹の詩集『翰林胡蘆集』にのっているこの詩の位置から、それが永正七年(一五一〇)の作であることがほぼ推定されるのであるが、当時すでにこの種の作品が行われていたことは、正木美術館の「紅白芙蓉図」からも証拠だてられる。この図は明応二年(一四九三)入寂の横川景三の賛があって、それはいわゆる義政の東山時代の頃からの一風潮であったことを示している。多分一五五〇年前後の作と見られる曽我宗誉の真珠庵の団扇形の四枚の花鳥図も、院体画を直模したかとも思われる典型的な作品である。
しかし、この院体の非情なまでの克明な花鳥画のもつ強靭な表現は、日本民族の性格の追随しきれるものではなかった。日本ではそういうものがすぐ装飾的に、もしくは情緒的になってしまうのである。しかし院体画が日本の花鳥画に与えた大きな寄与は、何といってもその対象描写の克明さである。大和絵は対象を情趣的にとらえて、客観的写実的には描写しない。花鳥についていえば鎌倉末の絵巻における前栽の花鳥の表現の如き、抒情的点景をかねた装飾的効果を求める所にある。それが足利時代末期元信の時代に現われた著しい特色は、対象の克明な描写である。南禅寺の牡丹と相思鳥を描いた扇面にもうかがわれ、白鶴美術館の元信の花鳥画にもそれが明らかである。 長谷川等伯一門の筆になった智積院書院上段間に画かれている立葵やくちなし、或は燕子花など、現代の視覚にも遜色を見ない克明な写実的表現を示している。 桃山という時代は決して、応挙の出た十八世紀中 葉のような理性の鋭さを加えた時代ではなかった。かかる時代にあの様な写実的表現が行われたのは、私はその前の時代における院体的克明さの修練によるもの多きことを思わずにおれない。
以上述べて来た所で、足利末期に入って著しく花鳥画的風潮の高まってきて、遂に金碧花鳥画の成立するに至 るその道程をほぼ明らかにし得たと考える。金碧花鳥画というものが、ややもすれば桃山時代における新現象かのように思われるが、それはすでに応仁の乱前後からはじまっているのである。しかし日本の美術史の流れから いえば、何といっても足利時代は水墨画がその支配的地位にあった。狩野派もまだ足利期に属する限り、その本格的な画業は水墨画にあった。そこではまだ質朴枯淡をひたすら美の理念として追及した。それが、信長の覇権の獲得による時代の著しい転回は、その芸術の荷い手をもかえ、芸術観そのものをもかえた。野性的なまでに逞 ましい生活感情が、官能を謳歌し生活を讃美した。水墨画が全く顧みられなくなったわけではないが、桃山人が好んで求めたのは、豪放華麗な花鳥画であり、闊達自由な生活姿態の描写、即ち風俗画であった。かくして凡て の画家は花鳥画を画き、風俗画を画いたのである。ことに桃山時代に急に隆盛を極めた寺院や城郭等の造営にと もなう障屏画の需要は、特に花鳥画の空前の発達を促し、日本美術史上最もけんらんな花鳥画の時代を現出したのである。そこにはおのずから新しい桃山時代の精神による様式を発生し、元信と永徳とを一線劃する大きな変 化を示したのである。