close

赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。

京都画壇の展開 

昭和初年の京都画壇

華々しく、「創作の自由」をうたって、官展に反旗をひるがえした国画創作協会は、大正の美術界に清新の気を巻きおこしたが、十年たらずして昭和元年、その中心のひとりであった村上華岳が会を去り、同三年七月には短い声明書を発して解散してしまった。その後、日中戦争勃発までの京都画壇は、津田青楓、須田国太郎ら洋画人の在野での活動があり、いわゆる松田改組によ る帝展不出品の運動もあったが、ほとんどの画家はそれぞれの画塾によって官展の傘のなかに吸収されていった。

国画創作協会は、昭和三年四月に東京府美術館、ついで五月に岡崎第一勧業館において第七回展をもったが、七月、東京帝国ホテルにおいて入江波光、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰ら同人十三名が解散を声明した。国展は第一回展を東京白木屋呉服店で開いたように、常に官展―東京を強く意識した情熱的な会であったが、その解散は淡々としたものであった。十一月、もと会員の徳力富吉郎、甲斐荘楠音、福田豊四郎らは麦僊、竹喬らを賛助員として新樹社を創立したが、かつての栄光を取り戻すことはできず、数回の展覧会を開いて再び解散していった。

国展の多くの同人を育てた竹内栖鳳の竹杖会は山元春拳の早苗会とともに京都画壇を握っており、西山翠嶂、西村五雲、上村松園、国展の麦僊や竹喬、新進の徳岡神泉、池田遙邨らをかかえて東京の院展にも匹敵する大世帯であった。早苗会は、主宰の春挙が御大典用の「悠紀主基(ゆきすき)屏風」を東京の川合玉堂と分かちもって、門下の川村曼舟、梥本(まつもと)一洋らによって陣営を固めていた。画塾も昭和に入って若がえりをみせはじめ、芳文なきあとの菊池塾では契月のもとに宇田荻邨らをはじめ国展に育った岡本神草が加わり、五雲塾では山口華楊が台頭してきた。いっぽう、竹枕会でも翠嶂が堂本印象らをひきいて青甲社を結成して森守明、上村松篁を育て、麦僊は山南塾を開いて小松均、福田豊四郎、院展に移った女流画家北沢映月らを結集し、橋本関雪、芳文門の川北霞峰、石崎光瑤らもそれぞれ家塾を開いた。

群雄割拠ともいうべきこれらの画塾は、それぞれ独自の画風を競っているようにもみられるが、いずれもその檜舞台は帝展であり、各塾ではひとりでも多くの入選、特選、審査員を取ろうとする競争であり、昭和初年の京都の日本画壇は官展の花盛りといえよう。当時の帝展日本画部は搬入二千点に対し入選一割という狭き門であり、入選によって画商がつくという画家の生活に直接ひびくことでもあり、その競争や対立はかなり深刻であった。この時期には栖鳳、翠嶂、松園らが大家として安定した作風をみせていたが、中村大三郎、遙邨、松篁らの新しい世代の活躍がめざましく、なかでも神泉と福田平八郎のみずみずしい感覚は美術界に大きな反響をよんだ。

大正六年(一九一七)、市立絵画専門学校を出た神泉は、十一年、帝展に初入選し、昭和四年にはのちまで彼の重要なテーマの一つとなった「鯉」を出品、その沈潜したきびしさが高く評価されて特選となった。大正七年、絵画専門学校を卒業して特定の画塾に属さなかった平八郎は、早くから帝展に入選し、「鯉」「牡丹」などに華麗な作風をみせ、昭和七年の帝展には「漣」を出品した。「銀地の上にただ群青の色片を配したのみ」のこの作品は、当時毀誉あいなかばしたが、その徹底した写実に裏づけられた作風は、抽象や具象の観念を超えて純粋に迫るものをもっている。

官展全盛のとき、日本画の院展、洋画の二科会・春陽会の画家たちは、それぞれ独自の活動をみせてい た。院展系では速水御舟が大正十年に京都を去り、近藤浩一路は外遊が長く、ひとり富田渓仙が独自の画風 を展開していた。都路華香について四条派を学んだ渓仙は文展にも出品していたが、大正三年、日本美術院の再興にあたって院友として迎えられた。仙崖に傾倒し、富岡鉄斎を慕い、河東碧梧桐ら俳人とも交わるな ど文人的な性格は、その画風にもあらわれ、洒脱な詩情は京都画壇に異彩を放っていた。

大正三年に文展から独立した在野の二科会は、梅原龍三郎、安井曽太郎をはじめ津田青楓、黒田重太郎、前田松実ら聖護院美術研究所から発展した関西美術院系の画家が多く、市立美術学校に学んだ向井潤吉や川端弥之助、田中豊三郎、伊谷賢蔵、伊庭伝治郎ら京都洋画壇は二科会を中心に動いていた。大正十一年に結成された春陽会は、関西美術院出身の足立源一郎がその創立会員であったこともあり、田中善之助、国森義篤らもそれに参加し、国画創作協会解散ののちその第二部が独立した国画会は梅原が中心となり、京都から大橋孝吉が審査員となって活躍した。

こうした洋画壇のなかで大正十五年十月に開かれた津田青楓の洋画塾は、新しい思想をもった美術運動として注目される。 いけ花の革新を唱えた西川一草亭を兄にもつ青楓は谷口香嬌について日本画を学んだが、明治四十年(一九〇七)、関西美術院から安井曽太郎とともにフランスに留学し、帰国後は麦僊、竹喬、黒田重太郎、新井謹也らと共にシャ=ノワールを結成するなど、新芸術運動に参加していった。その画塾は展覧 会を開くとともに、昭和四年(一九二九)、和辻哲郎、中井宗太郎、三木清らを執筆陣とする機関誌『フューザン』を創刊し、翌五年には塾主催で岡崎公会堂に総合美術大講演会を開くなど、めざましい活躍をみせた。大正十五年(一九二六)、日本プロレタリア芸術連盟に美術部が設けられ、昭和初年には京都でもその展覧会が開かれるなどしたが、河上肇とも親しかった青楓はそれにも理解をみせ、プロレタリア美術は「大衆を無意識から意識化へ、未覚醒から覚醒へ、個人から集団へ、圧迫から闘争へと誘導するもの」(『アトリエ』昭和五年九月)としてさらに表現力をきたえよと助言を寄せている。昭和六年、青楓は二科展に「ブルジョア議会と民衆の生活」を出品した。新築の国会議事堂の下にみじめな民家を描いたものであった。翌々八年七月、東京の画室で「犠牲者」(拷問)を執筆中、刑事に踏み込まれて留置され、八月には二科会を脱会し、青楓塾も解散した。以後の二科会は伊谷賢蔵、錦義一郎らによって継承された。

帝展騒動と彩管報国

昭和八年は京都の美術界に一つの画期をもたらす年であった。青楓塾が解散されると、九月にはその若い画学生らが須田国太郎を中心に独立美術京都研究所を開き、青楓塾の北脇昇や関美生らが須田・里見勝蔵らの指導をうけた。十一月には大礼記念京都美術館が竣工し、同月、明治・大正・昭和と京都画壇の中心であった栖鳳の竹会が都ホテルで解散式を行なった。いっぽう、帝展はこの年、文部省主催から帝国美術院主催と変わり、やがて「帝展騒動」ともいわれた松田改組がおこり、日中戦争の開始とともにいわゆる「彩管報国」の運動が始められる。

昭和初年の帝展の審査員をみると、日本画と工芸が二、三名から多いときは十名ほど出ているのに、洋画は毎年鹿子木孟郎か太田喜二郎がほぼ交替で出るだけで、京都洋画壇が東京にくらべ振るわなかったことを物語っているが、青楓塾についで昭和二年(一九二七)の白亜会、六年の各人社、新興美術協会など、徐々にではあるが洋画壇も拡大していった。

四条河原町招徳ビルに設立された独立美術京都研究所の中心的役割を果した須田国太郎は、堺町通六角の商家に生まれ、京都帝国大学哲学科(美学美術史)を卒業し、関西美術院に学び、外遊ののち和歌山高等学校、京都帝大文学部などで美術史を講じるかたわら、関西美術院に出品を続けるという画学両道の異色の画家であった。独立美術京都研究所の創立にあたってはその学芸員として指導にあたり、翌九年には独立美術協会の会員となり「法観寺塔婆」など十六点を出品した。電柱の立ち並ぶむこうにみえる八坂の塔や紀元二千六百年奉祝展に出品した「歩む鷲」など須田の作品には、西洋絵画の伝統をしっかり踏まえ、しかもいぶし銀のような東洋的な深みがあり、京都画壇のみならず、近代洋画史上に一つの峰を形成している。

同志社中学に学んだ北脇昇は、鹿子木、津田、黒田とあいついで京都洋画界を代表する画家に学び、昭和七年、二科展に出品して以来、シュールリアリズムへとむかい、十二年には、十年に京都洋画協会から新日本洋画協会となった同協会の第三回展に、小牧源太郎、小栗美二ら十二名とともに「浦島物語」を集団制作し、楓の実や木片などを写実的に描き、その意外な組み合わせで幻想的な心象風景をつくった代表作「空港」や「探険飛行」などを出品した。さらに十三年、創紀美術協会を結成し、翌年福沢一郎、靉光らと美術文化協会を創立するなど、日本におけるシュールリアリズム絵画の展開のなかで独自の役割を果した。

昭和十年五月、松田文部大臣が在野の院展を引き入れ、恒久的な無鑑査制度など帝展の沈滞を破ろうとす帝展改組案を発表すると、東西の日本画壇はまさに帝展騒動とよばれるような混乱をみせた。翌年一月、栖鳳が各団体を官展に合流するのは美術の発展を阻害するものである、という「新帝展に対する意見」を報知新聞に発表すると、翠嶂、麦僊、五雲らの各画塾もこぞって帝展出品を決め、各塾の長が連名で栖鳳の建白書に賛成の意見書を文部大臣におくるなど、反対運動が高まった。混迷を続けた改組問題は、十二年 (一九三七)の帝国美術院を廃して設立された帝国芸術院、第一回新文展によっていちおうの安定をみたものの、満州事変から日中戦争にむかう戦時体制の進行を背景に、美術界にも国家統制が加えられてきた。

昭和十二年七月、日中戦争が始まると、早くも八月に日本画の研究団体である嵯峨研究所は、「彩管報国」として会員三十余名が扇面を描いて嵯峨小学校で展覧会を開き、その売上金を献納し、十月には自由画壇が国防費献納展を岡崎の京都美術館で催し、十一月には青甲社の翠嶂以下七十三名が、作品を陸軍傷病兵慰問のために寄贈するなど、急速に戦時色をみせてきた。翌十三年になると画家の従軍が始まり、五月末には日本画の竹杖会・早苗会・東丘社・南画連盟、洋画の二科会・独立美術協会・国画会、さらに京都絵画専門学 校などあらゆる画塾画派が集まって京都美術団体代表者協議会をもち、傷痍軍人慰問美術家連盟が結成された。また、それは画家に限らず、十七年には全国染織図案連盟京都支部が肉筆絵扇千本を京都師団に献納し、京都刺繡同業組合も満州国皇帝に献上する刺繍屏風をつくり、十九年には京都漆芸協会が海軍献納漆芸展を開くなど、京都美術界はいやおうなしに戦争の渦に巻き込まれていった。

戦争の進行とともに、「南京入城」(鹿子木孟郎)「キャビテ軍港の攻撃」(三輪晁勢)「基地に於ける整備作業」(山口華楊)「仁川俘虜収容所に於ける英濠兵の作業」(山田新一)「一二月八日の黄浦江上」(橋本関雪)などの戦争画が現われ、絵具や絵絹も配給となり、炭坑や工場へと動員される画家も少なくなかった。昭和二十年四月、京都画壇の中心的な三十余名が、舞鶴海軍軍需部の指定で海軍軍需美術研究所を結成させられ、あの「漣」を描いた福田平八郎を指導主任として射撃の標的を描いたという。

敗戦をまぢかにしたとはいえ、あまりにも悲惨な京都画壇の最後の姿であった。

新時代の胎動

風船爆弾の工場となっていた京都市立美術館は、敗戦から一カ月の昭和二十年(一九四五)九月十五日、はやくも館蔵品による現代美術作品展を開いた。まもなく「進駐」してくるアメリカ第六軍司令部に見せることがあったにせよ、意外にはやい復興ぶりであった。この年十一月には昭和十年以来の京都市展を改組し、全国公募による京展が開かれ、翌年二月には植田寿蔵京大教授・中井宗太郎絵専校長、菊池契月・西山翠嶂・清水六兵衛らを発起人として、美術工芸の作家と研究者・評論家が集まるという新しい形式の京都美術懇話会が結成される。

「文化国家」再建の風潮のなかで、文部省はいちはやく官展の復活をめざし、二十年九月には日本美術展(日展)の開催を決定した。文部省美術展覧会(文展)に対する国画創作協会以来の伝統をもち、またしても東京偏重の官僚的な美術行政に対し、京都画壇はいっせいにこれに反撥した。二十三年一月には青甲社・晨鳥社・菊池塾などの画家たちが、反日展の旗幟を鮮明に「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたって創造美術を結成する。彼らは日展でも中堅に位置する画家たちであり、その新日本画は二十世紀後半の日本画壇にひとつの流れを形成してきた。戦後十数年間の京都美術界には日本画ばかりではなく、陶芸の走泥社(昭和二十三年)、書の墨人会(同二十七年)、京都青年美術家集団による京都アンデパンダン(無鑑査制)展など、新しい芸術の波が音をたててまきおこってきた。

京都の美術は、それが同時に日本美術であった時代はもちろん、江戸・東京の美術が展開する近世以後も、つねに独自の世界をもってきた。現代の日本の美術、京都の美術について否定的な意見も少なくない。そのなかにあって、永い伝統と、国画創作協会から戦後の芸術運動を興してきた清新の気風をあわせもつ、京都の美術によせられる期待は大きい。

arrow
arrow
    創作者介紹

    秋風起 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()