(依《青島東路三號》,台北:大雁文化,2012,第253頁翻拍圖片繕打)

"Autobiography (自敘傳)"

私は1923年10月25日、その頃實父の居た台北市(?)か台中市に生れた。ぶくぶく太った大きな嬰兒だったさうである。實母はその翌日の初夏だったらうか私がまだその乳房にすがって居た頃に長い熱病(恐らく腸チフスだったらう)でなかなられた。間もなく、丁度子供のなかった叔父、叔母(その頃38才位)にもらはれて新營に行った。叔父はずっと20才位の時から新營鹽水港製糖本社に勤務にゐたのである。(それから1950年の夏に老年の故をもって公司を辭するまで實の40數年の長い勤務であった。それも殆んど人事課の忙しい仕事の中にあった。その辛苦は實に淚ぐましいものがあった。實に彼の一生こそは台灣糖業の歷史でもあった。勤勉著實石橋をたゝいて渡るといったやう處生振であった。)それから私は叔父を父、叔母を母としてその慈愛の下に育ったのである。もっとも子供の頃はこの事情を知らず、親身のやうれ育てゝ吳れた父母も仲々真實を知られは吳れなかった。只公學校によってから通信簿に他人とちがって「過房子」といふ文字のあった不思議に思った位である。もっとも鹽水の親戚の者が、時々それとなくほのめかしたことも屢々であった。隨分大食だった乳兒時代の私は、晝夜「ワンシルク」で育てられ、父母のその頃の辛苦は尋常のものではわかった。この事は後に、私が成人となってからも父からよく思ひ出話しとして聞かされた。その頃子供のない淋しさから母の兄の娘(私より二つ年上の四つ)も來てゐた。その子が母のまねをしてタオルで髪のくれけづりやると、私ははって行って髪の毛をひっぱりむれって彼女をして悲鳴をあげさせたといふ腕自振りは後年我儘私をたしなめる為によく引合い出された。勿論これらのことは私の記憶にはない。リンモックにねて居た私がドスンと大きな音をたてゝヤモリのやうにたゝみの上に落ちたことがあったとも父はよくいふ。そのおかげで鼻が低くなったといふ。

私の記憶といふか印象といふか、頭にの二つたもっとも古い出は、母のひざにだかれて見上げた綠濃いブドウ棚であった。それは家の緣側につゞいて張ってゐた。それは全くおぼろ氣な記憶であるが、あの綠色だりは腦裏に繞きつけられたやうに生々しい。大體三つ位の頃と思はれる。四つ五つになるとその記憶はだんだんにかっきりしてくる。家の庭の大きなモクセイの木陰(母はモクセイの花から好きであった。)にゴザをならべて、グリコをたべたのもこの頃だらう。あのハート型のグリコが印象に殘る。

(第一葉)

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