長廣敏雄,〈唐代の唐草文樣〉,《佛教藝術》第8期,1950
はしがき
かつて私は「唐草文樣の展開」という論文のなかで、北魏、北齊の唐草文樣の樣式的發展を述べた。シナに於ける唐草文樣の面白さはなかなかつきぬ。北魏式の單純簡素な三ッ葉の唐草もあれば、唐の銅鏡にみる葡萄唐草のエキゾチックな趣好もある。なおまた唐草文樣を表現する手法にも石材に浮彫したもの、石材に線刻したもの、銅に鑄造したものなどのほか、現在では消滅したが、木造建築の構材の上に彩畫したり、絹に織つたり刺繡したりなどされていたにちがいない。
さて私はこの小論で唐代の唐草文樣を敍べてみようと思う。前出の論文で北魏風唐草の展開を論じて北齊・北周時代までは大體の見當をつけたが、いまはそのつづきを考察してみよう。ただし北周武帝のきびしい排佛令(西曆五七四)の實施があつてシナの重要な寺院が壞滅した時期、さらに隋文帝が即位後ただちに佛教復興をやり(西曆五八一)ふたたびシナ各地の寺院がさかんに建立された隋時代については美術品のない美術史しか成立しないのは、實に殘念である。隋代の唐草文樣はどうもはつきいり判らない。隋文帝はシナ美術史に於て大切な美術復興の政治家であることは、私たちが今日もう一度再認しなければならないのだが、それを實證する作品の資料が乏しいのは、なんとしての残念である。とにかく私は隋代唐草文樣の考察を一應除外して、初唐にすすみたい。
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