II
台湾の地に美術の種を蒔いた,という言い方は,石川ばかりではなく実は塩月桃甫の場合にもなされている。「不毛の地に美の種子を蒔き,それを育て,あの厖大な台展を18回も聞き続けて来た功績は言いようもなく大きい。」──ただしこう語っているのは,こちらの方は台湾人ではなく,日本人画家伊原宇三郎である。すぐれた先覚者,功労者として功績は国境を越えて記録され,感謝されるべきであろう,と言うのだが,その塩月の名は,一部の関係者を除けば,日本では石川ほどにもまず知られていない。これまでの日本近代美術史の上では完全に無名の画家である。
塩月善吉は明治19年(1886)に宮崎県に生まれた。宮崎県師範学校を出たあと一時教職に就き,東京美術学校に入学,明治45年(1912)3年制の図画師範科を卒業した。大阪市での3年間の小学校教員を経て,大正4年(1915)から6年間,愛媛県師範学校の図画教師を勤めた。この間第10回文展に油絵1点を出品しているが,これだけが内地での塩月の画歴である。桃甫の号はその時分からのもので,日本画の南画も噌んでいる。伊原宇三郎との交友は大阪時代に始まり,伊原の美術学校進学は塩月の感化によるところが大きかったらしい。彼の語るその頃の塩月は,元気充溢して奇行に富み,美術学校の〈ちゃかほい風〉そのままの陽気に意気盛んな酒好きである。ちなみに塩月入学時(1909)の美術学校には,西洋画1年に鍋井克之や小出楢重,3年に高鉄五郎や片多徳郎,4年には横井礼ーや小寺健吉,5年には藤田嗣治,山脇信徳らが在籍していた。このような名前を並べるだけでも,フューザン会が始まる明治末年の頃の転換期の日本洋画界の雰囲気が察せられる。
大正10年(1921),台北高等学校及び台北一中の美術教師として台湾に渡る。これは先述のように,石川欽一郎の二度目の渡台に3年先立つ。7年制の台北高等学校の設立は翌日年4月のことであるから,こちらの方は台北一中との兼任講師である。塩月の渡台の理由は明らかではない。当時,日本帝国政府は台湾移住者に奨励金を与え,また植民地の「在勤文官加俸令」によって内地人官吏には極めて有利な俸給と恩給の増額があった。渡台する多くの日本人の動機には,政府の奨励策に伴うそうした現実的な実利主義があったという調査報告がある。塩月の年譜によると,2年後の大正11年(1922)「今上陛下台湾御巡幸に際し『蕃人舞踊図』(100号)を所望され献上」とあり,続いて6年後の昭和2年(1927)「台湾総督府美術展を創設,以後18年審査員」とある。展覧会名は正しくは〈台湾美術展覧会〉とすべきだが,先の伊原の賛辞にもあるように,25年間にわたる長い台湾時代の塩月の最大の業績としていちばん重要なものが,この〈台展〉に相違ない。
昭和初年の頃,台湾には新聞で〈画伯〉と呼ばれる4人の日本人画家がいた。最年長の石川以外に塩月と,他に京都で竹内栖鳳の門に学んだ経歴をもっ日本画家の木下源重郎(静涯)(1889-)及び年令は6歳下であるが東京美術学校の図画師範科第1回卒業生で2年塩月の先輩に当る,日本画専門の郷原藤一郎(古統)(1892-1965)である。郷原は大正6年(1917)に来台の後,台北一中や台北二中,台北第三高等女子学校の図画教師を歴任し,昭和11年(1936)に帰国した。木下の来台は不詳だが,淡水に住んで悠然と南画風の日本画を描き,家塾で教え,戦後に故国に引揚げて小倉に住んだ。この4人による黒壷会が,新作発表展を毎年聞き,また日本画家の2人を中心に日本画協会が組織されていた。
塩月の来台当時,記録によると,台湾の住民総数は397万人で,内訳は漢人367万,山地人8万,日本人18万,その他外国人3万である。台湾人の適令児童の就学率は32パーセント,学校は邦人児童のための小学校と差別されて,公学校と呼ばれていた。東京留学の台湾入学生はおよそ2400,このうち美術学生は30人程で,数名が東京美術学校に入学していた。これらの美術学生を中心に,台湾に七星画壇や赤島社のような小さいながら新しい自発的な活動が,大正末から昭和初期の 1920年代に既に始まりつつあったことについては,先に触れた。帝展や二科展入選の台湾人画家も出始めていた。日本では大正アヴァンギャルドのフィナーレの時代,プロレタリア美術運動の開幕の時代で,在日台湾留学生を中心にした民族主義社会文化運動誌『台湾青年』が,当局の干渉を受けつつ台湾に拠点を移し,週刊『台湾民報」に展開する時期である。

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