石川欽一郎というと,専ら大下藤次郎や三宅克己らと並ぶ明治時代の代表的な水彩画家の一人として名を知られる。イギリス水彩画家アルフレッド・イースト仕込みの本格的な風景画の秀作によって,ただ知られているに過ぎないかのようである。前後20年近く台湾で過ごし,そこでの美術活動を通して植民地における美術家の育成に絶大なる影響を及ぼした,生涯の業績に関しては,殆ど知られていないといって過言ではない。この人抜きには台湾の美術は語れず,また台湾抜きにはこの人の芸術は語れないに違いないほど,台湾体験は彼の人生と芸術に本質的なものと化していたかにみえる。

石川は明治4年(1871)に静岡市に生まれた。まもなく東京に移り尋常小・中学時代の早くから絵や英語を学び,キリスト教に入信,21年(1888)に逓信省郵便電信学校に入って,ここで明治初期洋画家として知られる小代為重に西洋画を学び,外人教師の英国人ウィリアム・メーソンに英語を習ったらしい。翌年に大蔵省印刷局に見習生として採用され,ここで上司の川村清雄の指導を受けるが,川村は周知のように明治14年(1881),10年余の西洋遊学を終えて帰国した明治洋画の先駆者の一人である。また正則英語学校で英語を学習,22年(1889)のアルフレッド・イースト来日の際には川村と共に親しく接し,案内役を務めるなどして,水彩画の目を開いた,ということのようである。24年(1891)に明治美術会に入会して,以後展覧会に何回か水彩画や油絵を出品している。6年後に入局した11歳年下の石井柏亭は,石川の影響によって洋画の道に入る。「如何にも其人格が上品」な当時の石川のことや,印刷局内に生まれた洋画グループ紫瀾会のことなど,柏亭の自伝に詳しい。柏亭は,石川が三宅克己から譲られた絵具箱を,石川から貰い受けている。

32年(1899)に職を辞しで渡英,アルフレッド・イーストに水彩画を学び,帰朝後に水彩画家として「一家をなした」という記述があるが,これについては疑義もあって不確実である。ともあれ明治33年(1900)4月には,石川は英語の能力を認められて陸軍参謀本部通訳宮となり,北清事変の講和会議に出席のために大陸へ従軍している。天津付近で足を負傷したのがこの時である。翌34年(1901)川村清雄,五姓田芳柳,東城鉦太郎らと明治美術会を退いて巴会の創立に加わり,例年の展覧会に出品する。37年(1904)日露戦争が勃発すると第五師団総司令部付通訳官として満州へ出征年間中国東北部で過ごして遼陽会戦を体験,多くの戦地スケッチを描いた。20余点ものスケッチを第5回巴会展に送っている。38年(1905)に帰国すると,創刊間もない大下藤次郎主宰の「みづゑ」誌に「水彩画景色速写法」(39年2月号)や「スケッチ雑談」(4,5月号),「アルフレッド・イースト氏の写生談」(40年3,4月号)の翻訳文等々を書き,40年(1907)創設の第1回文展に水彩画『森の道』を出品した。

この年10月に36歳の石川は台湾総督府陸軍部通訳官として台湾に派遣されることになり,こから彼の台湾生活が始まるのである。同時に彼は国語学校,後の台北師範学校の美術教師を兼任する。倪蒋懐のような優れた生徒をここで教えるが,石川自身は内地画壇の活動に専念し,巴会や文展にはるばる作品を送り続けたり,『みづゑ』第35号(明治41年4月)から第48号(42年3月)にいたる「イースト氏写生談」の連載を初めとする美術論や技法解説等を,大正2年まで7年間にわたって殆ど毎号寄稿し続ける。水彩画家としての彼の知名度は,作品そのもの以上にむしろこの文筆活動によるところが大きかったと思われる。42年(1909)には,大下藤次郎,丸山晩霞,鵜沢四丁と共著『最新水彩画法』(博文館)を出版している。これは,『みづゑ』の文章や水彩画講習会での講演類を,引っ括めて集成した本である。

この頃には,時の佐久間総督の山岳地帯平定のいわゆる「理蕃事業」視察に従って全島巡歴の機会を得,この時の中央山脈地方の幾多の風景写生によって,独特の台湾の自然、表現に深く会得 するところがあったと思われる。異郷の自然風景に,彼は自分の水彩画の主題を見出したのである。42年(1909)には台北中学校で紫瀾会水彩画展を開き,翌年には第1回総督府中学校写生班展覧会が聞かれているが,これは既に石川の地元活動のあらわれである。明治45年(1912)白馬会の解散のあと結成された光風会に石川も加盟し,『みづゑ』に連載の西洋画実技指導の解説を集約した『洋画印象録』を目黒書店から出版した。翌大正2年(1913)に石井柏亭,丸山晩霞らによる新しい日本水彩画会の設立に参画する。彼が三宅克己との二人展を台北市の鉄道ホテルで開いたのは,次の年(1914)で,作品は総督府買上げとなり,また絵葉書に印刷されて広く人気を呼んだ。この年に,これも西洋画制作の実際を解説した,石川の写生論とも言うべき『写生新説』を日本美術学院から出版。国民美術協会展や水彩画沿革展(大正5年)に出品はするが,肝腎の光風会展や日本水彩画展への出品は途絶えがちである。遂に大正5年(1916)台湾総督府落成の年に公職を辞して,故国に帰っている。

以上が明治40年(1909)から大正5年,36歳から45歳に至る石川欽一郎の9年にわたる第一次台湾滞在である。たまたま,日本美術界の最初の制度確立を意味する文展創設の同じ年から,画壇が活発に揺れ動く再興院展や二科会結成後の時期に至る9年間の,中央画界から遥かに離れた外地勤務は,壮年期の画家石川にとっては,恐らくは不本意なものであったはずである。遠隔の外地からの文展出品や,光風会や日本水彩画会への参加,『みづゑ』への間断ない執筆や,東京からの著書の出版は,彼の中央志向の強さを歴然と示すといえる。しかし9年間の長い台湾生活の過程で,彼が次第にこの地の自然風物に慣れ親しみ,台湾の若者らへの絵画の実技指導の日常の中で,いつか独自の水彩画表現をそこで生み出していったのも,確かであった。台北美術館の白雪蘭が分析的に論じていた。石川の絵の特色──中景構図法や精粗の変化に富んだ筆法,清雅明快な彩色法,点景人物が庶民的な生気を醸し出す田園風景のリリカルな主題等は,既にこの時分の作品に見出せる。石川の国語学校の最初の生徒の,後に台湾美術界を背負って立つ倪蒋懐が,早くも育って,大下藤次郎の明治43年(1910)の水彩画会に認められ,『みづゑ』に紹介されたりしていた。石川の絵画的影響の最初の表われである。彼のこの第一次在台の年は,しかし,高砂族平定5カ年計画のさ中にあり,なお反乱が全島にひろがる武官総督時代終期の不穏な情勢の下にあった社会背景を,無視はできない。

帰国後に石川は鎌倉に住み,東京三越百貨店の宣伝美術意匠企画部に嘱託として就職するが,間もなく退職,翌年大正6年(1917)末から10年にかけて,久しぶりの箱根や九州,京都,奈良,北陸へと日本各地のスケッチの旅を楽しんでいる。10年(1921)に日本美術学院から『コンステブル』(泰西名画家伝・第8巻)を出版する。これはコンスタブルの日本最初の評伝としてまともな本である。翌11年(1922)2月,第一次大戦後のヨーロッパへ写生旅行に出掛けて、イギリス、 フランス,イタリアの各地をこの年中訪れている。『みづゑ』の「巴里で見た水彩画」(8月号)や「英国の水彩画」(9月号)等はこの時の報告で,特にターナーの絵に感心している。12年(1923)2月に滞欧作品展を三越百貨店で開催,9月の関東大震災に被災し,義母を失った石川は,たまたま旧知の台北師範学校の志保田校長の勧誘に応じて,翌年に再び台湾へ赴任することになる。53歳の時である。この渡台の2年前に,石川より15歳年下の塩月桃甫が,台北高等学校の図画教師として一足先に着任していた。台湾の美術界は,この二人の対照的な人物の登場によって俄然活気づくことになる。

石川が先の滞在中に勤務した総督府国語学校は明治29年(1896)に設立以後,幾度かの改組を経ている。台北・台南の両師範学校に再改組されたのが大正8年(1919)石川の再渡台前の大正11年には師範学校はさらに改められていた。小学・公学の二部に分けられ,そこに尋常小学校卒業程度の5年制の普通科と,その上に修業1年の中学・高女卒業程度の演習科が設置された。いずれも台湾の初等教育にたずさわる教員養成の専門の学校である。日本語を解する本島人は明治38年(1905)と大正9年(1920)を比べて9倍近くに飛躍的に増え,国語教育の次に求められていたのが,一般普通の公共教育であった。東京の出版社の図画教科書の編纂に関与したり,台湾の小公学校教員検定試験の臨時委員を務めたりする石川が,ここで師範学校の図画教師として果たす美術教育上の感化は,すこぶる大きいものがあった。石川渡台のその年大正13(1924)に,教え子の倪蒋懐を初めとする陳澄波,藍蔭鼎,陳植棋らの7人の若者が石川の賛助で,美術クループ「七星画壇」を結成し,展覧会を省立博物館で開催した。国語学校や絵画講習会等で石川の薫陶を受けた青年達で,中の三人が東京美術学校の在校生である。台湾美術運動史の冒頭に記録されるべき,台湾人画家による最初の西洋絵画のグループ展である。同じ年に逸早く台湾水彩画会も創設された。石川の周囲の教え子や師範学校の生徒を主とする同好の士の集まりである。会の中心となった倪蒋懐が会財政を一手に引受けて毎年の作品発表展を行ない,時には東京の日本水彩画会からの招待出品もあって,初期の台湾美術界における西洋絵画の普及と啓蒙に大きな刺激となった。倪蒋懐については,かつて国語学校を卒業時の彼が東京美術学校への進学を相談した際,師の石川はこれを止めて,家業の炭鉱会社の事業を継ぐように諭したという挿話が伝えられている。つまり石川は,台湾の新しい美術運動の発展のために経済的にこれを支える役割りを,この実業家肌の弟子に付託したのであって,結果,促蒋懐の存在によって台湾の美術家は活動の得難い機会を得ることができ,美術運動の展開は彼によって4年は早められた,遥かに将来を見通してことがらの全体を見抜いていた石川の先見の明は敬服に値する──というのである。全島に活動の場を広げる水彩画会は,やがて後年(1932)石川の帰国後は師を記念して「一廬会」と改められなお続けられた。石川が署名にしばしば使った〈欽一廬〉からとられたものである。

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