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【引用】薬師寺の歴史-8

水煙

多くの塔の水煙は、簡単な唐草文を主体とし、外縁部が火焰状になった透彫りであるが、奈良当麻寺の西塔や法隆寺の五重塔のように、水煙の先端を宝珠形にしたものなどもみられる。

薬師寺東塔の水煙の意匠は、それらとは異なり、各葉に、風に舞うリボンのような飛雲の中を、天衣を翻えして飛翔する飛天の像を刻んでいる。三体の飛天のうち、上の一体は両脚を揃えて、中の一体は一方の脚を折って、頭を下に足を上にして軽やかな飛行の姿をとっており、下の一体は、直角のコーナーを填めるにふさわしい片膝をついて横笛を構えたポーズをとり、天衣を大きくえして、その末を流れるようになびかせ、全体として軽快な律動感を表出している。この意匠は、水煙二枚を一揃いのものとして眺めると、均整もとれ、左右対称の美しさも感じられて、全体としてきわめて優れた意匠で水煙中の白眉と称すべき作品である。

【引用】薬師寺の歴史-8

水煙は、四枚の鋳造製で、総高約一九三cm下辺長約四八cmで、厚さは、薄いところで二、飛天部の肉厚のところで五六cmである。この四枚の水煙は、透彫りになっているので、各葉の表裏は逆の同意匠になり、二枚合せると左右対称形になっている。

この彫刻としての様式は、一見たしかに古風な感じを与えている。とくに飛天の顔の部分の彫出には、簡略化された彫法のせいもあって白鳳風なところが感じられ、金堂薬師三尊や東院堂の聖観音よりも、古様な感じを受ける。そういう点から、金堂三尊や東院堂聖観音との間に多少の時間差をみる人も少くなく(註21)、その結果、金堂三尊を天平初期とする人の中にも、これを持統朝ないし文武朝の作と考えたり、あるいは草創時の塔水煙の彫刻を忠実にコピーしたものと考える人もいた。しかし、この作風の古様性は、この水煙の透彫りが、木型の原型による割込め型鋳造という、多分に原型材質およびこれに彫技を加える木彫的刀法などに由来する表現上の違いとも解される。また高いところに上げるものであることを意識しての表現の簡略化に基づくものかもしれない。したがってこれらに由来する様式上の特色を無視して、金堂三尊や東院堂聖観音との様式上の違いをもって直ちに、製作時の差と解することは危険である。冶金学の西村秀雄による金属分析の結果も、この水煙を含めた相輪部と金堂の月光菩薩の台座裏面の鋳ばりの部分とを 比較すると、両者はよく似た金属組成のもので、その点からしてもおそらく同時代のものであることは間違いなかろうということである。(註22)

以上の点を考慮に入れると、金堂三尊や東院堂聖観音の様式との多少の相違を認めても、その製作の年代に関しては、だいたい同時期と解するのが妥当のように思われる。また、その点を考え合せるならば、水煙だけを、古いもの(たとえば本薬師寺塔のもの)を持ってきて取付けたと考える必要はないから、東塔の建立と同時の作とみてよいであろう。金堂三尊や東院堂聖観音の年代については異説があるが、最近では養老の頃の作という説も有力であり、東塔の建立時も、天平二年とされているから、水煙の年代もだいたい八世紀初め頃としておいてよいであろう。

この水煙の鋳造法について、修理者の丸山不忘は「木彫の原型を作り、これを割込型で鋳造したものと考えられる」と述べている。(註23)鋳上げたうえで、鏨による細部の仕上げを行っているが、この鏨仕上げには、各面多少の違いが認められる。

塔の水煙の意匠に、空中を飛翔する飛天の姿を取入れた着想は、北魏の石窟寺院の壁面や石仏・金銅仏の装飾意匠の中にみられる、塔や仏を空中より散華供養する飛天の浮彫りから得られたものかもしれない。(註24)飛天のポーズや空中に翻える天衣の表現などに、その可能性が感じられる。なお、飛雲の表現は、東大寺大仏殿前の八角燈籠にみられる飛雲に比べると素朴であるが(註25)、一方、後世の定朝風飛天光における飛雲の源流的なものが感じられる点も興味ふかい。

最後に、現状の所見を記しておくと、長年屋上にあって直接風雨に耐えてきた割には、保存状態は良好で、大部分は白緑に近い色の錆に覆われ、飛天の天衣の部分には鍍金がわずかながら残されている。修理部分は、丸山不忘の報告によれば一枚の水煙について二十数ヵ所に及んでいる。また、この四枚の水煙の周辺や、天衣・飛雲の随所に小孔が数多く認められる。檫管側の内側周縁にあるものは、檫管に取付けるために必要なものであるが、天衣・飛雲の部分に認められる小孔は、位置・大きさに統一がなく、数も不同で、かつては型持の痕ではないかとも考えられたことがあった。(註26)しかし古い写真によると、一時水煙を鉄板で補強していた時期があり、その折の補強のための小孔と思われる。なお、かつて九輪の周囲に各八個の風鐸を吊していたが、各水煙の下端にも風鐸が吊されていたようである。

檫銘

檫銘は、平頭部のすぐ上の心柱を包む檫管の西側表面に、一二行にわたって刻まれている。字数は一二九字あり、文字面は縦横ともに約三三cmである。文体は四六駢儷体で、唐の西明寺の鐘銘から語句を引いており、堂々として華麗な銘文といえよう。字配りは、第一行を維清原宮馭宇で止めて数字分を闕字とし、第二行を天皇から書き始めるなどの細かい配慮を示しながら、全体としては天地や行間が不揃いであり、また界線なしに刻むためかもしれないが、曲った行もあるなど、かなり無造作である。この点は、誤字問題とともに撰文刻入年代に関連するので、あとで触れることにし、まず銘文を示すとつぎのとおりである。

維淸原宮馭宇
其銘曰
天皇卽位八年庚辰之歲建子之月以
中宮不愈創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙大上天皇奉遵前緒逐成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道濟郡
生業傅曠劫式於高躅敢勒貞金
其銘曰
巍巍蕩蕩藥師如來大發誓願廣
運慈哀猗㺞聖王仰延冥助爰
錺靈宇莊嚴調御亭亭寶剎
寂寂法城福崇億劫慶溢萬

維れ、清原宮にあめのしたしろしめしし
天皇、即位して八年、庚辰の歳の建子の月(註28)に、
中宮不愈なるを以て、此の伽藍を創む。而るに鋪金未だ遂げざるに竜駕
騰仙したまえり。太上天皇、前緒に違い奉り、遂に斯業を成したもう。
先皇の弘誓を照し、後帝の玄功を光やかし、道は郡生を済い、
業は曠劫に伝えむ。式(すなわち)高躅を旌(あらわ)し、敢て貞金に勒す。其の銘に曰く、
巍巍蕩蕩たり、薬師如来、大いに誓願を発して、広く
慈哀を運らしたもう。猗㺞(ああ)聖王、冥助を仰ぎ延い、爰に
靈字を錺り、調御を荘厳したもう。亭々たり宝剎、
寂々たり法城、福は億劫に崇く、慶は万齢に溢れん。

銘文の構成は、銘序と銘からなり、第一行から第七行までが銘序、第八行から第一二行までが銘である。薬師寺史にとって重要なのは、いうまでもなく銘序であって、ここでは天武天皇即位八年(六八〇)に、中宮(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺が発願されてから以後の造営の経過を記し、歴代天皇の大きな功績を後世に伝えるために、銘文を作成して刻入することを述べている。

ただ撰文当時は自明のこととして、第一行の天武天皇以外は、宮号をもって具体的に記さなかったので、太上天皇や後帝その他の語句の解釈に異説を生ずることになった。しかもこの銘文の解釈が、薬師寺の移建・非移建論争にも影響するところから、これまで多くの先学によって考究されてきた。いま諸説の代表的なものを表示すれば左のとおりである。

さて、銘文の問題点を論ずるに当って、最初にとりあげたいのは、「鋪金未遂」の語句である。長和四年(一〇一五)の『縁起』をはじめ、古くから「鋪金」を「鍍金」の意にとり、「本尊の鍍金が終らないうちに」と解する人が多かった。しかし、すでに指摘されているように、この「鋪金」は給孤独長者の祇園布施の故事に由来する「布金」と同じ意味に用いたものであって、その中国での用例は敦煌文書の中に見出される。(註36)本来ならばここは奈佐勝皐が『薬師寺檫銘釈』(寛政六年)で指摘したように「寺地が確定しないうちに」と解すべきで、現にこの解釈をとる説(会津(註32)、福山、久野(註37))も行われている。しかし一方では、「鋪金」を「布金」の意に解しながらも、原義からやや離れて「造営が完了しないうちに」と解すべきだと説かれている。(註38)前後の文脈や『類聚三代格』所収の天長七年(八三〇)の太政官符の記事(註38)などからみると、文字の正確な語原は別とし、この方が筆者の真意を示すものではなかろうか。

「先皇」については、諸説みな一致して天武天皇としているが、「太上天皇」と「後帝」の解釈に関しては多くの異なった説が唱えられている。

「太上天皇」を、薬師寺第三本願で、移建時の願主元明上皇、あるいはまた造塔時の 元正上皇に当てる説がある(上段の表参照)。これらは、いずれも平城での撰文とするもので、この点は檫銘が平城薬師寺に現存する以上、一応は考えてみなければならないことである。しかし、それよりも前になすべきことは、銘文そのものの検討であろう。ところで銘文は、「鋪金未だ遂げざるに竜騰仙したまえり。〔そこで〕太上天皇は云々」と、きわめて自然に、なんの切れ目もなく続くのである。しかも平城移建については、まったく言及しないのであるから、「未遂」の前緒をついで「遂成」された斯業は、本薬師寺の造営であり、これを完成された太上天皇は、先に触れた天長七年の太政官符にみえる后主に当る方、すなわち持統上皇以外にはないということになろう。

「後帝」については、上段の表にみるとおり、つぎの二系統の説が行われている。すなわちその一は、「後帝」を「太上天皇」と同じとみる説であり、いま一つはそうではなく先皇より後で太上天皇と同時代もしくはそれ以前の天皇とする説である。

後説は、喜田説以下いずれも第四行と第五行とを続けて読み、太上天皇が先皇の弘誓を照し、後帝の玄功を光やかすと解する。この見解を批判した平子説は、銘文は第四行末の「遂成斯業」で切れ、つぎへ続かないとして、第五行の「照先皇之弘誓」、「光後帝之玄功」は銘文筆者の意志と刻入の理由を述べたものと主張している。なるほど銘文の構成をみると、第四行末までは薬師寺造営の事実経過を記しており、第四行末を境として銘序は前段と後段に分かれているようである。とすれば、第四行から第五行へ文の続くことを前提とする後説が成立することは、困難となるのではなかろうか。

かりに第四行末で切れないとしても、すでにみたとおり、「太上天皇」が持統上皇以外にないとすれば、先述の条件を満す後帝は年代的にいって文武天皇に限定されざるを得ない。この場合、いかに対句とはいいながら、当代の天皇を後帝と表記する点に問題があろう。

一方、平子説は天武天皇が発願し、持統天皇が完成されたのであるから、先皇は天武天皇、後帝は持統天皇であるとして、論旨きわめて明快である。また会津はこの銘文は、清原宮馭宇天皇・竜駕騰仙・先皇は天武天皇のこと、中宮・太上天皇・後帝は持統天皇のこと、この二筋の脈を引いて成り立っているのであって、文章上から後帝は持統天皇を指すとみなければならないといっている。

以上によって、「太上天皇」は持統天皇、「先皇」は天武天皇、「後帝」も持統天皇となるので、この檫銘は文武朝もおそらく大宝以後に本薬師寺で作成されたことになろう。さて文武朝に撰文されるためには、なお若干の問題を解決しなければならない。

その一つは、清原宮殿宇天皇という表記の上限の問題である。諡号のこの形式は養老五年(七二一)に制定されたのであるから、檫銘はそれ以後に平城薬師寺で作られたと解する説がある。しかし『続紀』養老五年の記事は、諡号の形式を定めたものではなく、元明天皇がみずからの諡号について希望を述べられたものと解すべきであろう。また「治天下天皇」から「御宇天皇」へと表記の仕方が変化したのは、大宝令によっ てであるとされているが(註41)、金石文でも大宝以後になれば、慶雲四年(七〇七)の年紀をもつ威奈真人大村墓誌をはじめ、いくつかの例をもつので(註42)、檫銘を文武朝の大宝以後の撰文とする時には、馭宇天皇の表記もあり得たといえよう。

つぎの問題は、擦銘が天皇・中宮・其銘日の三ヵ所において、前の数文字を闕字としていることである。この種の例を金石文によってみると、天智七年(六六八)と解される干支を刻む船首王後墓誌を最古として、天武・持統朝にはないが、文武朝以後になると前記の威奈真人大村墓誌以下とぼしいながらも数例をあげ得るのであるから(註43)、闕字問題についても文武朝の撰文として支障はないであろう。

最後は西明寺鐘銘に関する問題である。檫銘が西明寺鐘銘から数句を借用したことは、平子鐸嶺の指摘以来定説となっている。問題は、この鐘銘がいつ日本へ伝来した かである。この点については、拓本なり留学僧などの筆録によって伝わる場合と、道宜の『広弘明集』(鐘銘は巻第二八所収)によってもたらされる場合とがあり得よう。

『広弘明集』は、天平七年(七三五)に玄昉が将来した「開元釈教録」による一切経の一部として伝来したとされ、天平以前に単行本として伝わった形跡はないと藪田は説いている。しかし『広弘明集』を出典とするものには、檫銘の他に那須国造碑長谷寺の法華説相図銅板が指摘されており(註44)、前者は国造韋提の没年(文武四年)をあまり降らない頃、後者は諸説ある中にも文武二年(六九八)の作とみる説が有力であるから、大宝頃には『広弘明集』も伝来していたと考えることができよう。

いうまでもなく、西明寺の鐘の鋳造が麟徳二年(六六五)、『広弘明集』の成立がその前年であったから(註45)、本薬師寺で檫銘が撰文された文武朝に、鐘銘の拓本なり『広弘明集』が伝来していたとしても、年代的には少しも不思議ではない。

これらを日本へもたらしたのは、留学僧であったに相違ないと思われるが、養老二年に帰朝した道慈以前にも、長安の大寺である西明寺に止住した留学僧がいたと考えられる。たとえば斉明四年(六五八)に入唐した智通・智達らが玄奘に会ったのも、完成したばかりの西明寺であったろうと推測されているし(註46)、白雉四年(六五三)に道昭とともに入唐した律師道光は、天武七年(六七八)帰国に際し、道宜の『行事抄』をもたらしたと伝えられており(註47)、詳細は不明ながら彼も西明寺で学んだかもしれない。いま誰と限定できないが、このような留学僧によって鐘銘が伝えられ、その数句を借用して檫銘をつくることは、文武朝ともなれば十分可能であったと思われる。

さて、前掲の表にみるとおり、撰文者として文武天皇や文武朝の臣下を考える人もおり、また上述のように撰文年代の可能的上限を文武朝まで遡らせることもできるが、といって、いま直ちに起草の年代を文武朝と断定するには時期尚早であり、なお後考にまたねばならない。また、初めは金銅丈六薬師の光背に刻まれ、平城移転後建立なった東塔の檫管に転刻したと考える説もあるが(註48)、光背銘から檫銘へ転刻する事情がな お明らかでなく、現段階ではやはりもともと檫銘であったと解しておくのが妥当であろう。

ここで誤字問題にふれると、「族」を「於」に記すのは藪田のいうように略字別字としても、「太上天皇」を「大上天皇」、「傳」を「傅」と刻むのは、明らかに誤字である。これは字配りの不整などとともに、摸刻に伴って生じたものと思われる。したがってこの点からいえば、かりに文武朝の撰文としても本薬師寺の檫管がそのまま移されたのではなく、平城で天平二年新たに塔が建立された時に、本薬師寺の檫銘を摸刻したのが、現存の東塔檫銘であるということになろう。

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