赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。
五 工芸運動と昭和の京都画壇
赤土社と民芸運動
遊陶園から赤土社へ
大正二年(一九二三)農商務省の主催によって図案および応用作品展覧会、いわゆる「農展」が開かれるが、これは前年に行なわれた京都の遊陶園・京漆園の農商務省商品陳列所における合同展の刺激によるものであった。明治四十年(一九〇七)の官展=文展において工芸部門は除外され、ようやく農展とはなったものの、官展において工芸がとりあげられるのは昭和二年(一九二七)の帝展第四部をまたなければならず、ここにも明治・大正期の工芸のおかれた位置を知ることができる。明治二十年代は京都市美術学校に図案科・漆工科が置かれ、京都染工講習所・京都市立陶磁器試験所・友禅図案会・京都漆工会など諸工芸の研究・教育機関があいついで創立されてきたが、その多くは技術的な 研究にとどまり、近代的な工芸を育てるまでには至らなかった。
明治三十五年工芸の高等教育機関として京都高等工芸学校が創立されたことは京都の工芸界にとって大きな意義をもつものであったが、なかでも同校の教師として迎えられた中沢岩太・浅井忠・鶴巻鶴一らヨーロッパの工芸にも通じていたすぐれた知識人たちは、学校外においても啓蒙家として大きな役割を果した。彼らは斬新な個性的な意匠によって工芸に新しい生命をふきこもうとし、明治三十六年中沢岩太を園長に、藤江永孝・浅井忠・神坂雪佳・宮永東山・伊東陶山・清水六兵衛・錦光山宗兵衛らによって遊陶園が結成された。この会は毎月一回試験場において、作品発表会のほか浅井・神坂ら図案家と陶芸家の交流を行なうもので、園友の討議によって優良と認められたものには、遊陶園が箱書きをして価格も合議し、その一割を園費とするなど新しい芸術運動のあり方を示した。遊陶園が農商務省工芸展覧会展創立の契機となったのは、こ うした新しい図案の研究などにもよるが、ゴットフリート=ワグネルに学んだ藤江永孝が所長をつとめる京 都市立陶磁器試験場によるたしかな技術教育によるところも大きく、初期の試験場からは高橋道八・新開六郎・河村靖山らを出し、大正に入ると楠部弥弌(くすべやいち)・河井寛次郎・浜田庄司らもここに学んだ。
中沢・浅井は遊陶園が軌道にのると、明治三十九年(一九〇六) 漆芸の京漆園、大正五年(一九一六)染織の道楽園を結成して三園合同展を開き京都の工芸全体に新風をおこした。こうした情況のなかで創立された農商務省の展覧会はあたかも京都工芸展の観があった。第一回展には鶴巻鶴一の指導によって京都高等工芸 学校製造の「友仙縮緬」「唐織帯地」や、中沢の指導によって陶磁器試験場製造の「磁製花瓶」なども出品され、受賞作品の大多数が京都の工芸家たちによって占められている。受賞目録で注目されるのは、「高瀬川船曳図陶製額板」故浅井忠案・宮永東山作、「霞ニ松切箔女帯地」神坂雪佳案・喜多川平八作、「光琳形海山模様硯箱」大津晴霞案・吉田平造作など図案の担当者名を銘記していることであり、ここにも中沢・浅井・神坂らの強い影響がみられる。なお、ヨーロッパに渡って工芸意匠を学んだ神坂は、中沢らに協力するとともに、明治四十年新しい意匠を志す工芸家を結集して都美会・競美社を創立し、大正八年には組織を改め陶器師・塗師・指物師・金物師ら二十三名によって佳都美村を結成した。
佳都美村創立の前年は華岳・麦僊らによる国画創作協会第一回展が第一勧業館で開かれ、その直後府立図書館ではロダンの彫刻や名画の複製を展示した白樺社美術展が開催され、京都の美術工芸界は清新の気にわき立っていた。そのころ、陶磁器試験場を出たばかりの若い陶芸家たちは青年陶磁器会・関西美術会工芸部に出品していたが、大正八年(一九一九)冬、有志を集めて「赤土社」を創立した。その宣言は次のように短いものであったが、国画創作協会の宣言にも通ずる純粋で情熱的な気にみちている。
忘我の眠りより覚めず、因襲なる様式に拘泥せる陶工を謳歌し、讃美するには吾々生涯として余りに悲惨なり。茲に赤土同人は、自然の美の深奥を各自の愛をもって探究し、永遠に滅びざる美を陶器なる芸術に依て表現せんとす已む能はざる真意の発動に神秘なる光をもとめて生れたるなり
同人は二十三歳の楠部弥弌をはじめ、河合卯之助・八木一艸・河村喜太郎ら六名、ともに二十代の若さで、河村は有島武郎の崇拝者だったといわれる。大正九年(一九二〇)三月、工芸品の展覧会では初めての入場料をとった第一回展が大阪でもたれ、同年暮れの府立図書館における第二回展は第三回国画創作協会展と同時に開き、出品作の「生の礼讃」「吾は君の為に生く」「愛の苦しき楽しみ」「性焰」などいう文学的な命名をするあたりにも、いかにも若々しい情熱が感じられる。この若やいだ芸術運動も長続きはせず、はやくも大正末年には衰退したが、彼らには陶磁器試験場できたえた確かな技術があり、昭和二年帝展に第四部として工芸部が開設されると、陶器では東京の板谷波山と京都の清水六兵衛が審査員にえらばれ、清水六兵衛・河村蜻山らとともに赤土社の楠部弥弌・河合卯之助らがはなやかな活躍をみせた。
上賀茂民芸協団
大正十二年九月の関東大震災の難をさけ、谷崎潤一郎ら多くの文化人が関西に移ったが、民芸運動の中心となった柳宗悦も、同志社女子専門学校に招かれたこともあり、同十三年四月声楽家でもあった妻兼子とともに西下し、居を左京区吉田下大路に構えた。柳は学習院在学時代に武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌『白樺』を創刊し、大正八年から東洋大学で宗教学を講じていたが、白樺時代から美術について強い関心をもっていた。大正四年はじめて朝鮮に旅行したとき、朝鮮の美術ことに李朝の焼物の美に感動し、あいついで朝鮮の美術工芸に関する論文を書き、「朝鮮民族美術館設立計画書」を発表するほどであった。
また、京都へ来る大正十三年(一九二四)の正月、甲府へ旅し、まったく偶然に木喰上人の仏像を発見し、その微笑仏に馮かれたように傾倒していき、翌十四年三月からは雑誌『木喰上人之研究』を出すほどであった。そのなかでものべているように、柳は「上手(じょうて)」なものが微細に流れ、技巧におちいりやすいのに対し、民衆的な雑器などいわゆる「下手(げて)」なもののなかに健全な美があることを主張しはじめ、大正十四年ごろ浜田庄司・河井寛次郎らとともに「民芸」という言葉を提唱した。その民芸については翌十五年四月富本憲吉・河井寛次郎・浜田庄司との連名で出した『日本民芸美術館設立趣意書』に次のようにのべている。
民芸の美には自然の美が活き国民の生命が映る。而も工芸の美は親しさの美であり、潤ひの美であり。凡てが、作意に傷つき病弱に流れ情愛が涸死して来た今日、吾々は再び是等の正しい美を味わうことに感激を覚えないであらうか。
民芸という言葉は京都から発せられ、その運動は柳が京都を離れる昭和八年まで、京都を中心にすすめられたのである。
柳はのち東京駒場に日本民芸館を建てるが、京都では民芸美術館設立のため精力的に民芸の蒐集にあたった。日用雑器の焼物や「下手」な丹波布などは、北野・壇王の露天の市や東寺の朝市などで入手することが多く、有名な「緑釉指描文大捏鉢」は昭和二年(一九二七)七月、二円五十銭で求めたという。柳の運動は古民芸品を蒐集するにとどまらず、現代の民芸を創造することにも重点がおかれ、キリスト教の信仰の裏付けをもつ、ヨーロッパ中世のギルドの復活をめざし、昭和二年三月には上賀茂民芸協団が組織された。上賀茂社のちかくの社家の空屋を借りてはじめられた民芸協団は、同志社中学の教員でもあった青田五良が織物をうけもち、その弟七良が金工、塗師の家に生まれた黒田辰秋が木工を担当し、柳の指導による共同生活をはじめた。各人に課せられた一カ月三十円のノルマは決して楽ではなかったが、柳の友人である河井寛次郎がうしろだてとなり、岩井武俊・寿岳文章・中村直勝、志賀直哉・小林秀雄・芹沢銈介らの後援者もあり、昭和四年(一九二九)三月には京都大毎会館における「日本民芸品展覧会」に多量の作品を出品するまでに成長した。
上賀茂民芸協団が作られるより前、有島武郎は武者小路実篤の「新しき村」に対し、「あなたの社会を周囲から取りかこむ資本主義の社会は、何といってもまだ十分死物狂ひの暴威を振ふでせう」(大正七年「武者小路へ」)とのべているが、柳の理想主義によって作られたこの民芸協団も、内部的矛盾もあって二年半ほどで解散せざるをえなかった。柳はその後民芸の蒐集につとめ、昭和八年五月京都を去り、民芸運動は同十一年に開館する東京駒場の日本民芸館に移ることとなる。しかし河井寛次郎・黒田辰秋らの仕事は、現代の民芸を代表するものとして高く評価され、多くはないがその後継者が京都の地に育った。
留言列表