趙孟頫 鵲華秋色圖
(挿図4)

元末四大家と元代李郭派は、ともに一人の画家に端を発する。歴代の文人画家としては画業の幅が最も広く、江南山水画の董源・巨然のみならず、華北山水画の李成・郭熙、李思訓・李昭道にも学ぶ、元初の趙孟頫(一二五四-一五二二)その人である。その水墨の代表作「水村図巻」(挿図3・北京故宮博物院)(「本文 42 趙孟頫 水村図巻」、前掲『臥遊』)と着色の代表作「鵲華秋色図巻」(挿図4・台北故宮博物院)(「本文 42 趙孟頫 水村図巻」、前掲『臥遊』)とに連なるのが、「富春山居図巻」(台北故宮博物院)・「漁父図」(台北故宮博物院)・「容膝斎図」(台北故宮博物院)・「具区林屋図」(台北故宮博物院)を代表作とする前者の元末四大家である。また、趙孟頫が画いたとされる、李成・郭熙の手法による「重江畳嶂図巻」(台北故宮博物院)や「双松平遠図」(挿図5・メトロポリタン美術館)に連なるのが、後者の元代李郭派である。さらに、元代には、文人画家ではなく、南宋画院の末流をなす、「雪景山水図」(挿図6・東京国立博物館)(「本文 58 孫君沢 雪景山水図」、前掲『臥遊』)などを伝える孫君沢ら、前浙派と称される画派があり、浙江地方様式と称されながらも、南宋院体山水人物画の伝統を継承し、明代画院における浙派と明代南宋院体山水画風の成立に大きな役割を果たす(鈴木敬『明代絵画研究・浙派』東京:木耳社、一九六八年)。それに対して、元代李郭派は、古典を踏まえる最初の画派であり、前浙派と相俟って、郭熙に倣う「山水図」(東京国立博物館)や、明代南宋院体山水画風盛行の基礎をなす馬軾・夏芷との合作「帰去来兮図巻」(挿図7・遼寧省博物館)(「本文 66 帰去来兮図巻」、前掲『臥遊』)などの作者李在(?-一四二四-一四六八-?)ら、明代前半の画壇を席捲する、浙派宮廷画家による明代南宋院体山水盛行への基礎を築きあげたと言うことができる。元初の趙孟頫から元末の四大家黄公望・呉鎮・倪瓚・王蒙までを元代絵画史の主流と捉える、現代の中国絵画史研究は、明代後半の沈周・文徴明の出現による呉派成立以後、江南山水画が中国山水画の主流となってからの史観に基づく点に留意しておかなければならない。

孫君澤 雪景山水圖
(挿図6)

明代絵画史は、宮廷画院制度をもたなかった元代とは異なり、院体画の展開を一方の軸とし、文人画のそれをもう一方の軸として時代区分を行える両宋時代と同様、歴代皇帝の治世により、四期に分けられる。その前期(一三六八-一四二五)は、およそ十四世紀半ばから十五世紀第一四半世紀まで、五十数年、洪武(一三六八-一三九八)・建文(一三九九-一四〇二)・永楽(一四〇三一四二四)・洪熙(一四二五一四二五)四帝の治世になる時代である。ただ、中国紀行文化を代表する傑作「華山図冊」(挿図8・北京故宮博物院・上海博物館)を残す文人画家の王履(一三三二-一三八五?)や倪瓚に倣う「秋林隠居図」(東京国立博物館)を制作し、中期後半以降の元末四大家評価への基盤を固めた王紱(一三六二-一四一六)らが出たものの、宮廷画家組織はいまだ確立してはいない。永楽帝に宮廷画家として招致されたとされ、「冬春山水図(二幅)」(菊屋家住宅保存会)などを伝える山水画家の戴進も、活動を活発にしてはおらず、絵画活動は、洪武帝の文人敵視政策もあって、元末明初の一時期を除くと、総体的の不活発なままに終始する。

王屢 華山圖冊
(挿図8)

続く中期(一四二六-一五二一)は、十五世紀第二四半世紀から十六世紀第一四半世紀まで、前半の宣徳(一四二六-一四三五)から正徳(一五〇六-一五二一)までの百年ほどの宣徳・正統(一四三六-一四四九)・景泰(一四五〇一四五六)・天順(正統重祚:一四五七-一四六四)から、後半の成化(一四六五-一四八七)・弘治(一四八八-一五〇五)・正徳(一五〇六-一五二一)からなる時代である。その前半は、永楽朝の宮廷画家として召致された戴進(一三八八-一四六二)が本格的に活動を始めて以後、前述の李在や、「探花図卷」(個人蔵)の石銳(?-一四六九-?)から宣徳画院に出仕する宮廷画家の第一次黄金時代をなし、その祖の戴進の出身地杭州にちなんで、浙派と称される宮廷画家が画壇を支配する時期である。

王諤 江閣遠眺圖
(挿図9)

後半の成化・弘治・正徳の五十年余りは、「漁楽図」(北京故宮博物院)の呉偉(一四五九-一五〇八)や、弘治帝に「今の馬遠なり」と称され、明代南宋院体山水画風の頂点をなす「江閣遠眺図」(挿図9・北京故宮博物院)(「本文 73 王諤 江閣遠眺図」、前掲『臥遊』)の王諤(一五〇一-一五四一-?)らが成化・弘治・正徳画院で活動する宮廷画家の第二次黄金時代に当たり、前半から続く浙派の全盛期をなす。また、対抗する文人画家・沈周(一四二七-一五〇九)・文徴明(一四七〇-一五五九)の師弟が、「廬山高図」(挿図10・台北故宮博物院)(「本文 79 沈周 廬山高図」、前掲『臥遊』)や「雨餘春樹図」(挿図11・台北故宮博物院)(「本文 80 文徴明 雨餘春樹図」、前掲『臥遊』)を制作するなど、絵画活動を活発に展開して、その出身地蘇州にちなむ呉派の基盤を築き上げるのみならず、沈・文二大家とともに、明四大家と称される、「山路松声図」(台北故宮博物院)の唐寅(一四七〇-一五二三)、「仙山楼閣図」(台北故宮博物院)の仇英も画家として出そろう時期にも重なっており、全盛を誇る浙派と隆盛に向かう呉派の両勢力が拮抗する明代絵画史の頂点をなす時期を称してよい。
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