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源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。

 

芥子

芥子の花が日本美術の上に姿を見せるのは桃山時代からである。私の知る限りでは、ある扇散らし屏風に、白の芥子の花を大きく、茎の先きばかり七輪程高低参差に描いているが最も古い。内二輪花弁の底がほんのり朱色 をおびているのが、美しく可憐である。この屏風は下絵に秋草が一面に画かれて居り、その六曲一双に左右十枚 ずつ二十枚の扇がえがかれ、つつじ・百合・ぼたん・綿の花など四季さまざまの花が、装飾的感覚をもって画かれている。この屏風の画風は宗達様式に先行するものと考えられるから、慶長以前の作と見てよい。とすれば芥子の絵の日本における最も古い作例である。

しかしたしかな宗達の筆になる芥子の絵は見当らないが、宗達のひきいる俵屋工房の作家達は好んで芥子の花を画いている。大倉集古館(東京赤坂)の「扇流し屏風」は、宗達門下の最もすぐれた画人の一人によって画かれ た作品であるが、これには白芥子と芥子坊主とを、これも茎先きだけを単純にならべたまことに気の利いた構図で画いている。まだ宗達在世中一六二五年前後の作と思われる。これに劣らない芥子の傑作は、今は京都博物館所蔵(玉城家旧蔵)の花叢散らしの襖絵である。俵家宗達の一門の画人は、何れも「伊年」という印を用いているが、これにも伊年印を捺している。大倉集古館の屏風にも、少しく書体はちがうが、やはり伊年印が見られる。宗達の門下は、その直系の宗雪と相説とを別にして、何れも自己の名は記していない。尤も作品にはそれぞれの 個性を認めることはできる。伊年印というのは、俵屋を代名する、いわゆる工房印である。そこで私はそれらの 幾人かの伊年を区別するために、大倉のは大倉伊年、玉城家旧蔵のは玉城伊年とよぶことにしている。この玉城 伊年の襖絵は、もろこし・鶏頭・立葵・あざみなど、色々の花卉の叢を金地に美しい構図で画いている。その画面の中央に一叢の真紅の芥子が、女王のような気品と花やかさをもって位置している。

金沢には宗雪を招いた前田家との関係で、伊年印をもつ花卉図、それには必ず芥子の画かれている作品が多い。中にも八曲の中屏風の全面に、ただ紅白の芥子一色を金地に画いたそれは、律動的な構図といい、艶麗な芥子の姿の描写といい、芥子図の中の圧巻といってよい。

一体、芥子は地中海沿岸のいわゆるオリエントを原産地とし、中国には十世紀(北宋初期)の『開宝本草』に罌子栗の名で出ている。罌子とは瓶とか壺とかのことで、芥子の果実の形からきた名である。粟とはその瓶形の果 実の中に細な小粒の種子が栗に似ているからである。芥子という字は本当はからし菜の事であるがそのこまかな実が共通している所から、いつしかその名が移ってしまったのである。中国では後は阿片の原料となっているが、宋の時代は全く食用として珍重されている。しかし花も「艶麗愛す可し」というわけで麗春花ともよばれた。英語のpoppyはラテン語のpapaverを原語とするが、それは乳首を意味するpapulaから来ているらしい。これもその花の終ったあとの実の形が似ているからである。ギリシャでは穀物豊饒の女神デメテールの持物として麦 の穂などと共に、この芥子の花を手にしている像が見られる。恐らくその一個の実の中に無数の種子を包蔵しているからであろう。

日本に芥子が伝ったのは、室町時代の中頃かと思われる。天文五年(一五三六)池坊恵慈の著わした花道の伝書『仙伝抄』に、生け花に嫌う花として、ぼけ・むくげなどとともにこの芥子の名が見えている。しかし芥子の絵は、前述のように桃山以後である。しかもそれは俵屋宗達の流派に限る。ただ江戸初期寛文(一六六一─一六七三)前後の作品と思われる狩野重信の落款をもつ女竹に子をいた屏風があるが、構図は全く俵屋的である。狩野探幽の晩年の写生帖の中に芥子の花もあるが、本絵にえがいた例は見ない。蓋し芥子の花の優美は情緒的な、まさに消なば消ぬがのたおやかなその風情は、漢画の厳格な筆意主義の様式の対象には向かなかったと思われる。江戸時代の日本の画壇は、狩野派の君臨するこの漢画の伝統が、やがて南画や円山四条派が抬頭してきても、その根に深く浸透していただけに、ただいわゆる琳派、すなわち俵屋様式の作品を外にしては、芥子の花は意外に絵画の題材には登場しなかった。

ところが大正に至って、芥子は日本画の題材として、新しく脚光をあびてきた。「大正に至って」と云っては、あるいは正確でないかもしれない。明治二十六年、横山大観 らとともに東京美術学校の第一回の卒業生として世に送られた西郷孤月が、その卒業製作としていたという「春暖図」、それは、ひろびろとした野原一面に咲きみだれる白芥子をえがき、そこに一頭の白馬がわびしく佇んでいる。孤月はこの時数えの二十一歳の青年である。日本の明治様式は、美術史的には一八九五年頃(明治二十八年は日清戦争の終った年であるが、ここではむろん二十八年という限定した時点を指すのではない。おおよその時期である)から始まる。それ以前は一般には江戸的風潮がまだ濃厚に尾を引いていた。固く西洋画を拒否していた美術学校が、洋画科を新設したのは、明治二十九年である。島崎藤村が青春の抒情をうたった『若菜集』を出版したのは、その翌年である。いわば封建的社会が解体して、自由な市民社会の生活感情が漸く醗酵してきた時期である。それは明治に生れた者がおのずから青年に達した時期に外ならない。

青春の大きな特徴は憧憬と感傷である。そして今一つこれに情熱を加えねばならないであろう。それはいわゆるロマンティシズムである。明治様式の特徴はまさにこのロマンティシズムであった。明治三十五年二十五歳の鏑木清方が画いた「樋口一葉の墓」は、一人の若い娘が山茶花の散りこぼれている一葉の墓にもたれて物思いにふけっている絵である。いかにも当時の水々しいロマンティシズムをあらわしている。そのような情緒を象徴するのがこの芥子の花である。あるいはそのような情緒を見出だしたのが芥子の花であったといってもよい。明治二十六年西郷孤月が画いた「春暖図」にも、たしかにこうしたほのかな抒情がただよっている。その点で彼はやがて花開く明治様式を先き取りしていたともいえる。

しかし明治様式は一九一〇年頃において、さらに新しい展開期を迎える。それは大正様式といってもよい。大正に入ってそれが甘熟するからである。大正様式はさらに知性的洗練が加わったことである。ある意味ではそれ以前の芸術には思想がなかった。それだからそこには一種の稚なさがあった。岡倉天心のひきいた美術院は、さすがに芸術における思想性を意識していた。しかし、たとえば明治三十年、横山大観の純真無垢の童の姿を画いた「無我」にしても、それは描かれた「無我」ではあるが、無我の表現とはいえない。かえって秋の峠路を馬を先き立てて下りて ゆく馬方の黄葉した樹の間がくれの姿をえがいた「山路」(明治四十四年)に、大観のより深められた高雅な知性的感覚がある。

大正時代は、天心の流れをくむ美術院が主導的存在であったが、大正様式を形成したのはやはり時代の風潮であった。武者小路実篤、志賀直哉らの『白樺』が出たのも、谷崎潤一郎、和辻哲郎らの『新思潮』が出たのも、そして牧水の『創作』が出たのも一九一〇年(明治四十三年)であった。いわば期せずして新しい出発がはじまったのである。短歌の雑誌に『創作』と名づけられたのも、芸術というものの創作性に、すなわち主体的な個性意識にめざめた当時の思想的状況を反映するのである。

しかし大正の芸術における思想性──それは思弁的な思想とまぎれるおそれがあるから、むしろ知性といった方がよいかもしれない──は、理知的ではなくて、抒情的で情趣的知性であるところに、いわばロマンティシズムをその基盤にもつところに、明治様式の甘熟期たるゆえんがある。それはまた芥子の花を画いた名作が輩出したゆえんでもある。

大正八年、鏑木清方は「刺青の女」と題する一人の年増の粋な姐御をえがいている。片肌を脱いで少しく背なかを見せて横向きに立っている姿である。その片腕から背中にかけて、女だてらに大きくいれずみを施しているが、その意匠が思の外にこのたおやかな芥子の花である。そこには黒いあげ羽の蝶もえがかれている。清方の芸術は年とともに粋が洗練されてきたが、女の肌の刺青に、芥子をえがくそのモティフには、時代の情趣主義的風潮を認めずには居れない。しかし大正時代の芥子の作品としては、大正十年の院展に出品された小林古径の芥子と、その二、三年あと土田麦僊の国展にかいた芥子とは、最も人の注目をよんだ。もっとも古径も麦僊も、性格的にはロマンティストではなかった。むしろ理性的な、したがって次の昭和様式の予言者的存在であった。両者ともけしとしては逞しい鬼芥子をえがいている。しかし芥子の花がもつ夢を誘うようなそこはかとなきあわわさが、やわらかな色彩で美しく画かれていた。やはり大正の感覚である。昭和に這入るが、前田青邨が六曲一双の 金地の屏風に、左右少しく高さをちがえて、白芥子を一直線に、水平に頭をそろえた構図は、単純明快である点、さすがに昭和様式であるが、その白芥子のデリカシィへの作者の感性には、大正的ロマンティシズムが宿っている。

大正時代における注意すべき美術史的現象の一つは、長い間閑却されていた俵屋宗達への認識が勃興してきたことである。それは宗達の伝記や作品の探究となり、画壇においては宗達様式の摂取という形であらわれている。しかしこのような風潮は、必ずしも宗達に関する知的認識に促された現象ではない。解放された明治の青春的市民社会の感性が、宗達の感覚的で機知的な、そして日本的抒情性の豊かな作風と、根において相通ずるものが、おのずから宗達芸術へ近づけたのである。明治四十三年の文展に出品された菱田春草の「黒き猫」の如きは、知性化された宗達感覚の所産といってよい。そして、それがやがて院展の主導的作風となって、昭和へ展開してゆくのである。小林古径が「鶴と七面鳥」(昭和三年)にその典型を示している彼の高雅な装飾性の様式は、まさしく近代化された宗達様式といってよい。芥子の花が大正時代に至って絵画の題材としてよみがえってきたのは、こうした歴史的理由を背景にもつのである。

(昭和五十三年一月『創作』第六五─一号)

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