《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。

長広敏雄

〔唐招提寺金堂正面〕

正面列柱の真中から見て、この正面の間(ま)は、十六尺に十六尺の正方形。その次が幅十五尺、その次が幅十三尺、最後が幅十一尺。この列柱はむろん吹き放しですから、近くへ行きますと何とも言えない明朗な感じがする。こういう寺院建築は、中国でも、われわれは知らないんです。今では唐招提寺と興福寺の東院堂が吹き放し列柱の形を残していて、その二つぐらいしか知らない。これも鑑真和上あたりが連れて来た技師にこういうアイデアがあったか と思われる。この屋根は、さっきも申しましたように寄棟づくりでございまして、天平時代の建築ですと本来はもう少し低いはずです。というのは、中へはいって屋根裏を見ますとよくわかりますが、屋根裏の構造が、徳川時代の元禄ごろに修理をしまして、屋根の棟が少し高くなりました。本来の天平建築ではますます柱の美しさが引き立って見える。今は屋根が少し重いわけです。

【引用】天平の美術-14

〔唐招提寺講堂〕

これは今の金堂の真北にあります講堂です。この建物は平城京の朝集殿を、鑑真和上が来られた時にここへ賜わった。ですから、これも奈良朝の建築を見るのに大事な建築です。これは入母屋(いりもや)という屋根の形式です。非常に威厳が加わった建築様式です。金堂が寄棟式で、講堂は入母屋式です。

【引用】天平の美術-14

〔唐招提寺鑑真和上像〕

鑑真和上の非常に意思の強い盲目の姿というもの がよくあらわれております。これは乾漆です。乾漆の肖像彫刻という点から見ましても非常にりっぱなものです。

【引用】天平の美術-14

〔唐招提寺本尊盧舎那仏像〕

これは今 の唐招提寺のご本尊です。この坐像の身長はたいへん高くて、たしか三.三九メートルあります。このお顔が実に美しい。とくに目尻の長いところ。天平時代の仏像でこれ以前のものにはございません。眉毛のつくり方もやや変わって来ている。これは盧舎那仏でございまして、東大寺の大仏も盧舎那仏ですから、大体これを何倍か大きくすれば当時の東大寺の大仏になるわけです。これも乾漆像です。東大寺の大仏はブロンズですから、これと違いますけれども、大体の形はこういうものであったでしょう。それから後ろの光背も当時のものです。これに千体の非常に小さな仏像が彫ってある。つまり、この盧舎那仏が太陽みたいな中心ですから、その分身であるたくさんの仏像が世界中に遍満しているということです。そのたくさんの仏像のいちばん中心にこの盧舎那仏があるということですから、盧舎那仏をあらわせば、必ずその後ろにたくさんの仏像をあらわさなきゃならない。

〔同部分〕

非常にゆったりした、手の形でも、たとえば薬師寺の薬師如来なんかと比べますとたいへん変わってまいります。写実的なものを充分踏まえながら、非常に円満な感じが出ているわけですね。本尊の横にあります千手観音も大体この御本尊と同時代です。

唐招提寺もいろいろとお見せしたい仏像があるのですが、スライドに制限がありますのでこれで割愛いたします。

【引用】天平の美術-14

〔聖林寺十一面観音像〕

これはすっかり飛びましたが、奈良から南のほう、桜井へ行きますと聖林寺というお寺がありまして、そこの観音像です。天平の彫刻というとこれはたいていの本に必ず出て来る、非常に美しい、堂々とした像です。お顔のみごとなつくり方。十一面観音としてもいちばん天平らしいと普通言われているものです。しかし大体八世紀も後半でございますから、だんだんとつくり方が変わって来ます。こういう肉体をかなり官能的と言いますか、そういうふうにあらわすようになって来る。

【引用】天平の美術-14

〔新薬師寺十二神将像〕

奈良市内のずっと南東のほうですが、新薬師寺には真中に薬師如来があります。そのぐるりに十二体の神将がある。これは非常に激しい顔付きの像で、天平の代表的な彫刻です。前にお見せしました戒壇院の四天王なんかより、もっと激しい。とくに顔の面に激しさがあらわれている。十二体のうち、これは伐折羅(ばきら)という名前が付いております。どれよりも伐折羅神将の姿が動的でみごとであるというので有名です。

〔同伐折羅像〕

やや手が硬直したように見える。これは乾漆じゃなくて塑像でつくってある。戒壇院の四天王と比べますと、やはりちょっと表情が激しくなり過ぎているような感じがする。怒りを抑制するんじゃなくて、外へぶちまけたという感じですね。そういう意味では代表的な仏像です。

【引用】天平の美術-14

〔秋篠寺伎芸天像〕

いよいよこれで天平時代の彫刻も最後になります。この像は、首から下は鎌倉時代の作です。このお顔自体が非常にロマンチックと言うか、今までの天平の彫刻にはなかったような美しさですね。ですか ら、理屈を言わなければ、私なんかいちばん親しみやすい、美しい仏像だと思います。首から下は後世の製作ですから、別にしなきゃいけない。伎芸天の音楽というようなことを考え合わせます。少し重たげな下唇。そういったところにも、天平最盛期のような引き締まった表現に比べて、いかにも人情というものをあらわしているようです。 当時の人の信仰がだんだんこういうふう な像に憧れを持ったという、これもその 根はやっぱり社会不安ですね。単なる理屈じゃなくて、ほんとうに自分のいちばん親しげなものにすがりたい。

秋篠寺というのはこの伎芸天によって今日でも非常に有名になっているわけです。たしかにお顔は日本人でなければ感じられない美しさかもしれません。

〔伎楽面〕

伎楽面は正倉院にたくさんあり、法隆寺にもありますし、もともと奈良の諸大寺にはたくさんあったわけですね。こういう伎楽面を付けて、法要の時には舞楽をやった。これは呉女(くれおんな)という名前が付いております。女性をあらわしたんですけれども、この当時は童子でもこういう双髻(そうきつ)を結ったわけです。非常にやさしい、いかにも日本人らしい顔になっています。

〔伎楽面・酔胡(すいこ)〕

これは前とまったく違う。後世では、天狗ということになるわけです。目の深い、鼻の高い、ちょっと異様な顔ですが、むしろ、これは中央アジア人の顔を表現したもので、この伎楽面も酔っぱらった胡の男という名前が付いております。耳はやや長めで、とんがっているのも普通の人間ではない。中央アジア人を誇張しているのでしょう。彫刻としてはたいへんおもしろい。まだ、ほかにいろんな種類のものがございます。こういう伎楽面を見ると、天平の彫刻は多種で多面的であるということがわかります。

〔聖徳太子および二王子像〕

これはよくご存じの聖徳太子の画像、両脇が王子です。右は太子の長男の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、左は殖栗(えぐり)王。これは奈良朝の作品と申しますけれども、後世の手が相当加わっているんじゃないかと思われる。奈良朝ですと、もうちょっと線が力強いと思うのですが、少し弱い感じがいたします。いずれにしましても、この服装はみんな唐の時代の服装が日本に渡りまして、革帯をして、大刀を付けている。上には冠をいただいておられるわけです。こういう襟の丸首になっている衣服、それから沓(くつ)でも、みんな唐の貴族の服装です。

先般の高松塚壁画の男子像では、革帯をしていないし、下にこういう黒い沓をはいていない。そんなことからして天平時代よりだいぶん前の製作であるということが想像されます。

〔琵琶装飾図〕

琵琶の撥面に描いてある絵であります。この琵琶はほとんど使わなかったとみえて、撥面がちっともすれておりません。これはたいへんに有名な絵でございます。

象の背中にじゅうたんが敷いてあって、その上に中央アジア系の人が三人います。その一人は横笛を吹いており、一人は踊りを踊っておる。顔付きを見ますと、いかにも目の深い中央アジアの人 で、そういう人々が象に乗ってやって来る。その後ろに急な崖があり、遠くのほうに深い谷が見え、雁が列をなして遠くに飛んでいる。遠くまで山が連なっていて、地平線が赤く染まっている。夕日でしょうか。当時の一種の山水画です。急な崖は、華北地方に今日でも見られます。非常に遠くまで谷が続いているという景色です。中国からこのような絵が日本に伝わって来たのです。これは秋の正倉院の展覧会の時に、十年に一遍ぐらいは出品されることがあります。

【引用】天平の美術-14

〔鳥毛立女屏風〕

この屏風は正倉院にあります「鳥毛立女屏風」の一つで、もとは六扇あるというふうに記録されております。紙の生地の上に、ふくよかな天平美人を描いていまして、岩に腰かけている、あるいは木の下に立っているというふうな、多少の図柄の違いはあります。衣装の部分には、もとは鳥の毛が張り付けて飾ってありましたが、今はすっかり鳥の毛ははげてしまって、その下描きの描線の墨の色がはっきりと見え、もとから着彩がなかったことがわかります。

顔の部分だけには、もとの彩色がよく残っております。頬紅をさし、額や口もとに緑色の描きほくろがあり、いかにも天平らしい顔付きです。とくに太い、濃い眉毛をあらわして、切れ長の目を 付けるという、中国で申しますと、盛唐の美人で、唐時代の土偶によくある顔付きです。

大体八世紀の中ごろにつくられたと思うのでありまして、天平勝宝四年ということが裏張りの紙に書いてあるので、それがわかります。天平時代の最も美しい絵の一つです。

〔薬師寺吉祥天画像〕

次は薬師寺にあります国宝の吉祥天の画像ですが、これは麻の布に彩色してある絵で、吉祥天と申しますのは、吉祥悔過という法要が天平勝宝元年ごろにあったという記録もございますし、八世紀の半ば以後に、こういう吉祥天の信仰が盛んにあったというふうに思われます。それはとにかくといたしまして、この画像も、天平美人の絵と同じように、たいへんふくよかな貴族の女性というふうな感じがしまして、仏像というよりは、やはり何か当時の上流階級の女性のように見えるわけです。これも、もともと中国からはいって来たのにもとづいて描いたと思います。薄い絹の衣裳にいろいろ色彩をこまかくあらわしておりまして、衣裳の模様なども、克明に描いてあります。ただ裾のあたり天衣が揺れているのは、仏画ふうです。そういう点ではたいへん珍しい絵でして、同じころの中国にも、これだけの細かい絵はほとんど残っておりません。

〔京都上品蓮台寺絵因果経〕

最後に絵の例として、絵因経をお見せいたします。

絵因果経と申しますのは、過去現在因果経というお経の文句を下段に書き、上段にそのお経の内 容を克明に絵巻物ふうにあらわしたものです。普通、絵因果経と呼んでいます。

わが国には、いくつかこれの絵巻がございますが、ここにお示ししたのは、京都の上品蓮台寺というお寺にあります、現在では奈良朝のものとして代表的な絵因果経です。

言うまでもなく、このお経の内容は、釈迦の前世物語りから始まって、現世に生まれてからの釈迦の伝記をこまごまとあらわしたお経で、絵のほうも、その内容をあらわすわけです。

この絵因果経は、むろん中国の絵巻の写しであることはたしかで、その中国のほうのものはぜんぜん残っておりませんが、いろいろの点から見まして、中国の原画は七世紀のはじめごろの絵ではないかというふうに思われます。中の人物なども、すべてすらりとしたやせ型の人物で、素朴なあらわし方ですが、楽しげな絵です。建物のあらわし方なども六朝時代以来の素朴なやり方だし、岩であるとか、山の表現も、そういう古風なあらわし方です。日本の絵巻物の歴史から申しましても、これはいちばん古い作品で、中国には今はもうこの種類のものは伝わっておりませんので、たいへん重要な作品と言ってよいわけです。

天平・奈良時代の絵の残っているものには、また正倉院に麻の布に墨で描いた天人の図であるとか、いろいろの工芸品に描かれた絵もございますが、何と言っても絵の作品は亡びやすいので、仏像ほどはたくさんは残っていないという実情です。

以上、スライドをお見せいたしましたが、要するに天平・奈良時代の美術は、広い意味で申しますと、中国や朝鮮半島を含んだ広い東アジアの美術の流れの一つと言ってよいわけで、とくに大陸では、すっかりなくなってしまったものが日本にはたいへん保存よく残っているという点からも、いろいろの意味で注目されるわけです。一つには、東洋美術全体の歴史の上でもきわめて重要ですし、また日本の美術の歴史から申しましても、古代の最もはなやかで、いろいろの方面の作品が、花が咲いたように出て来たものとして、日本美術史の最初の開花期を飾る重要な作品群を形成するわけです。

以上をもって、私の話を終わりたいと思います。

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