赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。

一 維新期の画家たち

如雲社と鉄斎・宗立

円山・四条

幕末の京都画壇は、銅版画や文人画、岸派・大和絵の復興などさまざまな画派によっていろどられているが、やはりその中心には円山・四条派があり、ことに四条派には横山清暉・岡本豊彦・塩川文麟らの俊秀が輩出し、後期の東山春秋展観およびその発展である如雲社も四条派の画家たち によっておしすすめられ、そのなかにそだった幸野楳嶺(とうのばいれい)、その門人竹内栖鳳によって近代京都画壇の基礎が固められていった。

円山派には、当時京都にあった蘭方医と関係をもつものが少なくなかった。広川獬の享和三年(一八〇三)刊『蘭療方』の銅版画風の挿絵は応門十哲のひとり山口素絢筆と考えられ、それより前にも寛政十年(一七九八)の『施薬院解体図譜』に、応挙門の吉村蘭州・孝敬父子および応挙の次男木下応受が筆をとった。なお円山派ではないが、翌十一年刊の『解体瑣言』の挿絵は、「画者三人択工真写者」とあるように、祇園井特(せいとく)ら特に真写に巧みな絵師が選ばれている。このように応挙の門人のなかには洋風画に発展する機会に恵まれたものもあったが、それはそれ以上に展開することはなかった。円山派はその門人千人とさえいわれたが、全体に師の画風を墨守するにとどまり、幕末になっても新しい展開はみられなかった。これに対し、四条派は、頼山陽が「京師の画、円翁に一変し、呉叟に再変す」とのべたように、その洒脱な詩情や、平明な画風が京都町人に喜ばれ、京都画壇の中心的存在となった。

円山・四条を中心とする幕末における京都の画家は、『平安人物志』によれば天保九年(一八三八)百五十四名、嘉永五年(一八五二)百九十九名、慶応三年(一八六七)百十二名と文政十三年(一八三〇)の百六十名と大差ないが、弘化四年(一八四七)に吉田狻山が序を書いた『皇都書画人名録』では画家だけで二百二十三名が数えられる。このなかには画業を専門としないものも含まれ、量的な増加がそのまま絵画の発展を意味するものではないが、京都に遊学するもののために『皇都書画人名録』が刊行されるなど、京都画壇が社会的により注目されてきたものとみることができよう。

如雲社の結成

東山春秋展観は、もともと一画派に偏するものではなかったが、幕末になると会場の中心に横山清暉・中島来章の作品をかかげるのを例とし、晴暉は会のあるごとに多くの門人をひきいて来会したといい、四条派を中心に運営されていたようである。元治元年(一八六四)九月、清暉が没すると世情も騒然として、それまでのような大展観の運営が困難となり、七十年の栄光をもつ東山書画展観も幕を閉じることとなった。のち如雲社の中心であった国井応陽の回想によれば、東山書画展観が開かれなくなって、慶応のはじめ、円山応立・中島来章・塩川文麟・鶴沢探真らは毎月会をもって交友を温めていたが、明治元年(一八六八)円山応震に学んだ豊岡随資が集合の日を一定してその会に如雲社と命名したという。

明治二十九年一月、如雲社が後素協会と後素如雲社に分裂したとき、後素協会の委員となった原在泉は、その発会式において「本会は慶応二年故土佐光文・鶴沢探真・狩野永祥・原在照・吉村孝一国井応陽及当時諸先輩の創設するところにして、新古書画展覧動物写生等総て六法の研究に資するものにして、明治元年初めて後素如雲社と命名す」とのべているが、当時はただ如雲社とよんでいたようであり、後素の字のつくのはかなりのちのことである。在泉のあげている創立に関連した人びとは後素協会の立場もあったのか国井応陽の回想とはことなるが、ともに円山・四条・狩野などさまざまな両派の寄り合いであり、親睦会・研究会的な性格の団体であり、その名も雲のごとく集まり、ときには雲のごとく散ることにちなむもののようである。毎月の会合は十七日(のち十一日)と定められ、当日作品を持寄って相互に批評をすることを例とし、会費は作品を差出したものが、一人につき二銭出すことのほかは何ら会則も設けず、雑事は筆屋・絵具屋がすすんでこれにあたったという。なお、明治六年(一八七三)京都御所における第二回京都博覧会には、如雲社の社員五十名が毎日数名ずつ会場において席上揮毫をし、会場で製陶の実演をしていた素焼の皿などにも筆をとったという。そのときの名簿によれば、これまでにふれてきた画家のほかに岸竹堂・望月玉泉・菱田日東・森寛斎・今尾景年・久保田米僊ら京都の各画派が集まり、大家新進入り混じって多彩な顔ぶれである(『京都博覧会協会五十年記要』)。

雲のごとく集まるとはいえ、おのずからその中心となる人物があり、初期には塩川文麟、後期には森寛斎がその主宰者的な存在であった。文麟は四条派の岡本豊彦に学んで蕪村の風を慕い、若くして頭角をあらわし、横山清暉・中島来章・岸連山とともに当時の四大家とよばれていた。晩年の文麟は木屋町仏光寺橋に住んで、その家からながめる東山の夕景の美しさをめでてその居を「山気夕佳処」と称し、木仏老人とも号し、豪放洒脱な生活を送った。いま祇園万亭(一力楼)に伝えられる忠臣蔵七段目一力茶屋の図は、遊興費の代わりに描いたものという。明るく社交的な文麟が明治十年に没すると、森寛斎がその跡を継いだ。寛斎は長州荻に生まれ、円山応挙に学んだ大坂の画家森狙仙の養子徹山に入門しその姓をゆるされ、天保九年(一八三八)上洛し、徹山の長男田中内蔵丞の家に寄寓して、円山派の勢力挽回につとめた。維新にあたっては勤王運動に身を投じて東奔西走したと伝えられる。なお、冷泉為恭・浮田一薫らも勤王運動に参加しており、文麟も高崎正風らと交わってしばしば島津久光邸を訪ねたと伝えられる。寛斎は文麟にくらべて謹厳な性格で、如雲社では毎月の展覧目録を編集し、自家の木活字で印刷して出品者に配布するという細かな心くばりをみせ、社員と幸野楳嶺とが対立したときも彼のとりなしによって事なきを得たという。明治二十七年(一八九四)寛斎が没すると如雲社はその中心を失ない、さきにふれたような分裂をみせる。

蓮月と鉄斎

幕末の京焼は、天保四年(一八三三)青木木米が没すると、周平・保全・仁阿弥とあいついで個性的な陶芸家を失ない、清水焼と総称されるような漠然とした個性の弱いものとなっていったが、ひとり大田垣蓮月は異色な個性豊かな作風をみせ、その手づくねの急須などは、煎茶流行の風潮にのって蓮月焼と呼ばれて世にもてはやされた。蓮月は四十二歳の天保三年養父西心を失ない、神楽岡=吉田山の南麓黒谷あたりと思われる「かぐら岡崎」に移った。はじめは生活の資に和歌の師匠になろうとしたようであるが、たまたま粟田に住む老婆に陶器を焼くことをすすめられ、当時最も需要の多い煎茶の急須を始めたと伝えられる。蓮月はのちに、「もとよりまずしきみにてせんかたなく、つちもてきびしょ(急須)といふものをつくる。いとてづつにてかたちふつつかなり。ただえりたる歌も、ただすきにて」とのべているが、自作の歌を独特な書風の釘彫りで書いた煎茶器は、当時の文人趣味に迎えられ、たちまち評判となり、さっそくその偽作があらわれるほどであった。

蓮月の焼物は、初めほそぼそとした手作りであったが、煎茶の家元玉川遠州流大森家で一手販売することも考えられ、いまも大森家には蓮月の歌を添えた宣伝文に、「蓮月陶器家元暁雲堂」と記した引札の版下と思われるものが伝えられている。蓮月焼の土は初期京焼いらい、良土として知られてきた岡崎土をもちいているが、窯は粟田の帯屋与兵衛や五条坂の清水(きよみず)六兵衛の窯に焼成を頼んでおり、のちには黒田光良を弟子として窯をきずかせ、評判が高くなって注文に応じきれなくなると、光良に素地を代作させ、歌の釘彫りのみ蓮月ということもあった。蓮月焼の贋作者たちをなやませたというように、蓮月の書は張りのある細い線で極めて個性的な書風をみせ、これまた世の競い求めるところとなった。蓮月もいうように「もとよりまずしきみ」のこととてこの書も生活の資となり、短冊などを多量に書き、大森家など知人をたよってこれを売っており、いまに伝えられる作品も多い。

岡崎のわびずまいの近くに、三条通室町東入ル衣棚(ころものたな)町に各宗の法衣を商う老舗十一屋伝兵衛の別宅があった。蓮月は「屋越蓮月」といわれたようにながく一カ所にすむことがなく、岡崎にすんで十数年、多くの来客がわずらわしくなると屋越しの意志を十一屋伝兵衛に伝え、静閑なところを求めた。十一屋が親しい心性寺の住職原坦山(たんざん)に相談して、蓮月は白川村の将軍地蔵の南麓心性寺に移ることとなった。ここには深く私淑する小沢蘆庵の墓があり、蓮月自身この地を望んだのかもしれない。借窯のこととて粟田・五条坂まで急須や茶碗をはこんだり、土を持ってくるにもたいへん不便な土地であり、六十歳を過ぎた老尼をひとりずま いさせることもできず、十一屋伝兵衛の次男猷介(ゆうすけ)のちの鉄斎が、その手伝いとして同居することとなった。

天保七年(一八三六)十一屋の次男として生まれた鉄斎は、少年の頃山本菋園(まいえん)の塾に通った。菋園は嘉永五年(一八五二)版の『平安人物志』に「山本愛親、号菋園、油小路三条北山本勘四郎」とあらわれる儒者であり、そこで商人の子として読み書きそろばんを学んだが、まもなく、野々口(大国)隆正の開いた報本 学舎に学ぶとともに、岩垣月州・春日潜庵にも学んだ。また蓮月の心性寺に行く少し前、二十歳頃窪田雪鷹(せつよう)に絵を学んだ。雪鷹は『皇都書画人名録』によれば西洞院三条上ルにすみ、南北宗合すなわち南宗画と北宗画を折衷する画風をもち、諸名家が入門していたという。また、岡崎にすんでいた小田海僊や大和絵の復興を目指した浮田一蕙とも交わり、さまざまな画風を学んだ。

このように学問もあり絵もよくするという鉄斎を迎えた蓮月は、ことのほか喜んだことであろう。鉄斎は蓮月の作陶の手伝いをするかたわら、越前・長崎などに遊んだ。文久元年(一八六一)長崎に遊ぶとき蓮月は、「こたび長崎へおはさば、から人にもいであひて、何くれのことども聞あきらめ、めでたきふでの跡をも、心のかぎりうつしとりてかへり玉へ」と絵の修業のことにもふれ、餞別として二百匹を贈って励ましている。このころ蓮月は再び岡崎に戻り、さらに聖護院村に移っており、長崎から帰った鉄斎はそこに身を寄せ、蓮月がまた屋越しをするとその家に私塾を開いた。

鉄斎が私塾を開いた丸太町川端東のあたりは、歌人の高畠式部・税所敦子(さいしょあつこ)、詩人の中島棕隠、書家の貫名海屋(ぬきなかいおく)、南画家の小田海僊、円山派の中島華陽らがすんでおり、文人鉄斎に最もふさわしい場所でもあった。はじめは弟子もつかなかったが、二、三年もするとしだいに弟子もふえ、蓮月から「さればこそ御家内様なくてはならぬ事」と結婚をすすめられ、中島華陽の娘と結婚した。その年慶応三年(一八六七)版の『平安人物志』には儒家の項に載せられるほどになり、明治二年(一八六九)には西園寺公望(きんもち)に迎えられて立命館の教員となった。そののち数年は鹿児島・北海道・東北など各地を遊歴しているが、その間も蓮月はたびたび励ましの手紙をおくっており、鉄斎の人生や近代日本画壇に異彩を放つその芸術にとって、蓮月のあたえた影響はすこぶる大きかったと考えられる。

 

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