《天平‧奈良》,朝日新聞社,1973。
長広敏雄
スライド説明
〔東大寺地図〕
これは正倉院に残っております東大寺の地図です。上が三笠山、山が逆になっております。大仏殿が南に向いている。全体に回廊がまわっている。大仏殿の東が今の三月堂あたりに当たるところです。その反対、西のほうに、おそらくさっきの鑑真和上のいた戒 壇堂があったに違いない。現在の戒壇院は、天平のころの戒壇院とは位置が違います。一つ注意しなきゃならんのは、西の大きな門です。西大門と書いてある。ここのところに門があったということがわかる。南大門よりもっと外のところに西塔、その反対に東塔。全体の区画よりもかなり離れたところに東西の塔があった。こういう天平の地図が残っていますので、大体のことはわかるのですが、東大寺の全体の境域というのはこんなに広い。
〔東大寺現在図〕
現在の地図に直してみますとこういうことになる。赤で書いたのが昔の東大寺、黒が現在の地図でございます。奈良の市バスで行きますと大仏前で止まるわけですね。その少し先に南大門がありまして、南大門の少し先に現在の池がございますね。現在の中門に当たるところに南中門というのがありまして、そこから一応ぐるっと囲んで回廊がある。この回廊も複廊と申しまして、柱が真中にも並んでいたと言われています。回廊が大仏殿につながって、昔のは、ずっと横幅の広いものです。講堂の後ろに非常に大きな僧房があり、そこにお坊さんたちがいたわけです。大仏殿の西南に西塔があった。この時代は、中国でも日本でもそうですけれども、塔を単独に 建てるんじゃなくて、塔のぐるりにも必ず回廊をまわして、門を必ず四方に開くのが当時のやり方です。大仏殿の東南が東塔ですね。ですから、今あります池の東の森の中の、やや斜面になるところに東塔の跡がある。そして現在の三月堂は大仏殿の東になるわけです。ごらんのように地図のコントルが示すように、山の傾斜がかなり急になっている。急になって、三月堂のところですとんと 落ちていますから、おそらくこの辺までが、全部昔は山であったに違いない。この一画は山を削ったに違いない。北のほうも山が出ております。そこには食堂をつくっている。そして境域は非常に大きなものですね。奈良公園から北のほうへ行きますと転害門という門。この転害門は天平時代そのままのものでございます。
〔東大寺八角灯籠〕
金銅でつくった八角の灯籠。これが現在残っておる唯一の天平時代のなごりでございます。おそらく天平のころは大仏殿の前にこういう灯籠がいくつも並んでいたに違いない。
〔同部分〕
この八角灯籠の透かし彫りには天人がおりまして、笛を吹いたり、いろんな楽器を奏している。非常に美しい天平のなごりをとどめているわけです。ふくよかな円満な顔付き、衣の裳裾や天衣も非常にやわらかく、襞(ひだ)の線をたくさん付けてにぎやかにしている。いかにも天平らしいですね。
〔正倉院〕
これが正倉院の建築でございまして、北倉・中倉・南倉と三つの倉があります。非常に高い床にしまして、鼠が上がらないように鼠返しになっている。廊下も何もないわけです。ですから、はいろうと思えば、はしごをわざわざ持って行って開扉しなければならない。これは昔から勅封ということになって、年に一遍しかあけないことになっています。
〔正倉院蔵「楽毅論」〕
これは正倉院に残っていました光明皇后自筆の書でございます。これは『楽毅論』という中国の文献を写されたものです。天平十六年と書いてありますが、藤三娘(とうさんじょう)、つまり藤原不比等の第三女という意味です。こういう名前を三字にするということも、わざわざ中国流にしている。こういうことも、当時中国文化にみんな心酔していたことを示すものです。一字一字非常に強く書いてある。よほど性格の強い人であったろうと思われる。
〔正倉院蔵五弦琵琶〕
撥(ばち)面のところに鼈甲(べっこう)を張り、貝の象嵌をしてあります。また貝で熱帯樹の下にラクダに乗って琵琶を奏する人をあらわすというデザインです。正倉院には盛んに中央アジアや、あるいは南アジアやペルシャあたりの、西方のデザインが多い。そこで、シルクロードは正倉院が終点である、ということがよく言われる。つまり現在中国ではすっかりなくなってしまったような中央アジアのいろんな文物が、正倉院には多く残っている。これをごらんになっても、単なる楽器というよりも、工芸品としてたいへんきれいで、しかもしゃれている。
〔正倉院蔵漆胡瓶(しっこべい)〕
ちょっと見ますと金属のよう に見えますが、そうじゃなくて、やはり漆で固めた一連の漆工芸です。金と銀の模様を薄く切り抜きましたものを表面に張るわけです。そして何遍も漆をかけて磨ぎ出す。そして黒くなっている部分と、金銀のところが同一平面になるところまで、何度も漆をかける。そうしますとなめらかな表面になるわけです。金銀の模様の一つずつを見ますと、草花文様が あったり、樹のある山の文様があったり、あるいは鹿がうずくまったり、走ったりしている。これはあくまでも中央アジアの風物ですね。こういう非常に楽しげな模様が、平安朝になりますと、何かもののあわれを誘う日本的なものに変わってしまう。まだ天平時代は、非常に明るい感じです。
〔正倉院蔵三彩の焼き物〕
三彩という焼き物は、中国でも大体八世紀の最初の五十年間ぐらいに非常にはやりました陶器で、中国の都の地方だけでしかつくらなかった。それを日本でも模倣してつくったわけです。土はやわらかいのですが、青色、黄褐色、黄・緑などの色釉をかける。中国の三彩を日本でまねたわけです。
〔正倉院蔵鏡〕
顔を写すほうはこれの反対になるわけです。美しい貝殻、あるいは瑇瑁などをちりばめて、宝相華風の形にしながら、いろんなところに違った動物をあらわしている。これが螺鈿という技術です。
〔正倉院蔵八稜箱〕
漆を塗った箱です。八つの花弁形になっているのを八稜と申しますが、天平時代に非常に好まれました。これはやっぱり蓮華(れんげ)の花から着想したんだと思います。金銀で非常にこまかく模様を置いて行く。高松塚の透金具の文様の系統から来るものですね。後にはこれは宝相華(ほうそうげ)という名前で言います。どこも手を抜いていない、非常にすばらしい工芸技術です。
〔正倉院蔵献物机〕
これは献上品をこの上に載せた机、今で言えば三方みたいなものに当たりましょうか。木製品の上に彩色がしてあります。模様のあらわし方で繧繝(うんげん)彩色というのは、たとえば、濃い青色を置いて、それから少し薄い青色、また少し薄いというように、同じ色を何段階にも、ぼかすんじゃなくて、きちっと並行に並べて描いて行く。このやり方を繧繝彩色と申します。そうしますと、遠くから見ると一種のぼかしと見えますけれども、近くで見るとぼかしじゃなくて、やはり非常にきちっとした幾何学的な帯をなしている。興りは、立体的に花なんかをあらわすところから来ているというんです。これが天平時代には非常に喜ばれた。これもむろん中央アジアから中国をへて来たわけですが、この前も申しましたように、色の調和ということですね。どぎつい色を使わない。赤と青を使いながら、繧繝文様で持って行けば非常にやわらかい感じになる。そういう色の調和と言いますか、どぎつさを避けるというのが天平時代の一つの特徴です。
〔正倉院蔵錦〕
真中を、いわゆる宝相華という一種の蓮華みたいな文様にして、それを中心にして何遍も繰り返して行く。この場合も同じように、色を、濃い色 からだんだん薄い色に段階的に持って行くという、やはり繧繝彩色の手法です。
〔東大寺蔵錦〕
これは正倉院ではなくてお寺のほうに 残っておったもので、真赤な緋の生地の錦です。この錦にも今のような花模様。これは断片です。青が退色したんですが、そういう繧繝手法を使っている。文様の表現法はみんな同じです。大体真中にまるいものを置いて、ぐるりを宝相華で包んで行く。こういう錦がたくさんあったと思われます。
〔﨟纈模様〕
﨟纈の屏風の部分です。図の真中に木を置きまして、それに鳥なんかいるわけですが、木の向かって右側に天平独特の非常に豊満な姿の女性が笙(しょう)を吹いておる。ごらんのように輪郭が鋭い線になっている。つまりこれは蠟を置きますから、非常に鮮明に出るわけですね。これはたった一色の染めですけれども、これを何遍でも繰り返して複雑な色にすることが出来る。そういうものも正倉院にあるわけです。樹の幹が中心に真直ぐ立って、左右に同じように枝が分かれるという木のあらわし方。これは大体ペルシャのほうから中国をへて日本に渡って来た文様です。何となしに、童話の世界にでもありそうな木の描き方ですね。樹や草花でも、いかにも童話の中に出て来るようなほがらかさがある。すべてペルシャ系統のやり方です。
〔夾纈模様〕
これも染めですが、板染め、板を挟むほうです。輪郭線が﨟纈ほど明確になってないから、かえってそのやわらかさが出ておもしろい。これは一度青の染料の中へつけて、次に薄赤色の染料につけるという二度手間をやっているわけです。デザインのほうは、さっきと同じように、真中の幹から同じように枝が分かれる。これもやはりペルシャ系の樹木の模様。そして鳳凰じゃなくて、むしろ南方系の鳥。とにかく非常に静かで、しかも豊麗と言いますか、そういうデザインの特色です。
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