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水野敬三郎

三、銘記をめぐって

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

北円堂中尊台座の反花内側に墨書銘が記されている。昭和四十年度の修理の際、文化財保護委員会が調査した結果は次のとおりであるという(『昭和四十年度指定文化財修理報告』昭和四三年、文化財保護委員会)。

(一)後方分(右から左へ) 

頭仏師中尊
上座大□(法カ仏カ)師源慶
上座大仏師□(静カ浄カ)慶

(二)右側分(後から前へ)

...法□(園カ苑カ)林 頭仏師 法橋運覚 
大妙相仏師 (法眼康カ)運自余小仏師不及注進

(三)前方分(右から左へ) 

四天頭仏師
東方法眼□(湛慶カ) 西方法橋康弁
南方法橋康運 北方法橋康勝

(四)左側分(前から後へ)

世親□(頭大仏師カ)運□...(賀カ勝カ)

无著□天仏師...(運助カ康□カ)

足立康はこの墨書銘に「自余の小仏師は注進に及ばず」とあるのに注目して、それが造像銘としては不審であり、造仏所から寺家または京師へ送った注進状の文句を転写したものと見た(「興福寺北円堂及びその仏像の再興」『建築史』二ノ六、『日本彫刻史の研究』所収 昭和一九年龍吟社)。傾聴すべき意見であろう。その書体も謹直なものではなく走書き風であり、仏師の側として、各尊担当の仏師列名を書き留めたと考えられる。

平安時代後期の造像銘記は、納入品に記された銘記と像の一部に直接記された銘記も含めて、大別して二種がある。その一はたとえば像内の胸部に月輪や種子、真言陀羅尼の類、あるいは経文などを書くもので、これが前述のように納入品として像内に籠められることもある。これらはいわばその仏本来の性格を明らかにするもの、あるいは その尊の供養法に関するものといえよう。すなわち本来、仏そのものに属するものである。その二は願文の類で、発願の趣旨、主、結縁交名、あるいは開眼に至る造像次第などが記される。これは発願者の立場から書かれたものである。その後者の銘記に制作者としての仏師の名前があらわれる場合とあらわれない場合とがあった。この点について私は、発願者と仏師との相対的な社会的地位関係に左右されることが多いのではないかと考えている。十二世紀の『今昔物語』に造像に関する説話で「仏師ヲ請ジテ」「仏師ヲ語とテ」という記し方と「仏師ヲ呼テ」という記し方が注文主と仏師との社会的地位関係に応じて使いわけられているという興味深い指摘があるが(浅香年木『日本古代手工業史の研究』昭和四六年、法政大学出版局)、前者のように発願者と仏師が対等の地位にある場合に仏師の名が銘記中にあらわれ、後者のように仏師が発願者に対して従属的な関係にある場合に、仏師の名は銘記中に記されないのであろう。

もっとも天皇家や摂関家などの上級貴族による一堂の本尊のような本格的造仏では、このような造像願文が像に直接書きつけられることはなかった。これらの場合、心月輪等を別に造って像内に奉籠し、像内を聖なる仏身内そのものと見なす意識がことに強かったと思われる。しかし上級貴族による造像においても像の台座に銘記を記す例は見られる。京都大覚寺の五大尊像がそれで、台座の銘から後白河院の発願と推測されるものだが、これに安元二年(一一七六)に法眼明円がこれを造進したと記されている。この明円は仏師であるが、明円の名がここに記されたのは、仏像の制作者としてでなく、造進者、つまり仏像を後白河院に寄進したもの(もちろん造ったのも明円自身であろうが)として解すべきであろう。天皇家や上級貴族の発願による造像では、銘記に制作者としての名があらわれることは、その社会的地位の関係からいってもまずなかったと考えてよい。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

このような状況の中で、運慶が安元二年に造った奈良円成寺大日如来像の台座にある銘記は、造像銘記史上に画期的なものとして 注目に価する。「大仏師康慶実弟子運慶」と記し、花押を加えたもので、運慶の自署であろう。これは今までのような発願者の立場から記された仏師の名ではないし、造進者として名を留められたのでもない。制作者としての仏師自身が作品に署名をしたものである。そこに運慶の、あるいは運慶を含む当時の奈良仏師の、仏師としての新しい意識を感じさせるのである。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

円成寺大日如来像を最初の例として、鎌倉時代になるとやがて仏像制作者としての仏師が署名をすることは一般的になっていった。運慶と同門の快慶の作品が、像内や足柄にしばしば自筆の記名をもつことはよく知られている。運慶のその後の作品を見ると、文治二年(一一八六)の願成就院諸像や文治五年の浄楽寺諸像では、納入品としての五輪塔形、あるいは月輪形木札の裏に、願主とともに運慶の名が記されている。これらは願主の立場から仏師の名が記されたのであろう。北条時政や和田義盛な東国の豪族とは、同等の社会的地位にあったと考えてよい。円成寺大日如来像にもどって考えると、この像は寺としての、あるいは寺僧による発願造立であったろうから、その台座に運慶が署名することは、画期的なこととはいえそれほどの抵抗はなかったかとも思われる。平安時代の願主の立場からの造像銘記でも僧侶が願主である場合には、仏師の名が記されていることが多かったからである。

ところで北円堂像の場合は関白藤原家実がその造立にかかわったものであった。この上級貴族に、仏師としては社会的地位の上でいかにしても比肩しうるものではない。その台座に仏師の列名があらわれたことは、仏師の制作者としての意識、自己の主張がますます鮮明になったことを示すものであろう。この銘記の歴史的な意義をそのあたりに求めることができると思われる。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

次に銘記中の仏師について考えてみよう。『猪隈関白記』によれば御衣木加持に際しておそらく運慶を含む三人の仏師が中尊を担当したことは前に述べた。銘記では運慶の名は記されず、中尊は源と静(浄か)慶の二人の担当となっている。 運慶は北円堂造仏のすべてを総括したのであろう。源慶と静慶は、寿永二年(一一八三)の運慶経に結縁者として名が見える。爾来三十年以上の長きにわたって運度とともに仕事をしてきた一門中の最古参の仏師と思われる。脇侍法苑林の担当は法橋運覚かと読まれている。運覚とすれば、『高山寺縁起』に、建保六年(一二一八)以前に運慶一門により造立された地蔵十輪院の四天王像中の持国天を分担した「円慶 改名運覚」に当たるのであろう。この四天王像は増長天湛慶、広目天康運(改名定慶)、多聞天康海(改名康勝)の分担とされているが、当時四天王の造立にあたっては、持国・増長・広目・多聞、すなわち東南西北の順に上位の仏師から分担造像するのがふつうであった。とすれば運覚は運慶の長子湛慶より先輩格の仏師ということになろう。運覚が北円堂造仏において中尊につぐ脇侍を担当したゆえんもそこにあると思われる。脇侍大妙相の方は、法眼康運かとの推測があるが、康運は増長天の担当であることが明らかで、同名異人ということもないわけでなかろうが別の名前の仏師と考えたい。おそらく運覚につぐ老練の仏師であったろう。

四天王像では持国天が法眼湛慶かと推定されている。以下南西北の順に法橋康運、法橋康弁、法橋康勝が担当している。ついで世親は運賀か運勝か、無著は運助か康口かと推定されている。これらから臆測すれば、四天王の東西南北、世親・無著の順に、運慶の長子湛慶以下六人の子息が年長者から受け持ったと考えられる。『東宝記』にのせ大仏師康法眼の注進状に運慶子息を「湛慶、康運、康弁、康勝、 運賀、運助」の順に記し、東大寺図書館本『仏師継図』では運助、運賀と順が入れかわっているが、この銘記は「康誉注進状」に記す順に適合すると見られるのである。持国天は湛慶、世親は運賀、無著は運助と考えて誤りないであろう。湛慶は蓮華王院中尊千手観音菩薩像の銘記によれば、その建長六年(一二五四)に八十二歳、したがって北円堂像完成の建暦二年(一二一二)には四十歳である。末弟にしてもすでに三十歳前後とみてよかろう。時に湛慶は法眼位、二、三、四男は法橋位にあった。

以上のようにこの銘記には運慶一門における古参仏師の健在、新鋭仏師の成長を見ることができる。その両者のかねあいからいえば、この北円堂造像の頃を運慶工房の最盛期といえるのでなかろうか。

運慶の彫刻は、運慶個人のものとしてだけでなく、その工房制作の観点からとらえる必要がある(もちろん運慶の場合だけでなく、当時のすべての仏師についていえることであるが)。いま運慶の作品をこの観点かふり返ってみると、最初の遺作である安元二年(一一七六)の円成寺大日如来像は、長子湛慶の年齢から運慶の二十歳から二十五歳頃の作と見られるが、その細部に至るまでの卓抜な彫技は隅々にまで運慶の手が行きわたっていることをうかがわせ、当時普通三か月ほどで完成する大きさの像でありながら十一か月という期間を要していることとあわせて、運慶が独力で、心をこめて彫り上げたものであることを想像させる(水野敬三郎「運慶と工房製作」『ミュージアム』二九四号)。その十年後の文治二年(一一八六)願成就院造像、文治五年の浄楽寺造像は、阿弥陀三尊、不動(前者では三尊)、毘沙門という数量からいっても工房制作であるにちがいない。事実、その彫技には円成寺大日如来像のそれと比べて劣るところが見受けられるものもある。ことに浄楽寺像の方にそのことが目立つが、二群の像の差は運慶自身の手の加わり方、あるいは分担した小仏師の力量の差にかかわるのであろう。浄楽寺像の場合、銘記に「小仏師十人」と特に記されていることもこれに関連するかもしれない。この頃運慶自身に従う小仏師はまだ手が揃っていない。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

金剛峯寺の八大童子像のうち六軀は、『帝王編年記』によれば、建久八年(一一九七)供養と知られ、作風の上から『高野春秋』の伝えるように運慶とその一門の作と推定されるが、中で矜羯羅童子像はできばえが特にすぐれ、制多迦・慧光の二童子もよい。他の三童子のできもこれらにかなり迫るものである。この年、湛慶二十五歳。その前年に運慶を含む父康慶の一門は、東大寺大仏殿の脇侍、高さ六丈の観音、虚空蔵を、ついで高さ四丈の四天王をそれぞれ約七十日で完成させた。康慶はこの頃、運慶・快慶・定覚等、すでに一流のベテラン仏師を擁し、康慶工房として最も充実した時期であったろう。そしてこの大仕事以後、康慶の名は記録にあらわれないから、その工房の指導者はやがて運慶に引き継がれたと思われる。快慶は建久八年に供養された播磨浄土寺阿弥陀三尊像の存在からも知られるように、これより以前から俊乗坊重源の指導のもとにすでに独自の道を歩み始めていたようであるが、湛慶以下の運慶自身の弟子が、運慶の意を体しての技をふるいはじめ、運慶工房としてかなりの程度に手が揃いはじめたのはこの頃からではないであろうか。建久末から正治にかけての頃、『東宝記』にのせる康誉法眼の注進によると東寺南大門の二天が運慶と湛慶を大仏師として、また東寺中門二天が運慶 の子息六人によって造立されたという。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

最近注目された岡崎市滝山寺の聖観音菩薩立像、梵天帝釈天各立像は、運慶風の顕著なもので、『滝山寺縁起』に同寺内の揔持禅院の正観音、梵天、帝釈天を正治二年(一二〇〇)に運慶・湛慶が造立したとあるのに符号すると思われる(小山正文「滝山寺と運慶・湛慶」『史迹と美術』四九五、同「滝山寺の運慶作品について」『史迹と美術』四九九)。全身が近年の補彩におおわれているので確言はさしひかえたいが、それぞれがみごとな彫技によるもののようである。

【引用】興福寺北円堂の鎌倉再興造像と運慶-3

東大寺南大門二王像は、『東大寺別当次第』によると建仁三年(一二〇三)に運慶・備中法橋・快慶・越後法橋の四人の大仏師が小仏師十六人をひきいて造立したものと知られる。備中法橋・越後法橋は湛慶・定覚に当たると思われ、運慶・湛慶が吽形像の、快慶・定覚が阿形像の大仏師になったと推定される。一対の像はその作風から運慶の統一的構想になるものであろうが、吽形像に運慶の、阿形像に快慶の特色があらわれていることはすでにしばしば説かれているとおりである(西川新次「金剛力士立像」『奈良六大寺大観東大寺三』昭和四七年岩波書店)。そして吽形像に運慶工房の充実ぶりを見ることができるのであるが、純粋の運慶工房としての完成した状況はやはり興福寺北円堂の造仏においてあらわれたといえると思う。

北円堂の造像では、いま二人の老練仏師による脇侍と、湛慶以下四人のすでに僧綱位にある運慶子息による四天王の像が失われ、源慶・静慶という最長老の仏師による中尊像と、運慶子息のうち末弟二人による世親・無著像とが残るだけである。しかしこれらの遺品は運慶その人の構想をあますところなく実現したと思われ、南大門二王の阿形像のごとく、そこに別の個性がでているとは思われない。そして作の優劣もほとんどないといってよい。いずれもまことにすぐれたできばえを示している。長老仏師と若手の間にはさまれた老練・中堅の仏師の手になる失われた像にも同様のことを考えてよいのではなかろうか、一門の古参・中堅・新鋭を含めて、すべてが運慶の意図を完全に体し、彫刻技術が高い水準にならんだ、いわば全く手が揃った幸福な時期、それが北円堂造像の承元・建暦の頃であったと考えられる。

 

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