源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。
一 主題としての花卉
日本の絵画において花が、意匠化された文様としてではなく、客観的対象として描写されたのは、遺品としては天喜元年(一〇五三)造立の平等院鳳凰堂の下品上生の扉に描かれている主人を亡くした家の庭に、薄や女郎花などの秋草が一面に咲き乱れているのが最も古い。文献ではもっと早く『紀貫之集』の、延喜六年(九〇六)月次の御屏風の絵を題にして詠じた和歌によって、萱草・女郎花・萩などが描かれていたことが知られ、また延喜十四年の女一宮の御屏風の和歌には、梅・桜・菊などの名もみえる。しかしそれらは花そのものが主題として描写されているのではなく、「人の木のもとにやすみて川こしに桜の花をみたる所」、「池の辺に藤の花あり女水にのそみてこれを見る」とあるように、ある情景の一要素として描かれているのである。花そのものが描写の中心的対象として出現するのは、一、二の例外を別にして、室町時代になってからである。
もっとも文様としての花は、天平時代にすでに注意すべき作品が数少なくない。正倉院には、献物帳の「鳥草夾纈屏風」と記されたものにあたると思われる花鳥の図様が、多少は文様的であるが、さまで意匠化されないで 描かれているのがある。正倉院には孔雀に百合と萱草らしい花との美しい刺繍の幡がある。これも比較的意匠化の稀薄な表現である。ただそれらはおそらく唐人の手になるものとみられ、当時すでに唐では花鳥画が行なわれていたことを背景としての所産であった。
本来植物そのものが絵画的対象となることは、特殊な信仰的意義をもつ植物、たとえば、エジプトの睡蓮、メソポタミアの椰子や葡萄のごときものは別であるが、一般に文化の進んだ段階においてみられる。わが国でも弥生時代の銅鐸には狩猟・臼搗のような人間の生活姿態や、鹿・鶴蜻蛉・蟷螂のごとき動物は好んで描かれてい るが、植物はまったく関心の外にある。彼らの描くものはつねに生命保全への呪術的意義をおびているのであるが、それならば木の実や稲が描かれてしかるべきであるが、そのような作例は見いだせない。おそらく彼らは活動的生命をもたないもの、すなわち生き生きと動かないものには関心をひきおこさなかったのであろう。そのことは人類一般にそうであった。
二 西洋の花卉画
西洋ではポンペイのフレスコには桃の実や野菊ようの花が描かれているものもあるが、花が、客観的な対象として描かれた作品の出現するのは、はるかに下って十六世紀を待たねばならなかった。フーゴ・ファン・デル・グース(一四八二没)が一四七五年ごろに描いたキリスト生誕の場面に写実的に描写されているアイリス・百合、そして苧環などはたしかに花の美しさが十分に意識されているが、それらはまだキリスト教的象徴的意義をおびる ものである。ドイツのデューラー(一四七一─一五二八)には苧環の克明な写生の水彩画がある。そこには、自然へのドイツ的な理性的関心の発生が見られる。さらにホルバイン(一四九七─一五四三)の「ダンチヒの実業家の肖像」(一五三二)に描かれたガラスの花瓶にいけられているカーネーションは、この花のデリケートな生態が克明に美しく描写され、花そのものへの純粋な筆者の美的感動が表現されている。しかしそれは、まだ肖像画の一 点景にとどまっている。花そのものが一個の独立した主題として描かれたのは、十七世紀に近ずいてからであった。ミュンヘンのピナコテェク(絵画館)にあるヤン・ブリューゲル(一五六八─一六二五)が一六〇〇年ごろに描いた、樽に種々さまざまの花を いっぱいに生けた作品は、その最も早い作例の一つであろう。かくしてその前後から静物画が新しいジャンルとして登場し、その主題として花卉が好んで描かれてきた。これらの花の描写が、主としてアルプス以北の浪漫的なゴシック的民族の画壇において見いだされるという事実は興味が深い。彫塑的感覚の古典的民族であるイタリア人は、花というがご絵画的対象にはその表現意欲をそそられなかったのである。そして人間主義の古典的伝統が支配する西洋美術の潮流においては、静物画といっても、日常の食物や器物の造形的な描写に関心がおかれている中にあって、花がそこに占める地位はけっして大きいものではなかった。花もまた彼らには無生物を意味するnature morte(静物画)であった。そこに逆に東洋におけるいわゆる花鳥画というジャンルがもつ意義の特色が注意されるのである。
三 中国の花鳥画
花が絵画の中にその感性的な意味をもって描写されたのは中国が最も早い。文献では七世紀後半の人である殷仲容が花鳥にすぐれていたことが伝えられている。これと少しく下って八世紀の初期に鶴の名手として聞こえた薜稷も花鳥・人物・雑画をよくしたという。おそらくこの七、八世紀の唐に至って中国の花鳥画が勃興をはじめ たとみてよいであろう。さきにも触れたように天平時代に輸入された正倉院御物の多くに見られる花鳥画的文様は、この唐代の風潮を反映するものと思われる。しかし真に花鳥画家として中国の絵画史における重要な存在は八世紀末に活躍している辺鸞である。『歴代名画記』や『宣和画譜』の記述もそのことを物語る。『宣和画譜』によると彼は躑躅孔雀図や鷓鴣薬苗図(薬苗は芍薬)のごとき鳥を伴う花卉を描くとともに、木瓜(花梨)図・葵花図・牡丹図というごとき単独の花卉図を描いている。ことに注意されるのは写生折枝花卉図、折枝果実図という静物画的な対象自体を描写した作品を試みていることである。これは本質的に中国人の精神主義的自然崇拝からくる自然への関心に根ざしているのであるが、それはつとに山水画として中国芸術を特色づけた民族的性格であった。しかるに六世紀中葉から中国に浸透してきたイラン的西方文化が、感性的で現実主義的な性格をもっていただけに、七世紀、唐時代に入ると、顕著にその影響が現われてきた。曹覇や韓幹がアラビア馬の写実的表現をもって聞こえるのも、その一現象であり、張萓や周肪のような豊麗な士女画家の輩出したのもそれである。そのような時代の芸術的感覚が、自然帰依の精神と結合したときに、花鳥画の勃興となったのである。
中国における花鳥画は、十世紀に入って五代から宋にかけ、黄筌や徐熙のようなすぐれた作家の輩出によって、一段の隆盛を示してきた。黄筌は蜀という唐の文化を温存した地方に出で、きれいな感性的で着実な写実的作風の人であったと思われる。徐熙は江南の瀟洒な気風を受けて、その画風は骨法のしっかりした墨線で描写し、その上で彩色を加えるという淡泊趣味であったらしい。宋になるとその内外の事情から唐代の積極的な人生主義的精神が衰え、中国本来の隠逸的精神が復興してきた。宋学の内省的で理知的な思想の高まったのもそれであり、洒脱で枯淡な禅宗が時代の支配的風潮となったのもそのゆえである。かくして水墨山水が時代を風靡してきたのであるが、そして瀟洒な徐熙の作風が宋の批評家によって黄筌を超えて高く評価されたのももっともであ るが、花鳥画は朝廷や貴族的社会に愛好せられ、画院の宮廷画家たちのあいだには、黄筌様の画風がその発展を 続けたのであった。ただ宋代の冷厳な理知主義的精神は、いわゆる院体の花鳥画においても、対象の内奥に肉薄するようなきびしい描写が、画面を緊張させている。
中国の画人が好んで描いた花は、日本よりははるかにその種類も多いが、牡丹・芍薬・芙蓉・蓮・海棠・桃というような艶麗な園芸的観賞花がことに多い。これらの花は、中国人の重厚な気質と結合したイラン的古典主義風潮のさかんであった唐時代に非常な愛好を呼んだのである。唐時代に勃興した花鳥画が、その時代の趣味を反映しているのは当然である。この傾向は貴族主義的な院体花鳥画の伝統であった。しかし同時に中国の隠逸的精神主義はそのような花鳥を逆に官能否定において描きもした。すでに晩唐の蕭悅には風竹というような作品があるが、竹というようなものは、けっして感性的対象ではない。五代には西蜀の李夫人のような墨梅画家が現われる。宋には劉夢松のごとき水墨の花鳥画家が出てくる。色彩を否定した墨による表現は、もはや本来の花鳥画の概念には妥当しないが、それはまた、中国の花鳥画の一面でもあった。同じく花鳥画家であっても、「荒野幽尋の趣を作り気韻蕭疎」と称せられた唐希雅のごときが、まさしく中国的花鳥画家だったともいえる。かくして梅・竹・蘭・菊の四君子、松・竹・梅のごとき歳寒三友というごとき、中国的倫理の理念的象徴として植物の表現が成立するのである。それは牧渓の柿・栗や、雪窓の蘭のような禅機的表現にまでつらなる中国人の独自な精神主義的芸術観の所産である。
留言列表