赤井達郎,《京都の美術史》,京都:思文閣,1989。
京都市立絵画専門学校
黒田の「朝妝」が京都を賑わせた明治二十八年は、栖鳳・春挙らの新進画家たちが京都青年 絵画共進会を推進するとともに如雲社を改めて後素協会の設立を決議した年でもあり、楳嶺・玉泉が、この勢いではわれわれは愛宕山か鞍馬山にでも隠退するほかあるまい、といった冗談がある現実味を帯びてくる年でもあった。
こうした動きのなかで画学校も、しだいに近代的教育施設としての形をととのえていった。さきにのべたように、画学校は画家たちの建議により、しかも陶工・呉服商・書画商などいわば有志市民の寄付金によって設立され、日本画各派はもちろん西洋画も置き、女生徒の受けいれをはかるなど、後発の東京美術学校にもまさる新しい一面をもつものであった。しかし、「画者(は)百技ノ長ナリ」というものの、その画は百技・諸工芸に利用できるもの、という実用的な面が強く、画家の養成というよりは、諸職人の養成という傾向を否 定できなかった。
明治十三年七月京都御苑内で開校した画学校は、同十五年校舎が暴風によって破損し、河原町の織殿へ移り、同二十一年入学資格を尋常小学校卒業以上に定め、普通画学科、専門画学科、応用画学科を置き修業年限を五カ年とし、翌年には入学資格を高等小学卒業以上とするなど内容の充実をはかっていった。この年の暮、京都市の所管となって京都市画学校と改称し、同二十四年(一八九一)工芸図案科を設けて京都市美術学校となり、同二十七年には、絵画科彫刻科・工芸図案科、修業年限予備科一カ年、本科五カ年とととのえられ、新進の竹内栖鳳らを教諭として迎え、名も京都市美術工芸学校と変えた。
こうした京都画壇の動きに対し、東京では岡倉天心のひきいる東京美術学校が中心となって次代の俊秀を育てていたが、明治三十一年いわゆる美術学校騒動の結果日本美術院が創立され、その展覧会には京都画壇からの出品も多く近代日本画史の新しいページを開くこととなった。日本絵画協会・日本美術院連合展に栖鳳・米僊・松園・芳文らが賞を受け、松園の「花ざかり」、渡欧して「棲」を「栖」に改めた栖鳳のセピア色を駆使した「故都の秋」など、初期院展のなかで京都派はかなり重要な位置を占めた。院展はその後横山大観・菱田春草らの外遊や天心の五浦隠棲など不振の時期をむかえたが、京都では栖鳳・春挙・西山翠嶂・川村曼舟らが市立美術工芸学校の教諭あるいは助手として後進の指導にあたり、文部省美術展覧会(文展)の開かれる明治四十年三月には、大正期の京都画壇の核ともいうべき入江波光・村上華岳・榊原紫峰・彫刻科の北村西望・建畠大夢らを卒業生としておくり出すなど、新しい波がうちよせていた。十月の第一回文展には中沢岩太・景年・芳文・栖鳳・春挙・浅井忠が審査委員に選ばれ、栖鳳「雨霽」、春挙「海月」、浅井忠「武人狩猟の図」をはじめ、木島桜谷「しぐれ」、松園「長夜」、西山翠嶂「広寒宮」などが賞をとり、京都の画家あげての出品であった。
明治四十年の文展の開設により、京都では専門画家養成のためのより高度な近代的な教育機関の設置が急務となった。第一回文展の終わった十二月、京都市立美術工芸学校評議委員会は、市に対して絵画専門学校 設立を建議した。画学校は河原町の織殿から勧業場跡、知恩院内通照院へ移り、明治二十九年京都御苑内に新校舎を作るなど移転をかさね、名称もたびたび変更されてきたが、明治三十二年専攻科が設けられ、文展開設の同四十年には上京区吉田町の新築校舎に移転したところであった。市への建議は校長の死などによって一頓座したが、明治四十二年(一九〇九)一月、絵画専門学校設立を文部省に申請し、三月には「日本絵画を攻究せんと欲する者に、その高等の技芸を教援する」京都市立絵画専門学校の設立が認可された。校舎はとりあえず京都市立美術工芸学校の校舎を共同利用することとし、修業年限は予科二年、本科三年、研究科二年とし、入学資格は中学校卒業以上と定めた。
絵画専門学校の開校式は、明治十三年に発足した京都府画学校にあわせて七月一日に行なわれ、教授・学生とも俊秀をそろえての華やかな第一歩であった。教授陣は美術工芸学校の教諭竹内恒吉(栖鳳)を教授に、 同助教諭西山卯三郎(翠嶂)、合田一覚を助教授に転任させ、菊地常次郎(芳文)、谷口槌之助(香崎)、山元金右衛門(春拳)を兼任教授とし、他に美学・美術史の中井宗太郎、解剖学の鈴木文太郎、国文学の池辺義象 ら、当時京都で望みうる第一級の人物をそろえた。この年の四月東京大学大学院から赴任した美学者中井宗太郎はまだ二十八歳の若さであったが、
芸術は個人を主体とした自由な創作であって、自然や人間の真実を追求し、そのなかで人間性が鍛えられ、作家はその時代の落し子であると同時に、また時代を新しくきりひらく。この一筋の道から外れて既成の枠内に制約されるとき、芸道に前進なく創造はにぶる(ともに歩いた一人として)。
と熱っぽく訴えた。 中井も「果して学生に共感をえたかどうか、ただ生新な雰囲気が学生のあいだにもりあがったことはたしかだった」とのべているように、中井の語る新しい芸術の展望と、東西の大きな伝統の世界は、若い学生たちの心に強くひびいた。
明治四十四年三月の第一回卒業生は、本科生として入江幾次郎(波光・卒業制作「北野の裏の梅」)、榊原安造(紫峰「花ぐもり」)、榊原春之助(雨村「赤土山」)、松宮実(左京・芳年「堺の相生橋」)、村上震一(華岳「二月の頃」)、星野万次郎(空外「淀川」)の六名、別科生として小野英吉(竹橋「まつり」大正十一年より竹喬)、土田金二(麦僊「髪」)の二名、わずか八名の卒業生であるが、いずれも大正から昭和初期の京都はもちろん、近代日本画を代表する俊秀たちであった。
竹内栖鳳
三十津絵画専門学校の実技教育は、さきにみたように京都日本画壇の首脳部があげてこれにあたったが、その中心は美術工芸学校以来の竹内栖鳳であり、第一回卒業の俊秀たちも長く栖鳳傘下の画家であった。栖鳳は元治元年(一八六四)、神泉苑の近くにあった川魚料理屋「亀政」に生まれた。「亀政」の恒吉少年は近所の土田英林という画家について絵を稽古するが、明治十四年(一八八一)の秋、本格的に画家を志し、幸野楳嶺の私塾に入る。楳嶺はその前年、京都府画学校の北宗の教員に選ばれるが、同じ北宗の鈴木百年一派とあわず、この年の五月楳嶺画塾を改め楳嶺私塾として塾教育に徹し、十月に『楳嶺百鳥画譜』三冊を出したのをはじめ、『工業図式』『楳嶺画譜』などを刊行し、京都画壇にひとつの力をもった。十七歳の恒吉は入門三日目にして、「鳳凰は梧桐に棲い、竹実を食い、醴泉を飲む」という故実によ「棲鳳」という号を授けられた。きびしい教育で知られる楳嶺にしては破格のことであり、恒吉の素質をいかに高く評価したかがうかがわれる。楳嶺私塾にはやがて谷口香嶠が入門し、都路華香・菊池芳文・香嶠・棲鳳がその四天王とよばれ、森寛斎の門人であった山元春挙、鈴木松年の門人であった上村松園もここに学び、京都画壇の中枢を形成していた。
明治十七年つづいて十九年と京都に来たフェノロサは、祇園中村楼において美術講演会を開き、楳嶺や棲鳳らを刺戟した。凄鳳・香嶠らは明治二十一年東京の「絵画叢誌」に対抗する美術雑誌「美術叢誌」を刊行 し、二十四年には棲鳳を議長として「京都青年絵画共進会」の決議をするなど、棲鳳を中心とする新しい世代の動きが活発になってきた。青年絵画共進会は一回限りで終わってしまったが、翌年楳嶺や久保田米らの結成した京都美術協会の主催する「京都市美術工芸品展」で三等賞銅牌となった棲鳳の「猫児負暄図」は、さきにふれたように大きな話題となり、鵺派といわれた。鵺とは、頭は猿、軀は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物のことであり、諸派の画法を取り入れたことを批難するものであるが、棲鳳はのちに「私は敢て之を改めようと思はぬ。夫が熟して、調和して、初めて一家の機軸を出すのであって、初めは鵺派より入るが却ってよいと思ふ」(黒田天外『名家歴訪録』)とのべているように、次への展開を見通しての試みであった。
この新しい「鵺派」は明治二十八年(一八九五)、京都御苑内の京都美術工芸学校の教諭になる。その前年、楳嶺は棲鳳と菊池芳文・谷口香崎の三高弟を学校に推薦したが、棲鳳は「四条派や円山派の画風を破壊する異端者」とみられ、一年おくれたという。三十二歳で就任した美術工芸学校には、ひと月ほど前から校長今泉雄作が東京からよんだ新任助教授横山秀麿二十八歳が勤めており、同じ教室で教鞭をとることになった。いうまでもなく、のちの横山大観である。古画の研究が中心のようであった大観は、一年たらずで東京に帰り、翌年五月東京美術学校助教授となるが、やがてこの二人は西の栖鳳、東の大観となって画壇を牛耳っていくことになる。美術工芸学校教諭竹内棲鳳は、いっぽうでは画塾竹杖会をもち、その門人には西山翠嶂、上村松園をはじめ、岸竹堂の門より移った西村五雲、加藤英舟も加わり、明治三十六年大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会の出品者を塾別にみると、棲鳳塾二十二名、菊地芳文塾十五名、今尾景年塾十三名、山元春拳塾九名、谷口香嶠塾・望月玉泉塾各六名と、京都の画塾の大勢が知られる。
明治三十年棲鳳は毎週二回、御池の自宅耕漁荘に真宗大学の教師徳永鶴泉を招き、イギリスの美術批評家ラスキンの『近代画家論』の翻読を聞くなど、西洋絵画への少なからぬ関心を示しているが、三十三年パリで万国博が開かれるのを機に、農商務省からの留学費と、京都市からの補助金を得て、ヨーロッパ美術視察の旅に出る。八月一日神戸から出港した船には、中沢岩太、錦光山宗兵衛らが同乗していた。中沢は三年前に創立された京都帝国大学の理工科大学初代学長であり、京都高等工芸学校(京都工芸繊維大学の前身) 設立 のための視察旅行であり、このとき渡欧中の浅井忠とあい、京都に招くことを決めたのである。錦光山宗兵衛は栗田焼の陶芸家で、大規模な工場をもって陶器の輸出に積極的であった。
明治三十四年(一九〇一)二月の末に帰国した栖鳳は、四月から五月にかけての第七回新古美術展に写実的な「獅子」を発表し、十一月の関西美術会の秋季展に油絵の「スエズ景色」を出品している。六月の講演では「西洋画ノ生命トモ言フヘキハ、光線ノ働キト色ト言フ事」であり、「彼根本ノ順序を伝フテ此ニ進シ、而シテ吾ハ無意味に遺伝的約束ヲ踏襲シ、其原因結果ヲ究メスシテ今日ニ至レルニアラサル乎」と日本画の写実の弱さを指摘し、翌年にはコローやターナーの影響をうけた「和光春光・伊太利秋色」「故都の秋」、つづいて「ベニスの月」などをあいついで発表した。なお、帰国まもなくそれまでの「棲鳳」を「栖鳳」に改めたのは、西欧芸術に接して新しい出発を決意したからであろう。
日露戦争が終わった翌明治三十九年、黒田清輝らは官設展覧会の設置を建議し、四十年文部省美術展覧会(文展)の開設がきまると、勅令によって「美術審査委員会官制」が公布され、京都からも審査員が選ばれることになった。第一部日本画二十四名のうち岡倉天心・藤岡作太郎らをのぞく画家十四名は、東京から横山大観・下村観山・川合玉堂ら十名、京都からは長老の今尾景年と竹内栖鳳・菊地芳文・山元春挙の四名が選ばれた。このとき栖鳳は六曲一双の画面に柳の大木とそれにたむろする鷺を描く「雨霽」を出品し、ついで「飼れたる猿と兎」「アレ夕立に」「絵になる最初」など熟達した画技と、西欧芸術を通過してきた新しい感覚による秀作をあいついで発表していった。栖鳳は四十年六月第一回文展の審査員に選任されるが、それより三カ月前、京都絵画専門学校では波光・紫峰・華岳・竹喬・麦僊らが第一回生として卒業しており、この年は京都画壇の幕開けの時でもあった。
留言列表