源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。
六 日本花鳥画の成立
日本の絵画における花は、本来日本民族の情趣主義的意欲において取り入れられたのであるが、花そのものを主題として描くことは、前にも触れたように室町時代を待たねばならなかった。もっとも、たぶん文治四年(一一八八)ごろの製作と推定される「扇面形法華経冊子」第八巻(東京国立博物館)に、薄・女郎花・桔梗などを画面の左から右に横さまに描いた一葉がある。これはまさしく純粋の花鳥画(鳥はいないが)である。しかしこれは、おそらく当時平清盛によって促進された宋との交易によって、中国から伝えられた院体折枝画から着想を得た作品であろう。それは同じくその扇面下絵の中に見いだされる柏の木に二羽の鷹のとまっている図が、伝徽宗皇帝の院体画の模倣によると推定せられ、当時そのような宋画の影響が流入してきたと考えられるのである。しかしまだ日本の画壇にはそのような花鳥画を発展させる気運は熟していなかった。「北野天神縁起絵」(承久本)に見られるように、花や鳥への関心は高まってはいたが、まだ鎌倉時代では美術史的意味における独立した花鳥画を描くにはいたらなかった。『古画備考』には十三世紀後半の人である藤原長隆を花鳥画家として記し、その筆と伝える鶺鴒と雑草との絵をのせているが、しかしそれがじじつ彼の筆に成るものであったとしても、その図様から推してむしろ彼の粉本であったと考えられる。われわれは西本願寺の「善信上人伝絵」に、これに似た鶺鴒の姿を見る。むろんそれを長隆の筆というのではないが、当時の画家が、そのような花鳥の写生による粉本を描いていたであろうことは十分推定できる。高階隆兼の「春日権現験記絵」(一三〇九)には枯れ枝にぶら下が っている虫や梅の小枝の「雀の田子」(蛾の一種、イラガの繭)までを描いているが、それは写生的観察の結果である。かくして鎌倉末になるとにわかに絵巻の画面に花鳥的点景が豊富になってくる。それは花鳥画勃興の先駆的現象であったともみられる。すでに「松崎天神縁起絵」には梅を描いた杉戸が見られる。このような風潮は、たしかに鎌倉時代の自然への関心を高めてきた精神史的現象ではあるが、同時に鎌倉中期以来しだいに頻繁を加えてきた朱文化の伝播によることが大きい。花鳥画そのものも少なからず将来されていた。円覚寺の「仏日庵公物目録』によると、それがいかなる作風であったかは明らかでないが、花鳥画の彩色と明記されたもののみでも、四点十鋪を教えるが、異種菊花二鋪、藕花二鋪、四季四鋪、桃花梅竹二鋪というものも彩色だったと思われ、たぶん院体風のものであったと推定される。彩色蘆雁の一対のごときは北宋画院の名だたる作家である崔白の筆と記されている。真偽のほどは明らかでないが、少なくとも正統な院体様の作品であったであろう。このような中国絵画の伝来は十四世紀に入ると一段とさかんになり、それがわが国の絵画史に花鳥画のジャンルとしての発生を促したことは十分想像できる。鉄舟や梵芳のごとき禅僧の墨蘭や墨梅は一応除外して、わが国の花鳥画の作家として最初に考えられるのは、周文(室町中期の画僧)である。周文の花鳥画については『蔭涼軒日録』(延徳三年八月十日)に、それが貴重にされて門外不出になっていたことが見えている。この花鳥屏風の作風は詳らかでないが、それはもはや単なる禅機的表現の水墨画ではなく、宋元風の客観的描写の花鳥画であったと想像される。そしておそらく着彩画であったとみられる。その伝統が雪舟(一四二〇─一五〇六)の四季花鳥の屏風に流れているともいえる。周文の弟子小栗宗湛も花鳥をよくしたと画史は伝えているが、そして宗湛筆と称する着彩の「瓜図」(陽明文庫)があるが、少なくともそのような 中国的着彩花鳥画はすでに一つのジャンルとして成立していたはずである。もっとも『看聞御記』に応永三十年(一四二三)七月の記事が、禅僧と考えられる頓書記の 描いた大通院の四間障子の梅樹の事を語っている。それは彩色とみるよりも、水墨画であったと思われるが、そこに室町における花鳥画発生の気運を示している。
宗湛の時代、すなわち応仁の乱(一四六七─一四七七)前後は、室町時代の風潮が中世的から近世的方向へ大きく転回しはじめた時期である。近世の一つの性格は感性の解放である。俊厳荒寒な水墨山水画が、狩野元信(一四七六─一五五九)にその典型が見られるように、人間的感性にやわらげられてきたことは、中国的理念からは一種の堕落であるが、人間主義的な日本芸術の史的展開としては、当然な現象であった。そしてこの美術史的転換の時期に、日本的な花鳥画という感性的なジャンルが勃興したのも当然であった。明応六年(一四九七)土佐光信の描いた「石山寺縁起絵」の第四巻に、紫式部が石山寺に参籠している部屋の屏風に、金泥地に秋草だけが大きく描いてあるのが見えている。おそらく大和絵の画壇においても、そのような花鳥画が行なわれてきた事実を物語るものとみてよい。文明十四年、藤原久信補写の「慕帰絵」第一巻には、しきりに漢画系とみられる金地濃彩の松に躑躅というごとき日本的な花鳥画を描いている。ここには桃山的金碧花鳥画の先駆が見出せる。それは三河上宮寺の文明十八年の「親鸞伝絵」にもみられる。このような風潮が十六世紀に入ると、狩野元信のような、むしろ花鳥画を得意とする漢画的作家を出現させるのである。彼らは筆様と称する作風のレパートリィを幅広くもつことが要求せられたから、さまざまな作品を残しているが、彼が七十四歳の天文十八年(一五四九)に描いた「金碧四季花鳥図屏風」(白鶴美術館)は、久信筆「慕帰絵」の花鳥図屏風のさらに発展したものである。彼においてはむろん漢画の作風がその基盤をなしているが、同時に大和絵の作風が力強く浸透しているのを見のがしえない。そこに花鳥画が、日本の花鳥画を形成してきたことをみるのである。むろんそのような気運の醸成に、中国花鳥画が大きな刺激となっていたことは、さきにも触れたところである。そして日本の画家が、そのような中国花鳥画を模倣していたこともたしかである。明応二年(一四九三)寂の横川景三の賛のある「紅白芙蓉図」(正木美術館)は、李迪の「芙蓉図」を学ぶものであり、宜竹周麟の永正七年(一五一〇)ごろの著賛した「長春花鶉図」は李安忠様の鶉を仿ったものである。大徳寺真珠庵の曽我宗誉筆の四季の花鳥を描いた団扇絵もまさに院体画である。しかしそのような形勢の中に日本の花鳥画は着々と発展の歩を進めていたのである。
日本のいけばなが、それが造形芸術としての自覚において、一つのジャンル東洋的には道を形成したのは、義政時代十五世紀の中ごろからである。彼の側近には立阿弥や阿弥というエキスパートが出ている。十六世紀に入れば池坊専応というごとき達人が輩出し、世襲的いけばなの家系が発生した。この花道の勃興が、まさしく日本の花鳥画の勃興と時を同じくしているという事実は興味が深い。
(昭和四十六年五月『原色いけばな大系』第一巻)
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