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源豊宗,《日本美術史論究I 序說》,京都:思文閣,1978。

 

四 日本民族の自然観

日本においては十世紀に入る前後から、絵画に参加した花がどのような種類のものであったかがわかってくる。それは紅梅・桜・山吹・卯の花のような、あるいは萩尾花・女郎花・藤袴などのような、むらがるように咲きあふれて全体的観照を求めるような花であった。それは感覚的対象であるよりも、より多く情趣的対象というべきである。日本にも華麗な官能を呈する牡丹や芍薬が見られなかったわけではない。道真の『菅家文草』には法華寺白牡丹の詠がある。道長が建立した法成寺無量寿院の前庭には、薔薇・牡丹などを植えていたと『栄華物語』に記されている。しかしそのような絢爛な花を絵画の世界で描こうという意欲は、少なくとも室町時代の到来までは、欠いていたのである。鎌倉時代一二三〇年代の作と思われる高山寺「華厳縁起絵」には、善妙女が義湘に恋慕の思いを告げる場面に、大きな一株の牡丹が描かれているが、牡丹らしくもなく小さな花である。

「源氏物語絵」には「竹河」の第一段に紅梅、第二段には桜が描かれている(『いけばなの文化史』カラー図版6参照)。いずれも対象の客観性を無視して、非常に装飾的な造形が加えられている。「源氏物語絵」は十世紀ごろに発生した女絵の系譜に属し、唐様式の伝統を継承する絵所の絵師の作風と異なることは注意しなければならない。その点では「源氏物語絵」よりは八、九十年古い鳳凰堂の扉絵に見られる自然景の描写がはるかに写実的である。その伝統は、この「源氏物語絵」とほぼ時代を同じくする旧永久寺伝来の「真言祖師行状絵」の描写に流れている。しかしこの「源氏物語絵」の桜や紅梅のむしろ装飾的ともいうべき表現は、まさに日本民族の自然観の一面を物語るものである。日本民族の本質的な情趣主義は、自然に対して親和的であるとともに、自然を優雅という美的態度において享受する。そのような自然観が、自然の表現をいちじるしく装飾化するのである。その意味では「源氏物語絵」の梅や桜の優雅な装飾的表現こそ、日本の花鳥画の特色の一面を示すものとして理解できる。しかしこのことは、さきに日本の上代に牡丹のようなあでやかな花を描こうとする意欲を欠いていたといった事実と、多少矛盾するようにみえるかもしれない。しかし日本の感性はむしろあえかなるもの、たおやかなるものを愛したのである。それは情趣的なるものの美にほかならない。

このことは日本の絵画において、秋草が圧倒的に多い事実を物語る。本来日本人の世界観は時間的であることに一つのいちじるしい特質をもっている。時間的世界観とは、対象を時間的に観照することである。たとえばさくらというとき、われわれはその桜の表象において春を感じる。それは春という時間性をおびた視覚表象であ る。また「人」といえば、われわれはそこに人生を生きている存在としてのひとりの人間を表象する。それは時間的人間、いわば人生者にほかならない。その点ではヨーロッパ人の世界観は本質的に空間的である。対象は、そこに、物体として存在する。さきにも述べたポンペイのフレスコに描かれている桃の描写に、ことにその同じ画面に描かれた水を入れたガラス壺の描写における空間性の表現は驚くべき技術である。そこに彼らがいかに対象の空間性に敏感であり、そこから対象の空間性の描写に、いかに適応した技法が自然に発展していたかを理解することができる。われわれ日本人は本質的に対象をそのように見ようとはしなかった。それはむろん能力の欠 如ではなく、志向の欠如にほかならない。そのかわり日本人は、対象を時間性において、いいかえれば「生」の立場において、観照しようとする志向をおびていた。「生」とは時間的存在である。丘の上にそびえている一もとの松の木も「一つ松幾代か経ぬる吹く風の声のすめるは年深みかも」(市原王『万葉集』巻第六)という生の意識においてながめるのである。対象において生を感じるとは、情趣をそこに見ることである。日本において花を瓶に入れることを生花というこの観念には、花が「生」の意識において見られている事実を物語っている。そこに「花を生ける」という意味が成り立つのである。

日本人がどの国民にもまして詩(和歌・俳句)を作る人口のおびただしい事実は、日本人が本質的に情趣的であることにもとづくのである。そして日本人の自然愛は、日本の詩の多くが、自然を四季という形で、すなわち時間性においてうたうという特色を生んでいる。俳句の必然的な要素としての「季」の観念はここからきている。わが国の和歌集の部立においても、まず春・夏・秋・冬の四季に始まるのであるが、どの和歌集においても春と秋との歌がその数量において絶対的に多い。それは季節への感動が、春と秋とにおいてとくに大きいからである。春においては生の躍動の季節として心をときめかす。秋においては生の凋落の季節として感傷をさそう。しかし秋は過ぎゆくものへの愛情をそそるだけに、より多く生の意識を昂揚する。日本人の情趣性がより多く秋草に心を惹かれる所以である。じじつ春の桜も、和歌集においては散りゆく桜を歌った和歌が意外に多いのも、過ぎゆくものへの時間意識の緊張によるからである。

秋萩の枝もとををに露霜おき寒くも時はなりにけるかも(『万葉集』巻第十)

という歌は、まさにこのような秋草への感傷にほかならない。そのような秋草であるから、美術においても題材としてつねに愛好されてきたのである。

秋草として好んで描かれたのは、前にも述べたように薄・萩・女郎花・藤袴などであるが、それらの草はいずれも明晰な形体性をおびていない。牡丹とか芙蓉とかは、一つの個体的な明確な空間性をもっている。しかるにこれらの秋草は、非個体的であり非彫塑的である。その茎や葉は叢生して入り乱れ、花はいずれも穂をなすか、撒形花序の茫漠たる形態であって、私はこれを縹緲性と称する。縹緲性とは、ヴェルフリン(一八六四─一九四五)の様式範疇でいえばUnklarheit(非明晰性)にあたるであろう。しかし日本美術の縹緲性は、対象を時間的に観照することからくる。ヨーロッパの空間的観照の立場における非明晰性とは本質的に異なる芸術意欲としての余情、幽玄と共通する様式性である。藤原人が、「照りもせずくもりもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき」といったその美的朦朧性もそれである。それはまた情趣性の一性格である。西本願寺広書院裏の長廊下の武蔵野図のごとき、その長距離の画面をうずめた秋の千草の錯綜した景観は、認識の明晰性を拒否するかわりに、限りない情趣の深さを宿している。

これらの秋草は、いずれも威丈高に直立する形態ではなくして、萩といい薄といい、たおやかな曲線をもって 優雅な姿態を示している。しかもその構成要素としての茎や葉や花は、デリケートでスマートである。ことに薄の線条的な形態は、芭蕉の言葉にしたがえば、しをりである。しをりには「撓り」の字があてられるが、まさに「秋萩の枝も撓(とをを)に」の、たおやかにしだれた繊細な姿のもつ風情である。しをりは藤原時代のあはれの系譜に属する日本芸術の美的範疇の一つにほかならない。

わが国の秋草の表現は、文学的には圧倒的に萩が優勢であるが、絵画においてはつねに薄が中心をなしていた。それは薄が秋の情趣を最もこまやかにおびていることとともに、その叢生した線条的な茎や葉の錯綜した形態のもつ縹緲性、さらにはなごやかな撓(たわ)みのもつ湾曲性などによること大であったと思われる。

人みなは秋を萩といふよしわれは尾花が末を秋とはいはむ(作者不詳『万葉集』巻第十)

という歌がある。それは多くの人々が萩をうたっていることに対するレジスタンスであったかもしれないが、少 なくとも造形芸術としての絵画においては、薄はより多く日本人的意味において、絵画的性格をもっていた。

五 抒情性と装飾性

さきにも述べたが、日本の絵画における最も早い花の描写は、鳳凰堂の下品上生の扉に描かれている秋草の絵である。この時代には新しく発生した女絵が、抒情的で優美平明な作風を発展させて、まさに大和絵の典型が成立するのであるが、宮廷の絵所を本拠とする伝統的絵師は、唐風の比較的綿密な写実的な作風を守っていた。この鳳凰堂の絵も、この伝統的な絵師の筆になるもので、その秋草の咲き乱れている姿には、写実的な感覚が裏づけされている。それがこの扉絵よりも一世紀近く遅れてたぶん一一四〇年前後の作と思われる「源氏物語絵」では、「御法」のいまわのきわの紫の上と源氏との語らいの場面に描かれているひとむらの女郎花・薄・萩の描写は、「宿木」第三段の秋草と同じく、鳳凰堂の扉絵のそれとは異なったまったく主観的な、いわば抒情的に表象された表現である。そのような抒情的表現は、「竹河」の第一段の梅、第二段の桜にも見られる。しかし春爛漫の桜の日本民族の感覚は、そこに豊かに表現されている。

この抒情的表現は、日本民族の基盤にある感性的な性格と結びついて、一種の装飾性を加える。「竹河」の桜のごときはまさにそれである。むろんそれは花のみではない。人物も風景も同様である。鎌倉時代の末、永仁三年(一二九五)伊勢神宮の禰宜らが付近の風景を選んで図絵し、これを題として歌合を行なったいわゆる「伊勢新名所歌合絵」の風景、たとえば岡本の里のごとき、山の紅葉も軒端の秋草も比較にならぬ大きさにおいて、色あざやかに、そして抒情豊かに描か れている。鎌倉時代は理性的精神が高潮し、絵画にも似絵が流行したように、写実的傾向を強めて きたのであるが、それは程度の問題であった。承久のはじめ一二一九年ごろに描かれた「北野天神縁起絵」は、それ以前のいずれの作品に比べても、対象の形態への新鮮な観察が示され写実的態度を濃厚にしている。啄木鳥が梢の裏にとまっていたり、梅の古木の稜ばった屈折をえがいたり、新しい自然観照を示している。しかもそれらはあ くまでも抒情性と感性とを根底にもつ表現である。菅公の配所にあって恩賜の御衣に懐旧の思いにふける場面は、菊をはじめとしてもろもろの秋 草が庭をうずめて咲き茂っている、主題の内容とは反対に、非常にはなやかな景観を呈している。それは大和絵のオプティミズムといっていいかもしれない。そして抒情性を芯にもつオプティミズムである。

この伝統が、庶民的な旺盛なエネルギーと結びついたのが桃山時代の金碧花鳥画である。智積院の長谷川等伯(一五三九─一六一〇)の貼付絵はその代表的作品といってよい。金地を背景に所狭きまで梢をひろげた八重桜があふれるばかりに咲きほこっている。その桜によりそうて若葉の柳が入り交じり、群青の池のほとりには山吹・菫・蒲公英などが、この爛漫たる春を謳歌している。ここでは春の抒情が桃山的感性によって白熱している。中国院体の克明な写実を手本として、室町時代に発達した漢画系花鳥画の系譜に属するだけに、対象を忠実に写しているのであるが、たとえば上段の間の夏の花々、立葵・柘榴などむしろ驚くばかりの写実であるが、しかも写実と装飾的意匠化とが、ほとんど作為なしに渾然として融和している。そこに日本的感性の本質があるといえる。この日本民族の本質的な装飾主義的感性が、さらに純化したのが、宗達(生没不詳)光琳(一六五八─一七一六)に代表される意匠主義の作風である。畠山記念館の光悦歌巻料紙における宗達の竹・梅・躑躅・蔦と展開してゆく金銀泥下絵の表現には、こまやかな情趣とともに、まことに気のきいた意匠感覚があふれている。大和絵の基盤に立つ宗達の作風は、はじめから写実意識を超越しているが、光琳は狩野派の修行を経ているだけに、その作風に は宗達よりは写実的ではあるが、根津美術館の「燕子花図屏風」のようにその瀟洒な構図意匠は、高い装飾性をもっている。この宗達・光琳の伝統は現代の日本画になお脈々と流れつづけている。

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