では、こうしたシステム化された「個人的なもの」の束からなる美術イメージと、リアルな個別性を生きる作家たちから立ち現れる個のなかの超個別的なものとがまったく別物であることを示すために、今度は実作者の側面からその一例を述べてみたいと思います。
八十年代前半のころのことですが、私はニューアカデミズムだとか新表現主義だとかいわれる焼き直し作品群がメディアを賑わせていた所謂「ポストモダン」と呼ばれる「イデー喪失」の時代のなか で、それとは本質的に異なるタイプの作家たちの活動に強い共感を覚えていました。現在は「ポストモダン以後」などといまだに均質化された苦しい呼び方が飛び交っていたりしますが、私が当時共感を覚えた作家たちのようなタイプの人びとは増えてきているように感じています。
私はこれを《私美術》と呼んでおりますが、まずはこの現象について体験的な話を交えて説明して おきたいと思います。この《私美術》という呼称から連想された方もおられると思いますが、これは「私小説」という言葉がベースになっているものです。私が十代のころはこの「私小説」という言葉が冠せられるだけでそれが作品に対する批判になりうるほどの否定的なイメージが文壇を支配してい る時代でしたが、私自身は日本という土壌の或るリアルな状況から必然性をもって生まれてきたオリ ジナルな文学手法と捉えておりましたので、文壇の作り出すイメージにはずっと疑問をもっておりました。
文芸評論家の川本三郎氏は「日本近代の未熟さが生んだ必然としても、この家族、告白というふたつの特色のために私小説は湿気を帯びてくる」と述べられておりますが、もちろん、日本のモダニズ ムは未熟と呼ぶことも決して間違いではありません。しかし、西欧社会がその内的需要によって生み 出したそれを、まったく異なる歴史の流れにある日本にそのままの形で定着させようと考えるのも、それを日本の成熟・未熟と考えるのも、観念だけが西欧化した一部の「知識人」の勘違いであることは前講でカメルーンの青年が述べている通りです。私は「私小説の湿気」は「日本近代の湿気」と深 くかかわるものだと感じています。
日本は近代化しましたが、それは日本の近代化であって西欧のそれとはまったく異なるものです。たとえば、日本人は新しい価値観が輸入されて取り入れられても、それで旧来の価値観が完全に否定されるということにはならないのです。それらは時間をかけて折衷されていくことで「日本のモダニズム」なるものを生み出すのです。家族に関しても封建的な家族制度は大きく変容しましたが、これもやはり折衷なのです。告白においてもまた観念と心情は有機的に結びついています。こうしたリアルな状況をストレートに描写した「私小説」に不可避に「湿気」がまとわりつくことが問題とされるのは二つの理由があると思います。
一つは、小説はフィクションとして現実の擬態としてドライな非日常性として作られるべきである という先入観から鼻につく、作家と作品との癒着性においてであり、もう一つは、湿気のないモダニズムに観念的逃避をしている読者が「日本近代」のなかで否定されなかった湿気を自らの湿気におい喚起され現前化させられることで今度は逃避を邪魔するその作品に反応した自らの湿気から逆に逃避するために作品の湿気が異常に問題にされてしまうという点においてです。時代・世代は替わって「私小説」の再評価がやっと始まりましたが、それでも「湿気」の問題はいまだ嫌悪の対象とされているように私には感じられます。
たとえば新しいタイプの「私小説」作家と思われる柳美里氏は「私は自分がいちばんよく知っている世界を書くという素朴な方法」を守ってきたと言います。ここには既に「私小説」の手法に対する偏見は見られないように思われます。ただし「生活必需品が私を脅かす。部屋に溜まってる殿のようなものが、私をいらだたせ落ちつかない気分にさせる」とも述べられています。つまり彼女のなかで は「リアルな世界」と「リアルな生活」とはイコールで結べるものではないわけです。しかし、このままでは分裂したものとなってしまいます。そこで彼女は「リアルな世界」としての体験を虚構とし て再構成し、「リアルな生活」の感覚をもたらす素材を拒否することでその生活感覚を抑圧(隠蔽)するのですが、この二つの作業が必然的に導くのは「現実の歴史化(=物語化)」という一つのイストワールです。歴史というものが半ば暴力的な現代的解釈や喚起において再構成されたものでしかな いということは周知のことですが、ここで言う「歴史=物語」とはいわゆる大文字の歴史ではなく「私史」であり、「現実」表象が既に歴史化であるのと同じ構図のなかで歴史化を通して現実としての私を自ら受容する作業と呼んでいいものと思われます。つまり、「リアルな世界」を彼女自身がこの世界に存在することの切迫した許可への希求性から、彼女自身の「リアルな現実」に組み替えるわけです。
もちろん、「私史」も歴史化である以上は無自覚に社会的なイデーが反映されざるをえないものです。これは開儀的なコミュニケートの位相にあるものです。でも同時にそこには湿気の一つである自 己愛的な空間が秘儀性をもって付随しているものです。とはいえこの後者は、コミュニケートの位相において明示的に現れるものではないので、一見すると湿気のない私小説が生まれることになるわけです。
これと同様なことが美術の世界でも起こっています。とはいえ「私史」については断片的かつ想起的なものでありまして言葉によって歴史化する傾向は強くありませんから、よりストレートでリアルな現在性を無意識的に孕んだものとなるということは異なりますし、その表現においてもイデオローグなイメージに支えられた言語を用いることは少ないですから、より秘儀的な空間にあるものと言うことができると思います。この秘儀性について、すなわちコミュニケーションに媚びることで去勢されるもろもろの位相を保持し続けたままで、安易な解釈を許さないどころか「私の作品は私にしかわからない」と明言さえしてしまう作家たちの創作作法に私は共感を覚えたのでした。それは意味深さの演出や難解さを深遠さに見せかけるもくろみとはまったく異なるものでありまして、まるでそれなくしては世界(精神文化)そのものが崩壊してしまうような、私がアフリカの仮面から感受したよう「切実さ」を秘めた、「現実」と「自己」との意図を超えた)同時組み替えなのです。
当時の私がイコンという言葉を作品に付していましたのも「それ自身が世界をもち、みる者がそれに与える意味の自由はない」という意味でのことでした。簡単に言いますとこれが《私美術》の作法に共通して見られるものです。ただ、イコンと言いましてもここでは私的イコンです。そこで最も大 切になってくるのがこの「私性」の在りかであり位相の問題かと思われます。
以前、芸大の近くで学生と酒を飲んでいましたときに彼が「私性からモノを作るのは閉じている」と私に断言したことがありましたが、しかしそれはいいかえれば「私の私性は閉じている」という彼の自己表明にほかならないのですね。一昔前のビックリマンシールの人気やポケモンゲームによって現代の若い世代が「全体性(コスモロジー)」や「未知なる異空間 (野生)」を希求していることは既に指摘されていることです。そしてこれをヴァーチャル・リアリティにおいて実現する手段としてパソコンの普及は大きな位置を占めていますね。既に八十年代後半に私はある美術家の青年から「肉眼でみるよりもモニターを通して見たものの方がリアル」だという過渡期的な感覚を聞いたことがあり ます。モニターというのは単なる「外」を映す窓ではなく、少なからず意図をもった他者が介入しているものなのですが、その他者との関係は強要されていないものです。つまり「見られる」という関係がそこにはないのです。すなわち、モニターを通して見ることにおいて、何ら手順を踏むことなく、遠慮や有責性を必要としない一方的な視線だけを実現するものです。
これは「仮面」の効果と似ておりまして、この関係においては自らが誰であるかを問われることか ら自由になり、日常の自己(有責性)から解放される時空間なのだと思われます。ただし、そこでは見せることを前提に意図された他者の視線と同化されることでリアルな他者や「外」に出会うリアリティは自らの非人称化と同様に消滅していることの自覚もまた感受されえないのです。そして、その後はご存じのようにヴァーチャル・リアリティやシミュレーショニズムといったものがパソコンのゲームや情報とともに日常生活の一部として組み入れられつつある状況にあります。これはリアリティにとって単純に否定的に捉えるべきものではもちろんありません。