乾漆像と塑像の誕生
これを援護しているかのように都合のよい新説が東塔の建築技法について行なわれている。簡潔な水煙と軽快な塔姿とによって、本尊の薬師三尊像以上に知られている薬師寺東塔は、「扶桑略記」の記事(三月廿九日条)によって天平二年(七三〇)新造説が有力であるけれども、最近の解体修理のおりに使用材料を分類したら、旧材と新材とが混合していることが確認できたそうであるから、基本的には本薬師寺の塔であろうとみる説(幅)が提出されている。これを参考として、薬師三尊像の移座説もかんたんに退ぞけることができない。
なお、中尊が坐っている長方形台座の四方の胴面には、唐草文様や四神図や寸人である侏儒像などが浮彫りされている。四神図は六〇〇年前後と推定されている江西遇賢里の古墳壁画に典型的作例があるから、早くから朝鮮で消化されていたし、柱を支えたり侏儒楽を奏する寸人像もその頃の中国仏像に付随した像としてインドから伝来しているけれども、日本における遺作は少ないから、三尊像に較べて異国的な印象を与えるけれども、こういう配合がかえって当時にあっては新鮮に感受されたのであろう。想像を加えるならば、侏儒と四神の怪奇性と同じように、この三尊像にも圧倒的威圧を感じていたのかもしれない。
さて、この薬師三尊像の両脇侍を直立させて独尊像として整備したのが東院堂にある聖観音像である。別鋳の金銅製台座に真正面向きに立っている像身、また腰から下を覆っている裳の襞とそれにかかる天衣などは、まさし左右相称である。その点では前時代的であるけれども、すでに深大寺釈迦像に見られるように両脚にからみつくように表わされている裳や薬師三尊像以上に厚味をもった立体的彫成などから考えると、この左右相称は威容の形式を整えるための新らしい立場で行なわれているように思われる。旧新何れの説をとるにしても、薬師三尊像に近いころの制作であるとされているが、多少の技法や様式の差でもって年代の上下を単純に判別し難いのがこの時代の特質であるから、三尊像とほぼ同じころと仮定しておくのが穏当であろう。
藤原京時代の天皇以下の指導者は、藤原京を新時代の象徴として建設しようとする積極性にもえていた。その意欲は仏教信仰にもそのまま反映して、壮大な堂塔と仏像と壮厳に満ちた寺院を顕造することが帝王と国家の繁栄であるという仏教世界観になった。すでに北魏時代に始まって隋唐において爛熟した国家仏教として結実したのであるから、隋唐仏像の形式と様式なるものは、崇高な肉体に慈悲の精神を宿している理想的人間像として地上に再現されるようになったのである。藤原京時代の指導者たちは、隋唐における国家と仏教、帝王と僧団、都城と仏寺、堂塔と壮厳などの諸法式を学んで、藤原京に諸寺を造営する功徳によって律令国家の完成を期待したのである。遺存する仏像彫刻を例にして言えば、山田寺薬師像に始まって薬師寺薬師三尊像に終る系列が、このような理念の権化であったと言えよう。







