第五章 平安時代
第一節密教美術
平安京の造営
仏教美術と宮殿美術の盛大さだけからみれば、天平時代はいかにも律令制国家の黄金時代であったけれども、政教両界にはすでに弛緩と頽廃がかもし出されていた。その律令体制の矛盾が現われかけてきた宝亀元年(七七〇)に即位された光仁天皇は、皇太子と共にその改革に着手し、それを皇太子すなわち桓武天皇もうけつがれたのである。その一環として延暦三年(七八四)に山背国の長岡への遷都が決って直ちに実行された。延暦五年には主要な朝堂が完成したのであるが、その後の経営は順調でなかった。そして延暦十二年さらに山背国葛野郡宇太村に東西四二町・南北四九町の新都を建設することになり、同十三年十月に遷都が行なわれ、山背国を山城国と改め新都を平安京とよぶことになった。宮城や城内の諸形式は平城京と同じく唐都長安を模倣していて、ぜんたいは平城京より少し大きかったが、延暦二十四年(八〇五)に平安京の造営が打ちきられてしまったので、初めの計画通りには完成しなかったようだが、遷都してから三〇年ほど後の記事に、京は五八〇余町あると書かれているのに基づいて、千二一六町の計画に対して半分近くしかできていなかったと解釈する説が歴史家によって出されている。
しかし宮都が美術と深い関係をもっているのは、市街でなくて宮城と寺院とであるから、まず宮城の建設はどうであったかをみなければならぬが、この宮城すなわち平安期の用語で言えば大内裏には政庁である建物と内廷すなわち内裏の建物との二種類があった。政庁の中では、天皇が政務をとり大礼を行なう大極殿は延暦十五年(七九六)には竣成しているが、大嘗会や節会などの饗宴を催す豊楽院はまだ完成されていなかったけれども、その仮殿はひじょうに壮麗であったとあるからして、朝堂の正殿である大極殿と豊楽院の二大殿は十分な壮厳が施されてでき上っていたとしてよかろう。また内裏では、正殿である紫宸殿と仁寿殿、常の御所である清涼殿と女御などの後涼殿はできていたにちがいないし、その他の殿舎もかなり営まれていたとみるべきであろう。中国の宮城ほどではないにしても、もし正規の通りに大内裏と内裏が完成していたならば、数十の大小殿舎が建ち並んでいたはずであって、その景観は平城京の宮城も同じであるけれども、東西八町・南北一〇町の宮城にたつ諸殿舎の内外、とくに室内の美術的壮厳は平城宮よりも盛んであり、またいっそう発達してゆく過程にあったのが平安宮城の特質であり、またそこに宮殿と宮殿生活が平安時代の世俗美術を育成する最大の基盤となったわけである。この都城の建設の担当官省は、時代によって名称が変わるけれども造京司が責任をもち、各省に属する木工寮や内匠寮や修理職が技術家を動員して造営と営繕に当ってきているのであって、平安京の場合は初めに藤原小黒麻呂が、ついで和気清麻呂が造宮使長官に任ぜられている。






