第三章 藤原京時代

第一節 諸大寺の造営

白鳳時代

三宝を興隆して仏教美術の基礎を開いた聖徳太子は推古天皇三十年(六二二)に四九歳で薨ぜられたが、その後の歴代天皇も諸豪族も篤く仏教を奉じたので、仏教美術はいっそう発展していった。しかし政治の上では、太子が意図した中央集権的な官僚国家の諸制が固定しないうちに太子がなくなったので、太子の協力者であった蘇我蝦夷の権力が増大し、その子の入鹿に襲われた山背大兄王は皇極天皇二年(六四三)に斑鳩寺で自殺するに至った。また大陸においては、推古天皇二十六年(六一八)に隋が滅んで唐帝国が生れて強大な国家に発展し続けており、この唐を背景にして半島の新羅も勢力を拡大しつつあった。
ちょうどこのころ、長い留学を終えて帰国した聖徳太子の遣隋使節団員たちは、大唐国の整備した国家の組織と国力に較べて、祖国日本の政治と社会の混乱を痛感した。太子の遺志を奉ずる中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂は、その留学生たちと結んで立ち上り、皇極天皇四年に蝦夷と入鹿を討ち、直ちに孝徳天皇が即位された。まず中大兄王が皇太子となり、大臣と大連を廃して左大臣、右大臣、内臣の官を設け、帰国した僧旻と高向玄理を国博士に任じ、皇権の絶対性を宣言して大化なる年号を建て難波に都を遷して革新の大事業に着手したのである。翌大化二年(六四六)元旦の「日本書紀」は、四条の改新方策を記しているが、それは唐の律令政治に範をとって、天皇に国家権力を集権させることであった。

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第三節 仏教絵画

法隆寺

蘇我馬子が崇峻天皇元年(五八八)に建てた飛鳥寺は、日本における最初の本格的規模の大寺院であったことを前にのべたが、ついで聖徳太子は四天王寺と法隆寺を創建し、さらに中宮寺・橘寺・蜂岡寺(広隆寺)・池後寺(法起寺)・葛木寺(妙安寺)も太子と関係があるような伝説があるほどだから、飛鳥時代に大寺院が続出したことはたしかであり、また現在の四天王寺などによって、当時の寺院の伽藍配置などは十分に知ることができるけれども、さて堂塔の形体や構造や内部壮厳などの具体的なことは、一つも遺構が残っていないのであるから判らないのである。たしかに太子が建てた法隆寺は、天智天皇九年(六七〇)の四月三十日の夜半に一屋も余すところなく焼失してしまったという「日本書紀」の記事を信用すべきであるからして、現在の法隆寺はその後の再建である。聖徳太子時代の法隆寺を若草伽藍と考古学者はよんでいるが、飛鳥寺や旧法隆寺などの飛鳥期大寺院の堂塔内は、どんな舗設と壮厳が施されていたのであろうか。

止利が造った釈迦三尊像はたしかに法隆寺の一堂の本尊であったのであるから、それを安置する須弥壇が中央に築かれ、その上には天蓋がかかっていたことは、現在の金堂と同じ規格であったにちがいないけれども、さて天井やその下の小壁や、扉とその間の壁はどうなっていたのか。部分的な施設や形式はしばらく別として、少なくとも四方の大壁面にどんな壮厳をしたか、すなわち現存金堂と同じように本尊を盛りたてるための仏教絵画が描かれていたか否かは、絵画史としては大きな問題であるが、現金堂がたとえ半世紀以上も後の再建であるにしても、若草伽藍たる旧法隆寺の本堂は壁画によって壮厳されていたにちがいないと考えてよかろう。

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第二節 仏像彫刻

止利の作品

聖徳太子の心に合致した見本を基にして造りあげたのが、同年四月に完成した法興寺の丈六坐像であったことは、やはり「日本書紀」によって明らかである。そしてそれは今も安居院に本尊として安置されている銅像なのであるが、火災で焼けただれた痕跡を留めている頭部だけが止利の制作した部分であるにすぎないけれども、そこには後にのべるような止利形式の面影が漂っていて、記念すべき作品であることを認 めねばならぬ。しかし最も完全な条件の下に保存されているのは、法隆寺金堂にある釈迦三尊像である。挙身光背の背面に刻まれている造像銘の要旨は、推古天皇二十九年十二月に太子の母が薨ぜられ、翌年正月には太子夫妻が病床に臥されたので、王子や諸臣が発願して太子と等身の釈迦像を造ることでもって転病延寿を願おうとしたのであるが、同年二月に太子夫妻が亡くなられたけれども、釈迦像と俠侍と壮厳とは推古天皇三十一年三月にでき上り、司馬鞍首止利仏師が造った、とある。

この釈迦三尊像こそは止利の最も確実な作品であるばかりか、飛鳥時代を代表する典型にされているが、同じく法隆寺金堂には薬師像が奉ぜられていて、その光背銘によると、聖徳太子が用明天皇の病気平癒を祈願して推古天皇十五年(六〇七)に斑鳩寺の本尊として造らせたことがわかる。また釈迦三尊像と類形が同じであり、鋳造技法も共通しているので、やはり止利仏師の作であると信ぜられてきた。しかしここ二十年来の美術史学界では、造像銘の中の語彙や文体や鍋刻法などに疑問が抱かれるようになり、とくに釈迦三尊像の顔面表情との差が大きすぎることについての解釈ができないことによって、止利の制作であることを否定した上に、さらに制作年代をもっと下げ る説が支配的になっている。それがために、日本歴史も日本文化史でも、この薬師像を取りあげることを躊躇してしまって今のところ敬遠されているのが実情であるが、今までに呈出されている限りでの否定説の根拠は、それほど強力ではないと言ってよかろう。

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第二章 飛鳥時代

第一節 仏教美術の伝来

飛鳥文化の根底

弥生と古墳の両時代に見られる日本の造形物は、朝鮮と中国の影響のもとに改良進歩してきたことと、その造形物の形式や技術を伝達指導した者は、韓漢の帰化人であったということを強調してきた。多くの日本史家があげているので、すでに常識となっていることだが、かの「新撰姓氏録」(八一五年撰)が掲げている帰化人の子孫は三二六氏に及び、それは畿内居住の氏一一八二の三分の一強にあたっているのであるから、いかに帰化人が優勢であったかが推測できようと思う。しかもかれらは当時の日本列島人にとっては技術と知識においてはるかに先進者であったのであるから、当時の文化的な産物と現象が、いかに大陸的であったかは想像以上であったろう。
その理由は、何度もふれてきているように大陸造形物が格段にすぐれていたという簡単な事実に他ならぬが、その造形物を摂取しようとする意欲や能力を具える前提として、その以前に大陸の精神文化を吸収し理解していたという半面を忘れてはならぬ。すでに五世紀には漢字が用いられて倭語的訓読法が考案されている。百済系帰化氏族によってなされたにちがいないが、それ以後、韓漢帰化人が宮廷豪族の筆録に従事して、やがては史部が形成されて、かれらによって史書が編纂されるにいたった。かの弓月ノ君や阿直岐や王仁はその伝説的始祖であるが、これらの多くの文筆の才をもった帰化人とその子孫の精神文化は、大和朝廷の権力を強めるのに大いに与って力があったにちがいない。

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埴輪

この新時代の技術革新の一翼を担っていたのは陶部の工人たちである。それに較べるならば、原始的な素焼土器の生産者である土師部の工人たちは、本来ならばあまり歴史に登場させる必要もないのだが、幸いにも、かれら土師部に属すると思われる工人たちは、須恵器に勝る埴輪なる造形物を焼成していることで、不朽の名を残している。
この埴輪には円筒と象形との二類があり、更に後者は弓・大刀・楯・食器などの器物を象った器材埴輪と、鳥・馬・犬などを現わした動物埴輪、家形を造っている家屋埴輪、男女の像をした人物埴輪との四種に考古学は分けている。前者の円筒埴輪は土師器の一種とみてよいから省略するとして、第二類の象形埴輪こそ日本造形史上で最古の本格的塑像であると言ってよかろう。この埴輪は高塚墳墓の外装と墓室の内装との二つの用途に造られたのであって、古墳が発生する三世紀後期からの初期古墳では円筒埴輪だけが墳丘の要所に埋められていたのであるが、やがて地下墓室の上にあたる墳丘頂の区域に家屋や器材の形をした埴輪が安置されだし、四世紀末期には鳥形埴輪が生れ、五世紀に入ると動物埴輪が、さらに五世紀中期になると人物埴輪が現われてきた。
これらの埴輪は奉納者や司祭者のどんな願望を表現しているのかということについては、まだ定説がたてられていない。「日本書紀」の垂仁紀(二八年、三二年の条)によると、垂仁天皇は悲惨な殉死を禁止し、ついで、出雲の土部一〇〇人を召集して、その代りに人馬や種々の土物(埴輪)を作らせて埋めたのであるが、これを進言したのは野見宿弥であったので、宿弥を土部職に任じ土部臣の姓を賜ったとある。記事そのものは粉飾された伝説であろうが、陵墓に安置された象形像なるものは、すべて親近な人と物の代償たる性質をもっているからして、その限りでは垂仁記は一面の真理を伝えていると言えよう。
それにしても、この埴輪は日本最初の明確な塑像彫刻であるからして、その発生と成長の過程については、もっと考究されなければならぬ課題である。その様式の差が著しいためか、あまり密接に結びつけて扱われていないけれども、中国の漢代に完成されたところの器材埴輪にあたる明器と、人物埴輪に類する泥像とは、日本埴輪が成立する前提になっていると推測したい。大陸の明器泥像は墓室内に侍者として置かれているのに対し、埴輪はほとんど墓室を覆うている封土に立てられている違いはあるにしても、玄室に眠る死者の生活に仕える奉侍者であるという意味では、両者は同じである。

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第三節 古墳期

大陸交通

弥生土器期の造形物と大陸の造形物との関係をかなり強調してきたのであるが、それを最も具体的に証明しているのは、弥生中期の甕棺に納められている漢式鏡が、朝鮮楽浪郡などの墳墓から出土することであろう。また中国の文献においては、古くは山海経から漢書、後漢書、さては魏書などに倭の国としてしばしば登場することは、両漢・魏晋南北朝を通じてかなりの国家的交渉があったことを物語っており、その結実が倭国造形物の変容であったわけだ。
この問題を最も要領よく適確に説明している末松保和氏の学説(任那興亡史)を借りることにしよう。日本文化の最古の展開が、縄文文化から弥生文化への進入であったとすることは常識であるが、その弥生式文化の祖国がどこであるか、またその伝来流入年代はいつごろであるかについては、まだ定説がない。ただし弥生式文化の発展の基礎に、水田耕作の普及という事実があったこと、ついで大陸伝来の青銅器と鉄器の金属器が新文化発展の契機をなしていたことは考古学の証明するところである。日本の大陸関係史をみると、壱岐・対馬をへての朝鮮交通と東シナ海を渡っての直接の中国交通との二路が考えられる先史期における大陸交通は、金属器の輸入が主な目的であった。次 の楽浪期(前一〇八年─三一三年)に入ると、この大陸金属器文化の輸入は飛躍的に増進された。漠然と大陸交通というよりも、楽浪交通といってよいほど交通は集約されていて、その輸入文化も漢文化と言い換えるのが至当であろう。四〇〇年に亙って続けられた倭人の漢文化輸入は、たんに個々の物品の輸入にとどまらず、やがてはその製造技術の輸入、さらに製造技術者の輸入をも実現し、それに伴って文化の実用化すなわち日本化もしだいにすすめられたであろう。かかる技術や数量の面だけでなく、やがてはその質と内容についての発展が認められる。すなわち物質文化から精神文化への欲求となるのである。
輸入された新文化が発展するには、その文化の受容体とその文化の所有者とを考えねばならぬ。個々の器物と技術の輸入は個人を媒介として行なわれても、それが新文化として発展するためには個人的な受容と所有に止まることが許されない。楽浪期の経過につれ、しだいに質量を加えていった漢文化の輸入は、その受容体としての日本社会に大きな発展の契機を供与したと思われる。すなわち、新文化の所有は少数の支配者の発生と成長に最も大きな条件となったであろう。支配者の成長は他面からみれば統一範囲の拡大であり、政治社会の発展である。この成長・拡大・発展がある程度にまで到達した時、大陸交通の目的は一転し、輸入文化の質的変化が現われた。

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金属工芸

これらの金属器のうちの農耕機具は、縄文期末から弥生期初めに伝わったところの稲作の生産能率を大いに高めたにちがいないし、またその他の器具や器物など広義の道具も生活の向上に役立ったのであるが、そういう社会的な背景については省略するとして、石器よりはるかに鋭利な金属製工具の使用は、木製品の工作をひじょうに容易にして、精巧な木器の製作が始まった。自由な加工によって生れる種々な形態の木器が、さらに土器の形態にも影響したことであろうし、また多量生産のために専門的工人の集団も発生してきたこ とであろう。さらに今までは加工が困難であった玉・貝・骨・角などの硬質材料で器物を作ることも容易になった にちがいないが、とくに道具とは全く異質の装身具がこれらの材料で大量に作られだしたのは、金属工具の恩恵によると考えてよかろう。
恐らく弥生時代人はこれらの装身具に対して咒術的観念をかなり抱いていたにちがいないけれども、それらを身につけることによって自己を誇示する精神と態度も強く持っていたことも認められるからして、装身具が弥生時代人に快適な情感を与え る物であったこともたしかだ。すな わち、装身具こそ最も端的に弥生時 代人の美的精神を満足させる直接的 な造形物であった。器具的道具とは意味のちがった造形物であったからして、この装身具こそ確実な工芸の範囲に入るべきであろう。もっとも、縄文時代の装身具もやはり似た性質であったにちがいないが、その加工と仕上げの精巧さを考えるならば、この弥生時代装身具に真の工芸性を求めてよかろうと思う。なおこの時代にガラスと織物の製法を新らしく覚えたが、とくに後者はいまだ初歩の実用的消耗品にすぎなかった。
この装身具以上に工芸性格を発揮しているのは銅鐸である。高さ一二・六cmから一三五・七cm(滋賀県野洲町小篠原出土)に至るまでの大小の作品三〇〇個ほどが発見されていて、梅原末治氏の説によると、それらは文様的に三類五種に分類できるそうであるが、この弥生期銅鐸の起源は朝鮮半島の小銅鐸にあること、ほとんど中部地方で生産使用されていること、実用品でなくして共同体の祭器的存在であったことが公認されている。したがって、祭器として十分な効果を発揮させるために実用性を超越した造形が施されているからして、この銅鐸こそ日本列島における最古の完 全な工芸品であったという見方をすることもできよう。
この銅鐸を、もっと美術史的な観点で取り扱うと、次のような二つの特色をあげることができよう。銅鐸は紐と身の二部から成りたっているが、扁平な紐が身の低部まで垂れ下ってきている。 それがいわゆる鰭とよばれている領巾状の突起であるが、それがために、紐と身との高さの比例は二倍半から三倍であるにもかかわらず、紐が身を深くかかえこんでいるような恰好になっており、その上に、正面底辺の直径が総高の六割前後の幅であるから、太さの割には高さが低いのである。こんな誇張された形態的意匠であるがために、鈍緩な形体の中に重圧感を蔵して おり、しかも鋳造技術の低さがもたらす稚拙さによって、その印象が倍加されているのだが、こういう映像こそ、祭器としての資格を具えた造形物である。

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第二節 弥生土器期

縄文土器の変遷

この縄文式土器は年代とともに、どういうように変っていったかについて、考古学者は次の如く述べている(世界文化史大系.日本1、坪井清足)。「縄文文化は東日本を中心にして最後の輝かしい光を放った。とくにその土器の精巧さは、中期における中部山地の土器の荒々しいマッス(谷.住、量塊性)の美しさとともに、縄文時代を通してみられる技巧の一つの頂点を示している。これらの土器は青森県にある代表的な遺跡の名をとって亀ガ岡式とよばれている。その形の奇怪さ、変化の多様性、表現の繊細さなど、どの点からみても世界の新石器時代の土 器のなかで屈指の作品とされる。...それとは対照的に、文様をほとんど失ってしまい器形も単純な一群の土器が、九州を中心とする西日本でつくられていた。この徴候はすでに後期にあらわれているが、晩期になっていっそう強まったといえる。この両極の中間には、近畿・瀬戸内を中心とする一群の文化、中部地方の文化や関東を中心とす文化などの数群の中間的なグループがみられる。 そして近畿地方の土器は、九州のものにくらべると文様の要素も多く、弧線文を組み合わせた文様をもっているが、縄文を全く用いない。ところが、中部地方の土器、とくに北陸系のものは近畿と同様の弧線文を用いているのは、縄文が使用されている。その点で、より亀ガ岡式に近い。つまり、それぞれ両隣りの地区とくらべると中間的な様相を示している。...この亀ガ岡式土器は百をこえる器形の変化がみられるが、...基本的な形としては皿、深鉢、碗、壺、注口土器、高坏などの十種類ばかりのものが、それぞれ数種から十数種の異った変化をみせている。...全体を通じてみれば、それが極めて徐々に移り変っていたものであることがわかる。しかもある時期特有のモチーフがすべての器形に用いられている。これは単に土器だけに止まらず、その他の製品、石器から骨角器にいたるまで各種の工芸品にわたった現象であって、そのモチーフがくり返され、決してその施文の法則は乱れない。この点では変化というより法則といったほうがよく、これは中 期の土器の形の上にみられる自在な変化とくらべた場合、むしろその停滞性が強く感じられる」。
また、似たような論旨が他でも次の如く説かれている(角川版世界美術全集・日本I、野口義麿)。
「...後期の土器は、文様・器形に大きな変化が認められる。器形はその用途に応じて分化し、鉢、甕、壺、碗、注口、台付などの土器が普及するとともに、非実用的な容器の製作が目だつようになる。中期の特徴であった厚手で大形の土器は減少し、薄手となり、器面調整、焼上げの技術にも進歩のあとがうかがえる。文様は中期の後半には隆起した渦巻文、曲線文がみられたが、この文様はしだいに沈線化する方向に進み、後期になると、へら状工具による沈線文様となる。これに伴ない中期の終りに芽ばえた磨消し縄文が発達して、ここに後期の土器は中期とはまったく変った繊細な磨消し縄文によって代表されるようになった。...晩期の土器は亀ガ岡式土器によって代表されるといっても過言ではない。この土器は東北地方に栄えた縄文土器の最後の華とでもいうべきであろうか。相対的にみて衰退的傾向をたどっていった晩期の土器群のなかで、きわだった存在である。このすぐれた土器は、東北地方を中心として発達し、しだいに周辺地域に影響を及ぼした。...しかし、関東・中部・近畿地方では、このすぐれた土器の影響をうけながらも、進歩改良のあとがみられず、しだいに退化の途をたどり、やがて西方から伝わった新らしい弥生式土器へと移行していくのである。瀬戸内・九州の土器も、はっきりと衰退的な様子をみせはじめる。口縁や胴部にめぐらした突帯や条痕文が目だち、無文土器が増加し、装飾のある土器がなくなっていく。そのなかには、やがて生れる弥生式土器の要素があらわれはじめる」。

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谷信一,《體系日本史叢書20 美術史》,山川出版社,1968

第一章 先史時代

第一節 縄文土器期

最初の造形物

人間が人間になったばかりのころは、現在の私たちがキノコやイチゴを拾い集めるように食物を採集するだけであって、まだ石の爪や歯を作ることをしなかったのだが、その後の長い年月の間に、河の浅瀬などを歩きまわって、自然がその周囲を削りとったり研いだりしてくれた鋭い石をさがしていた。このようなうまく尖った天然の石は、ほとばしる水が渦巻くところに落ちていた。しかし、自然に細工されたたくさんの石の中で、人間の役にたち得るような鋭利な石はひじょうに僅かしかなかったので、そこで人間は、石でもって自分たちに必要な尖った石を作りだした。自分自身で道具を作りはじめたのである。

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5.《日本風景論》與台灣

丸山晚霞和石川欽一郎相似之處,在於他也喜歡歸納風景的類別,例如風景、史景與情景三類,以及壯美(陽)、優美(陰)的區別。有趣的是,他也認為相思樹是台灣最尊貴的樹。他印象式的歸納台灣田園自然風光的觀念,其實是沿襲石川欽一郎以來,水彩畫家眼中的台灣風景圖式。石川欽一郎等早期來台的水彩畫家美學觀的共同來源之一為日本的國粹保存論者,地理文學家志賀重昂(Shiga Shigetaka, 1863-1927)於1894年出版的《日本風景論》。此書為介紹日本地理地質的大眾讀物,歸納日本的自然景觀特色,包括動植物、氣候、山脈、河流,並及登山知識,歷代詩人文客的詠懷風景文詞等,強調日本國土的特殊優越性。此書緒論開首即引用「江山洵美是吾鄉」的漢文詩句,宣揚日本風景美如人間淨土,愛國愛鄉的主旨,運用當時的科學觀點與地理氣象資料分析介紹日本的自然環境。他歸結日本的風景特色有三:一、瀟洒,二、美,三、跌宕。如此凸顯文學性的瀟灑觀,正如石川欽一郎在〈薰風榻〉(1929年7月)文章,談到「台灣的風流觀」時,所推崇的日本室町時期的風流瀟灑情趣。也許石川欽一郎的說法並非直接來自志賀重昂,那麼兩者也應該有共同的來源,而且志賀的說法早已普遍流行於日本的知識界。

《日本風景論》書中也提到日本的新殖民地台灣,但是從未到過台灣的志賀重昂只是簡單地歸納為:台灣風景青綠,島的全半或幾乎全部都在熱帶圈內,多火山而植物茂密。同時,他又鼓勵日本的地理學家擴而研究整個亞細亞大陸地質。他認為:

日本是亞洲的「先輩國」,亞洲人文的發展是日本人的天職,故而在西洋的地理學家尚未認真研究亞洲大陸的地質之前,日本的地理學家應該努力經營,並且將一些(略)新術語冠上亞洲大陸的岩石系統,以便讓日本自然科學的美名永垂不朽。...
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3.理蕃政策與山岳繪畫

第五任台灣總督佐久間左馬太陸軍中將,是歷任台灣總督中,任期最長(1906年4月—1915年5月)的一位,共九年一個月,任內以「掃蕩生蕃」為重要施政方針。石川欽一郎第一次來台時期,不但與佐久間總督的任期重疊,而且他受命來台任總督府陸軍部通譯官的時刻(1907年10月底),正值總督府在全台實施理審計劃,開闢北蕃隘勇線,而引發桃園、新竹地區所謂「大嵙崁蕃匪騷擾事件」(10月7日)及「北埔暴動事件」(11月15日),日人傷亡將近八十人。對原住民的反抗,佐久間回報以更殘酷的五年理蕃計劃(1910-1914),不惜親上戰場指揮,武力圍勦。
石川欽一郎受聘來台的初期,以通譯官的身份製作許多歷史戰爭畫,並且配合佐久間總督理蕃政策而作畫。1909年3月,他所製作鉅幅油畫「北白川宮殿下御奮戰圖」,描寫北白川親王在彰化八卦山一役,寬九尺,高七尺,懸掛在台北博物館大廳正面,作為日本征服台灣戰爭紀念。
同年三月初,在陸軍副官率領將近二十人護衛之下,石川奉命由埔里進入中央山脈,繪製佐久間總督所推動的隘勇線蕃界地勢。出發時,陸軍參謀總長建議石川攜帶手槍,他雖然是婉拒了,但是當隊伍進入山地後,警衛便不斷地鳴槍示威。在隘勇線,石川使用桌椅繪製大幅水彩,身邊圍繞著數名警衛,偶而向山間放槍,引起一陣陣的迴響。石川回想在天津的戰場上必須躲開敵人的視線作速寫,相對地:

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《美術史研究集刊》第9期,2000

顏娟英

在鑑賞風景時我們認為美或不美的標準究竟何在?最後除了聽任觀賞者的眼力判斷之外,別無其他原則,這雖然是一般的說法,卻也是解釋審美觀的基礎。
石川欽一郎,〈台灣地區的風景鑑賞〉,1926年3月

1.從日本到台灣─報導文學與美術

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