《台北市立美術館典藏專冊1 台灣美術近代化歷程:1945年之前》,台北市立美術館,2009

莊伯和
日治時代台灣美術在美術史上的重要貢獻之一,應是台灣圖像的建立。
我認為在原住民美術之外,以後來成為主流的漢文化來說,除了承襲明清時代餘緒的 文人畫傳統,台灣的美術活動在日治時代有其獨特的發展。民國成立,民國美術也在 明清餘緒之外有了新的面貌,但當時日本人已統治台灣17年,日治時代台灣美術因緣 際會,另成篇章。
日治50年,台灣出現了第一批西洋畫家、東洋畫家,步入近代的新美術運動因而誕生。以1927年官展成立為分水嶺,出現地方性特色表現。當時台灣畫家描繪台灣景色、民俗風土,表現台灣特有題材,即為成功之處。藝術品味有個人性也有普遍性的特徵,如飲食口味,酸甜苦辣,冷暖自知,但也有因為風土自然、生活習俗等地域因素而產生了解群體的共同嗜好,期間又可能因時代種種因素的變遷而有所改變。

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三、美術行政的大手筆

謝里法教授的《日據時代台灣美術運動史》,催生了「台灣美術」主體論的基本見解,從此以後台灣美術的論述風氣大興,史料紛紛出土。1983年台北市立美術館開館,接力推出的「石川欽一郎展」(1986)、「台灣早期西洋美術回顧展」(1990)、「台灣東洋畫探源展」(2000)、「東亞油畫的誕生與開展」(2000)等劃期性的展覽,外加前輩畫家們大規模的回顧展接二連三登場,台灣美術運動各線跑道上的 代表作,均得以有機會重見天日。
美術館嚴謹策劃的展出,都全面呈現於展覽畫集,史實真相愈辯愈明。加上民間出版的「台展」圖錄之工具書,或前輩藝術家全套畫冊,徹底翻出了深藏許久的參考圖典,接下來就是台北市立美術館典藏組的追蹤作業了。
北美館二十五年來以公部門資源,肩負起文化財的發掘與保存事業,對於1946年以前的作品入藏尤不敢掉以輕心。主辦過數十回大展的經驗之後,不僅知悉作品的下落,也查明作品出處,開始進行大搜尋,真正展現北美館典藏組不屈不撓的精神。
典藏組人力有限,但絕對要豐富的史識來判定入藏的價值性。好不容易尋得的作品,還要經過討論,也須等待專家審查議價通過,但初步議價的落差又有可能失之交臂。總之,從追蹤作品過程的疑慮與確定,到入藏程序的波折或順利,並非典藏組單方面可以決定的。因此常遇一件精品竟延宕多年方得以如願入館的例子,屢見不鮮,也許當初相中的佳作又幾經易主,又得重新來過的繁複過程,皆令典藏組工作人員嘗盡艱辛滋味。

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《台北市立美術館典藏專冊1 台灣美術近代化歷程:1945年之前》,台北市立美術館,2009

李欽賢

一、歷史視野的「運動」

謝里法教授於1978年出版的巨著《日據時代台灣美術運動史》,讀者已能意會到那是前一個世代,台灣美術家積極投入政策「運」作,呈現文化「動」能的成果。作者謝里法以新世代知識份子的敏感度和適當的歷史距離,回顧台灣美術從萌芽到茁壯,探用美術「運動」的宏觀角度,整理出這樣一部斷代美術史。
「運動」之用於文化現象發生學之通稱,亦屬於近代史觀的一環。較早採用的先例,是明治晚期的史家將明治前期首波反權威專制的聲浪,稱之為「自由民權運動」。其實這也是根據漢字轉化的詞彙,以日本文化廣納中國學問的深厚基底,明治維新後又致力引進西方學術,在原來中國所無的新學術領域專有名詞,皆以漢字合成新造語,或者襲用漢字原有的詞彙,重新解讀文化現象。

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第四節 殿堂の絵画

堂塔の画壁

さきに法隆寺五重塔の塑造群像が平城遷都の翌年に完成していると思われるがために、様式上では藤原京期の伝統をより多く受け継いでいるにちがいないけれども、機械的に奈良時代の最初にもってきたのであるが、寺院の堂塔の壁面に描かれている仏画の例として、やはり同じ操作によって、法隆寺五重塔壁画を奈良時代絵画の初めに扱うことにする。五重塔壁画については「古今目録抄」に記載されているけれども、それ以後は誰も見ることができなかったのであるが、昭和二十二年(一九四七)からはじまった解体修理によって四隅八壁の白壁を剥がして発見されたのである。すでに二面は消えていたけれども、残りの六面には金堂の六小壁と図像も寸法も配列方位も全く同じ方式で菩薩像が描かれているのが幽かに認められたのである。また上部小壁にも山岳図があることもわかった。白土を塗って消し去られた曖昧模糊たる仏画であるから、価値を論ずることができないけれども、金堂壁画の下絵をそのまま転用していることと、藤原京・奈良時代における堂塔壁画の形式を考える有力な資料にはなるであろう。
さてこの時代においては、堂塔内の壁面を仏像彫刻と呼応してどのように壮厳したかについては、法隆寺の金堂と五重塔によってわかるけれども、ただそれはあくまでたった二つの例であるにすぎないのであって、ほとんどすべての大寺の堂塔壁面は仏画をもっていたことが文献的にも仏教史的にも言えるのだが、奈良時代前後は唐朝寺院の直模であるからして、むしろ唐朝寺院の事例がそのまま奈良時代の寺院にあてはまると言ったほうがよかろう。中国最初の寺である洛陽の白馬寺や、藤原京・奈良時代の入唐僧が学んだ長安の大慈恩寺、また空海の師恵果が住した青龍寺など、多くの唐朝に栄えた大寺院は今も旧地に寺趾を残しているけれども、厳丈な塼塔の他はいずれも天災法難によって滅んでしまって、唐朝の古姿を保っている平地寺院の殿堂は一字もないのである。そこで、洛陽長安からみれば西境の地である敦煌石窟寺の洞穴の壁画とよく比較されて、法隆寺金堂壁画と唐朝仏寺壁画の類似 が説明されているのであるが、柱と窓のない洞窟空間と地上の建築空間とは全く異質であることをよく心得た上で論じなければならない。むしろ、「歴代名画記」や「洛陽伽藍記」などの幾多の文献が著録している記述に頼るほうが先であろう。善導大師は中国浄土教の大成者であるから特別であるにしても、生涯に浄土変相を三百余壁も造らせたとあるほどで、法隆寺金堂の浄土図も唐朝の流行と無関係ではなかろう。洛陽や長安に較べたら地方であるけれども、唐王朝の離宮もあった蜀(四川省)の成都にあった至徳二年(五八四)建立の大聖慈寺の諸院仏殿には、合せて八千五二四間の壁画があった。この間とは柱と柱の間、すなわち柱間のことであるから、その壁画の広大さが想像されよう。そしてこれらの命題別は、阿弥陀や釈迦などの如来形が一千二一五、菩薩形が一万四八八、梵天・帝釈天が六八、四天王・明王・神将などの守護神が二六三、羅漢・祖師が一千七八五あった。いずれも尊像の数で あるから、合計すると一万三千九一九体の画像があったということで、しかもみな唐朝に描かれた作品を宋代に入って調べた数字である。この尊像図と並んで浄土や変相を描いた群像図が一五八図あったというから、これは尊像壁画よりも一段と大きな壁面であったにちがいない。奈良時代の寺院はどうであったかよく判らないが、「大安寺伽藍縁起幷流記資財帳」には天平八年(七三六)に金堂壁を羅漢像九四体で飾ったこと、「西大寺資財流記帳」では薬師堂の七間の壁に七仏薬師浄土図と天井・柱に音声天や花形を描いたとある。あまり詳細を知ることができないけれども、唐朝寺院よりもはるかに小規模な壁画であったことと、描かれたであろう主題の振合いは、唐朝のそれに近かったであろうという想像が可能である。

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宮殿絵画

宮廷はかなり頻繁にしかも大がかりな仏教法会を行ない、それに必要な仏教美術、ここでは仏画であるわけだが、その宮殿で執行する法会用の整像や幢幡像などの仏画は宮廷の注文で描かせ、また保存する必要があれば宮廷に留めておいたのであるから、俗界においては宮廷がとびはなれて仏画の使用者であった。天皇や皇后や皇親がいかに篤信者であったにしても、宮廷において宮廷人としての公私の生活をしていたのであって、その生活形式が主権者であるがために、世俗社会はもとより貴族社会の生活よりも、規模がちがっていたにしても、それはやはり俗生活であって、寺院における仏家の生活とは異質である。最高の公人である天皇の生活居所が宮殿であるから、宮殿には公私にわたる俗生活に必要な美術、やはりここでは絵画を問題にしているのであるからして、天皇の公私の俗生活のための絵画が用意された。隋唐の律令国家を手本にしているのであるから、宮殿の絵画的設備も隋唐宮殿のそれを学んだことはいうまでもない。中国の宮殿形式はすでに漢時代に完成していて、多くの大廈高楼が建ち並び、各宮殿の性質に応じて主に儒教的題材の大壁画が描かれていたし、また画庫には帝王として必要な多数の図巻が蒐集されていた。時代が下ると共に画題と画法の種類が増加し変化を加えたにしても、宮殿の内外はますます壁画でもって荘厳し㡧画を垂下することで威厳を増したのである。しかし日本の諸宮殿は建築形式がちがうことと、規模が小さいがために、壁画を描く壁面がひじょうに少なかった。奈良時代の宮殿にどんな壁画が描かれたかは不明だが、その初期的な壁画があったであろうことは、平安宮殿によって想像してよかろう。
その後の宮殿史を基にして言えば、日本の宮殿は固定壁画よりも移動のできる壁画のほうが多かったと言える。すなわち、それは襖と杉戸と屏風と衝立のほぼ四種類に限定することができよう。奈良時代にはたして襖があったかどうかは疑問であるけれども、屏風は実に大量に使われていたことを「東大寺献物帳」が証明している。それによると『御屏風壱伯畳』とあるから、一〇〇畳の屏風を聖武天皇は使っていたことを意味するわけであって、従って宮殿にはもっと多くあったにちがいないのである。その一〇〇畳の内訳をみると、画屏風二一、鳥毛屏風三、鳥画屏風一、爽纈屏風六五、臈纈屏風一〇となっているが、爽纈と臈纈は染織であるし、鳥毛も半絵画であるからしばらく別とすると、純粋な絵画の屏風が二四畳も東大寺へ寄進されていることになる。それではどんな題材の屏風であったかと言えば、大唐古様宮殿画屏風は宮城内に林立する宮殿の壮観図であろうし、大唐勤政楼前観楽図屏風は宮殿の一つの勤政楼の前庭で宮廷人が遊楽している図、古人宮殿屏風も宮殿の内か外かに人物が配されている図であろう。大唐とあるのは、光明皇后自身は唐王朝という意識であろうが、古様と限定しているのは漢代以来の宮殿図の伝統を知っているので、それと唐王朝宮殿との比較において古様であったからであろうが、何れにしても奈良時代人の日本的な命名法である。引き続いて素画夜遊屏風と子女画屏風も唐の風俗図であろう。ついで古様山水画屏風と山水画屏風はやはり唐朝山水画の屏風であり、国図屏風は唐の地図屏風、古様本草画屏風は花卉図、鳥画屏風と舞馬屏風は鳥と馬の図をかいた屏風である。これらに混って百済画屏風があるから、百済の風俗をかいた図か百済から献上された屏風の意味か不明であるけれども、ほとんどすべては中国の風物を題材にしており、しかも奈良時代の画師たちが描いたにしても隋唐から請来した原図によっていたことは確かである。
ここにいう畳はどんな意味であるか断定できないけれども、今の隻に当っていて六曲(扇)続きを一隻すなわち一畳とよんでいる、と解釈されているのが普通である。しかし当時の屏風は平安時代のように蝶番で曲と曲とをつなぎ合せて固定してしまって一隻として仕立てられていたのではなくて、一曲一曲を紐で括ってつないでいたのであるから、取りはずしも自由であるし、何曲を必ずつながねばならぬという組立てではなかったのである。屏風の構造の話は別として、この画屏風はすべて弘仁六年(八一五)に正倉院から持ち出されてしまって消失したけれども、さきに半絵画の屏風とよんだところの鳥毛屏風の中の六曲が今も残っていて、そこには淡彩素描で描かれた樹下美人図があるから、鳥毛屏風としての本来の姿を失っているけれども、それは画屏風として取り扱われてよい資格を十分に具えている。天平勝宝八年(七五六)の献物帳によると、各曲は緋色の紗で四周が縁どられ、青い絶で裏あてされていたのだが、現在は紙面だけが仮張りの形式で保存されており、しかも、鳥毛で作った衣裳を着ている貴婦人の姿を彷彿させるためにほんとの鳥の羽が衣服にあたる画面に貼付してあったのであるが、それもすっかり無くなってしまって、今のように下図だけがむきだしに表わされているのである。現存の六面は、一本の木の側に立っている女の図が三面と、同じく腰かけている図が三面とであるから、必ずしも全部が鳥毛立女の図ではないのである。ところでこの女の姿は、髪飾りから顔立や衣服や姿態に至るまですべてが八世紀の盛唐期における唐美人の類形であるからして、唐美人図の原形によって描かれいることは確かであるが、同時に西域においても類似した樹下美人図が発見されているので、奈良時代と西域との関係を説明する資料によく使われている。西域は前漢の武帝が経略に乗りだしてから漢人の移住と漢文化が移出され始めたけれども、形式上でも内容上でも中国文化が支配するようになったのは唐朝になってからであった。西域一帯に州県制度を設けて統治するに至って、唐朝人が永住して漢人社会ができ、西域人社会との交流によって唐朝文化が急速に西域に広まったのである。この漢代から唐代までの西域人はイラン系人種であったから、漢民族の唐朝文化は西域においては西方のイラン系文化との混合化があったことは当然である。九世紀近くなって唐朝末期には、ウイグル系人種が勢力をしめてきたので、イラン系人 種の西域人とはちがってきたけれども、唐朝文化を摂取することでは同じであった。これを唐朝の側に立って考えると、西域人の来往によって長安・洛陽の中心地では西域人がもたらした西方文化を大いに消化して、唐朝の立場で混合文化を形成していた。前にあげた伎楽その他の西域楽劇や諸工芸がイラン文化と関係していることなどは、そのためである。したがって、枝葉の茂った木の下に立つという画題そのものは、西域で信仰された精霊崇拝的な要素を唐朝が形式的にとり入れたのであろう。したがって、唐朝美人図の一形式がはるか西方に及んで西城美人図となって現われ、また海を渡っては東方の奈良美人図になったのであるから、奈良絵画と西域画との脈賂は直接に はつながっていないと言うべきであろう。

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第三節 仏像彫刻

法隆寺五重塔の群像

上にあげた奈良朝寺院の遺構中でも、とくに異彩を放っているのは法隆寺五重塔である。これは平城遷都の和銅三年(七一〇)にはすでに完成していたと考えるのが通説であるからして、藤原京時代の建築とすべきであるが、法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(七四六年撰)に、塔が一つ、五重で高さ一六丈、塔の根もとの四方に涅槃と弥勒と維摩と分舎利の四揃いの塑像で造った浄土が具わっていて、それは和銅四年(七一一)の歳のことである云々という記事があるから、編年的には奈良時代が始まった翌年にあたるわけである。天皇の交替や遷都などによって文化の時代様式が直ちに変ることは例外であるばかりか、聖徳太子の遺業を保守する立場を堅持しているのが特色であるこの飛鳥に立つ法隆寺にあっては、政情の移動が波及するのは特に少なかったにちがいないからして、そのすべての仏教美術も金堂などと同じく藤原京時代的であったとするのが正しかろう。しかし、ここでは法隆寺資財帳に基づいて形式的に奈良時代の先頭におきたい。むしろ奈良時代仏像彫刻を論ずる便法として冒頭にもってきたにすぎないと言い直したほうがよいかもしれない。
五重塔初層の心柱に方形のかこみをして、そのいちばん後方に塑造の山岳をしつらえ、その前面に多くの仏菩薩 や人物の塑像を配列している。この塑像群の主題は南面が弥勒とその従者、東面が維摩と文殊の問答北面が釈迦涅槃、西面が釈迦の遺骨をわかちあう分舎利であって、資財帳と全く合致しているから、少なくともこの塑像は和銅四年(七一一)に完成したと認めるべきである。現在は合せて九十余体しかないけれども、当初はもっとあったことが証明されているし、また現在の配置にも多少の出入があることも指摘できるのであるが、それにしても日本の 仏像史において最古大量の群像であることを注意しなければならぬ。いずれも○・四メートル前後の小像であるけれども、仏・菩薩・天部・羅漢から居士や男女俗人までの各種の尊像と階層の像が混っていることと、羅漢以下の像は聴聞はもとより俗人の喜怒哀楽の日常感情を卒直に示す表情をしていること、さらに一つ一つの像がそれぞれたがいに関連し合った動作や身振りをして群像としてのまとまりを保っているのが特色である。もちろん礼拝されるのが主眼であるけれども、仏伝説話を納得させて信仰を高めようとする説明性の強い主題であるから、観ることによって理解させようとする実感の方向が強い表現である。恐らく薬師寺両塔にあった釈迦八相塑像群もそうであったにちがいないが、縁なき衆生をも救済できる説得表現をするところに、藤原京期仏教の発展を知ることができる。
主題も彫像様式も隋唐の直模であるにちがいないが、大陸像と同じく崇高美を発揮している菩薩像には、隋唐像にはない清純美が含まれており、さまざまな姿態をとる羅漢の中には日本人の特性を示す身振りが入っていたり、唐装の婦人像であるにかかわらず日本女性が表わす含み笑いのような表情がかすかに見える。そこに、意識的無意識的に日本人の感情がこめられる結果になるわけだが、その規模において比較できないほどの格段の相違があるにしても、かの薬師寺薬師三尊像や法隆寺金堂壁画その他の藤原京期の諸尊像と共通した柔軟さが 認められる。

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第二節 寺院の建造

奈良時代の仏教

飛鳥期における聖徳太子の仏教興隆は、先進文化の象徴として移植した傾向が強かったけれども、藤原京期になると、六朝から隋唐にかけて完成された中国の国家仏教が律令国家の建設に必要であったから受容したのであるという解釈ができる。天武天皇期に諸国で金光明経が読誦されたのも、同経が内蔵しているところの護国安民的な教理が共鳴されたからである。さらに進んでは、その仏法と王法とが合一している理解の仕方も可能であったがために、律令政治の遂行にとってこの国家仏教は哲理的にも政策的にも有効であったので、藤原京期における仏教の発展がありえたのである。それを実証しているのが薬師寺薬師三尊像であり、法隆寺金堂壁画であったことをのべてきた。
平城京の建設と共に飛鳥・藤原京の官寺をまっ先に新都に移建して新都壮厳の一翼にしたのも、そのためである。すなわち大官大寺(七四五年、改称大安寺)と藤原家の氏寺厩坂寺(興福寺)が移されたのは、遷都と同時であったし、霊亀二年(七一六)飛鳥寺(元興寺)、養老二年(七一八)に薬師寺、その前後には葛木寺や紀寺も移築されている。それと併行して光明皇后の海龍王寺・法華尼寺・新薬師寺、称徳天皇の西大寺、さらに光仁天皇勅願という秋篠寺、唐僧鑑真の唐招提寺などが陸続と京の内外に新造された。都下の四十八ヶ寺云々という記事が「続日本紀」にあるからして、平城京付近の大体の寺院数として信じてよかろうが、宮殿や民家をはるかに脾眠している堂塔の壮観は、やはり長安城の制に学んでいるのであろう。
しかし建令政治に内在している矛盾は社会の動揺となって現われだし、疫病天災の続出は社会の不安を生んできていたので、律令体制を維持する王法に、より強力に仏法を参加させようとしたのが、奈良朝の天皇、とくに聖武天皇であった。奈良の諸大寺はほとんど官寺になったので、その造営には国家機関である造寺司が担当し、また逆に各寺は天皇と国家のために有益な経義経論の研鑽に没頭したのである。その研究者である衆僧が諸寺を根拠にしてって、いわゆる南都六宗の華厳・法相・三論・律・倶舎・成実の六派を結成して、鎮護国家を目的とする国家仏教の性格を発揮しているのであるが、これを最も雄弁に証明しているのが、聖武天皇による金光明最勝王経への傾到である。この経を読誦修行すると諸尊の加護を得ることを説いている金光明経は、早く藤原京期から信仰されていたが、その金光明経を唐の義浄が異訳したところの金光明最勝王経は、それ以上に加護を得る最勝の法を詳説しているので、前記の法相・三論や天台などはこれを所依としているのであるが、その鎮護国家ぶりを完全な形で実現しているのが、大和国を初め国毎に金光明四天王護国寺を建立する聖武天皇の詔勅である。時に天平十三年(七四一)のことであったが、僧寺と尼寺の両寺に分れていた。これによって仏教と国家との結合は一段と緊密になったわけであるが、その関係の昂まりは東大寺の造営に至って極まったと言ってよかろう。

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第四章 奈良時代

第一節 宮殿美術

都京と宮殿

輝やかしい希望の下に経営された藤原京は、わずか一五年間の王城であったにすぎなくて、元明天皇和銅三年(七一〇)に平城京への遷都が行なわれた。都城とよぶだけの条件を備えていたかどうかは別として、少なくとも宮城なるものは遠飛鳥宮、近飛鳥宮、豊浦宮、岡本宮、小懇田宮、板蓋宮、浄御原宮と移動していることを文献は伝えており、しかもそれら飛鳥期後期の宮城は大極殿を初め多くの宮殿と諸門をもつ大規模な規画でもあったと記されている。しかし遺跡として立証できるのは藤原宮が最初であって、七間に四間の大極殿、その南に一二棟の堂が並列する朝堂院は東西が約二三七、南北が約六一五メートルの広さであって、最古最大であった。さらにこれに続いて南方に朝集殿が建っていたことを示す遺跡がすでに調査されているから、藤原宮城の規模を知ることができる。
和銅三年の新都平城京における宮城には、本門である朱雀門以下の一二門が四面に各三門ずつあって、その城すなわち屏の内が宮城というべき区画であるわけだが、そこには正殿である大極殿を初め朝堂院、朝集殿、内裏、東宮、西宮などの諸宮殿が完備していたと記録は伝えている。考古学的発掘もそれを裏づけている。すなわち宮城の東方にあった朝堂院は東西約一八二、南北約四九〇メートル、宮城は方一キロメートルの面積であったように発表されている。これが今の奈良市佐紀町に遺る平城宮址である。しかしこの平城宮殿を具体的に実感できる遺構は全く無いけれども、唐招提寺の講堂はこの平城宮の朝集殿が施入されたのであるから、現存する講堂によって平城宮 殿の一端を偲ぶことができよう。もっともこの講堂は鎌倉時代に行なわれた大改造によってほとんど原形を失なっていると建築史家は説いている。

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當看著樹木的年輪時,它呈現了我們無法經歷的時間跨度,透過自然科學的分析,些許能解讀出環境和氣候的特定數據,然而關於那難以標示的人與自然的關係呢?從這個想法開始,使耿傑生思考人與植物的相處變化,其中添入了什麼樣的變因,植物又會以何種輪廓生長並紀錄下這片風景?

樹木將一切以非文字書寫的厚度存於莖幹中,化作年輪/木頭進入了不同物質狀態的流轉,反映著各個時代的環境、甚至是人文和政治的變化,展覽指向這些關係如何成為植物身體的圖景。偏心既是樹木應對環境的生長性描述,同時也表示了在歷史和人們選擇下所牽引出的特定結果。如果說時間是對變化的觀察和紀錄,耿傑生以木頭為媒介,將不同狀態的新舊木料和成品拆解重組,重新使其如莖束般生長出厚度和高度,藉由這具有植物感的身軀,帶出多重時空軌跡的持續性運作,嘗試回應此地彼此拉扯,糾纏共構的複雜風景。(文字來源)

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金堂壁画の焼失

この法隆寺金堂は本瓦葺入母屋造りの屋根に裳階が付いている重層建築であって、南北の桁行は五間、東西の梁間は四間、正面にあたる南方の柱間三間と東西北の各柱間一間の合せて四間が扉つきの入口になっているので、残りの広い柱間四間と狭い柱間八間との計一二面は壁でふさがれていて、そこに仏画が描かれていた。東方の入口が常用に使われているので、その東側南寄りの大壁を第一号壁、次の東南隅の小壁を第二号、続いて南側に曲っている南東隅の小壁を第三号というように順次にさらに西から北へ回って、最後に東側に戻ってその東北隅の小壁を第十二号壁と名づけて番号で呼んでいる。したがって、東側の第一号、西の第六号、北の第九号及び第十号の四壁が大壁にあたることになり、この大壁には浄土図が、残りの各小壁八面には一体ずつの菩薩が描かれていた。また内陣の長押の上、すなわち格天井の下の小壁二十面には飛天が、さらにこの内陣をかこむ外陣の格天井の小壁十八面にも山中羅漢図がかいてあった。
この壁面の構造は、内から外に塗り重ねるにしたがって細かい壁土が使われていて、膠着剤で固めた上にさらに白土を刷いて画面に仕上げて、岩絵具で彩絵しているのであるが、とくに第十、十一、十二号の三壁は損傷がひどくなってきていたので、大正七年(一九一八)から保存方法が試みられたが中絶してしまった。昭和十四年になって壁画保存調査会が設置されて、壁画の現状原寸模写が開始されたが、これも未完成に終った。かねてから作られていた法隆寺国宝保存事業部によって金堂の解体修理が着手されだしたので、再び模写作業の継続が開始されたのであるが、昭和二十四年一月二十六日の朝、金堂内部から発火した。火煙と消化水のために壁面は灰褐色に焼焦げ、画図もまたすっかり変色損失してしまったので、金堂壁画はここに消滅したのだと言ってもよかろう。
しかし、未完成ながらも模写が残っていることと、参考のために撮影しておいた原寸写真と原色写真とがあるがために、往時の姿を類推する資料としては十分に役立つのである。しかも、上にのべた長押上にあった飛天像二十面は取りはずしてあったがために無傷で残ったのである。

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乾漆像と塑像の誕生

これを援護しているかのように都合のよい新説が東塔の建築技法について行なわれている。簡潔な水煙と軽快な塔姿とによって、本尊の薬師三尊像以上に知られている薬師寺東塔は、「扶桑略記」の記事(三月廿九日条)によって天平二年(七三〇)新造説が有力であるけれども、最近の解体修理のおりに使用材料を分類したら、旧材と新材とが混合していることが確認できたそうであるから、基本的には本薬師寺の塔であろうとみる説(幅)が提出されている。これを参考として、薬師三尊像の移座説もかんたんに退ぞけることができない。
なお、中尊が坐っている長方形台座の四方の胴面には、唐草文様や四神図や寸人である侏儒像などが浮彫りされている。四神図は六〇〇年前後と推定されている江西遇賢里の古墳壁画に典型的作例があるから、早くから朝鮮で消化されていたし、柱を支えたり侏儒楽を奏する寸人像もその頃の中国仏像に付随した像としてインドから伝来しているけれども、日本における遺作は少ないから、三尊像に較べて異国的な印象を与えるけれども、こういう配合がかえって当時にあっては新鮮に感受されたのであろう。想像を加えるならば、侏儒と四神の怪奇性と同じように、この三尊像にも圧倒的威圧を感じていたのかもしれない。
さて、この薬師三尊像の両脇侍を直立させて独尊像として整備したのが東院堂にある聖観音像である。別鋳の金銅製台座に真正面向きに立っている像身、また腰から下を覆っている裳の襞とそれにかかる天衣などは、まさし左右相称である。その点では前時代的であるけれども、すでに深大寺釈迦像に見られるように両脚にからみつくように表わされている裳や薬師三尊像以上に厚味をもった立体的彫成などから考えると、この左右相称は威容の形式を整えるための新らしい立場で行なわれているように思われる。旧新何れの説をとるにしても、薬師三尊像に近いころの制作であるとされているが、多少の技法や様式の差でもって年代の上下を単純に判別し難いのがこの時代の特質であるから、三尊像とほぼ同じころと仮定しておくのが穏当であろう。
藤原京時代の天皇以下の指導者は、藤原京を新時代の象徴として建設しようとする積極性にもえていた。その意欲は仏教信仰にもそのまま反映して、壮大な堂塔と仏像と壮厳に満ちた寺院を顕造することが帝王と国家の繁栄であるという仏教世界観になった。すでに北魏時代に始まって隋唐において爛熟した国家仏教として結実したのであるから、隋唐仏像の形式と様式なるものは、崇高な肉体に慈悲の精神を宿している理想的人間像として地上に再現されるようになったのである。藤原京時代の指導者たちは、隋唐における国家と仏教、帝王と僧団、都城と仏寺、堂塔と壮厳などの諸法式を学んで、藤原京に諸寺を造営する功徳によって律令国家の完成を期待したのである。遺存する仏像彫刻を例にして言えば、山田寺薬師像に始まって薬師寺薬師三尊像に終る系列が、このような理念の権化であったと言えよう。

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第二節 薬師寺

唐朝の仏教美術

飛鳥時代の末、舒明天皇十一年に造営が開始された百済大寺は天武天皇五年に大官大寺と改称されて、官の大寺たるにふさわしい国家的威容を誇る壮大な寺構になっていたし、法興寺も法隆寺も堂塔伽藍が競い立っていた。毎年のように来日する朝鮮三国僧や帰国の日僧などは、これらの諸寺に分住して仏法の講究に従ったのであるが、さらに重要なことは飛鳥時代に派遣された遣隋使や遣唐使の相ついでの帰朝であったろう。舒明天皇五年(六三三)に学問僧霊雲と僧旻が、同十一年には恵隠と恵雲、同十二年に僧請安と高向玄理が帰ってきたのを初めとして、道昭が斉明天皇六年(六六〇)にもどって法興寺に禅院を建て、次いで智通と智達も業を終えて、智達はやはり法興寺に住んだ。この三人は長安の大慈恩寺で玄奘と窺基(慈恩大師)から授った法相宗を伝えているし、唐の使節も唐朝仏教を請来してきたであろうことは、朱鳥六年(六九二)にきた郭務院が阿弥陀像を献上していることで察せられよう。
このように百済大寺などを拠点として、百済仏教的なる飛鳥仏教よりもはるかに新鮮な唐朝仏教の消化が始まったのが藤原京時代の特色である。さきにのべたように朝鮮三国との頻繁な往来があったことは事実であるが、この時代における百済は国力がしだいに衰退してゆく反面において、早く任那を併合した新羅が強大になり、終に唐と連合して六六三年に百済を、そして六六八年には高句麗の平壌を抜いて六七八年に半島を統一してしまった。日本の天武天皇六年のことである。しかしこの新羅の北境は大同江で唐帝国と接しており、また百済文化はしだいに縮小されていったからして、唐朝の文化と仏教が新羅統一国に浸透してゆくのを免かれなかった。したがって直接的にも間接的にも藤原京時代の大陸仏教は唐朝的な要素が増大してくるのが自然の勢いであった。
その影響を敏感に反映しているのが藤原京時代の仏教美術である。制作年代がはっきりしている作品だけを基準にして言えば、天智天皇五年(六六六)の野中寺弥勒菩薩像、天武天皇十三年(六八五)に開眼された山田寺(浄土寺)の仏頭、持統天皇朱鳥七年(六九三)に寄進された法隆寺天蓋二基に付いている楽天像と鳳凰像、文武天皇二年(六九八)の長谷寺の千仏多宝塔図鋼板(法華説相)があげられる。

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