(4)縠。巻二〇では「洪禄反、戦国策云、憂国憂民不如愛尺之縠也、説文、細縛也、従糸、殻聲」、巻三六では「洪屋反、音英云、羅縠也、絹之疎者也」、巻三九では「紅屋反、釈名云、穀紗穀也、説文、細縛也、従糸、穀省聲、縛音直轉反」、巻四五では「胡木反、似羅而疎、似紗而密者也、有幪縠霧縠、言細如霧也」、巻四八では「胡木反、似羅而疏、似紗而密、古有幪縠霧縠、言細如霧也」、巻八八では「紅縠反、釈名云、縠紗也、 説文羅属也、従糸、殻聲」とされている。「説文」を引き、巻二〇では細縛とし、巻八八では羅の属としている。また「釈名」を引き、巻三九では紗穀とし、巻八八では紗としている。羅や紗に類するものというのは従来の説と同じであるが、巻四四.四八で穀は羅に似ているが、羅より疎であり、また紗に似ているが、紗よりは密なるものという定義を行っている。ただし「一切経音義」引く「釈名」は前にのべた「釈名」の現存本とはかなり相違する。「倭名類聚抄」も「釈名云、縠、其形縬々、視之如粟也」とし、これは現存本に近い。この説だと皺文のあるうすぎぬということになるが、「一切経音義」ではそのことを全くのべていない。ただ密度の精粗が羅・穀・紗を区別する規準となっているのである。
(5)羅。巻五一では「鳥網日羅、羅截也」とされる。これは「説文」と同様、鳥網説である。ただし唐代、羅は鳥網だけでなく、絹織物にも用いられたことは「大唐六典」巻二二織染署の條に見える通りである。「倭名類聚抄」は 「唐韵云羅、綺羅亦網羅也」としている。ここに見える「唐韵」は「孫愐唐韵」のことである。これによると、羅は網と綺と両者に用いられるとしている。羅が綺というのは、宋代の「廣韻」にも見える。しかしこの説は疑わしく、羅はやはり唐以前と同じように網状のうすぎぬのことであろう。唐代、羅に多くの種類があらわれたようである。「新唐書」地理志の土貢からそれをあげると次の通りである。
春羅 瓜子羅 孔雀羅 衫羅 叚羅 衫閔羅 宝花羅 花紋羅 単絲羅
瓜子羅、孔雀羅、宝花羅、花紋羅はいずれも紋様のある羅である。「白氏六帖事類集」巻二羅第七三にも「雲羅、鳳文、蟬翼、(並羅名)」とある。これらも紋様のある羅のようである。
(6)練。巻二三では「珠叢曰、鎔金使精曰錬、煮絲令熟曰練也」とされている。これは唐以前と同様、ねりぎぬのことである。「倭名類聚抄」も「蔣魴切韻云、練、熟絹也」としている。
(7)縑。巻三六では「音兼、絹也」、巻九三では「頰嫌反、廣雅、緝(繰)謂〔之〕、説文、縑、〔并〕絲繒也、従糸、兼聲」とされている。巻三六と巻九三の説では大いに相違する。一方では縑を絹とし、他方ではふたこぎぬとする。一般的には後者の意味で用いるが、前者の意味で用いる例は他にも見られるところである。任大椿も引いているように「漢書」巻九七上外戚傳上に「作縑単衣」とあり、顔師古の注では「今之絹」とされ、宋代の「韻」でも「縑絹也、絹縑也」としている。顔師古(五八四─六四八)は唐の太宗のときの人で、この頃、縑は絹と同一に解されたというのである。おそらく唐から宋にかけて縑は絹と同一に使用されたこともあったと思われる。ただし任大椿はと絹とに区別があったことを詳論している。
(8)縞。巻三六では「高考反、韻詮、縞白也、小爾雅云、絹之精者曰縞也」とされる。引用の「韻詮」は唐の武元之の著、「小爾雅」は漢の孔鮒の著である。これは任大椿ものべているように唐代以前から網の精なるものを縞といい、またその色は白であった。色については、任大椿は「漢書」食貨志顔師古註「縞皓素也」、「後漢書」順帝紀章懐太子註「繒之精者日縞」などをあげている。
(9)綃。巻三六では「音消、鄭注礼記云、綃繒古今名也、毛詩傳、綃、謙也、又云、綺属也」とされている。これによると、綃は繒、縑、綺の属に用いられている。任大椿は「廣雅」を引き、「絆謂之絹」とも言っている。綃には各種の用い方があったことがわかる。
(10)綾。卷六六では「力舛反、埤蒼云、綾似綺而細也、説文云、東齊謂布帛之細者曰綾也、従糸、夌声、夌音同上」とされる。「埤蒼」を引いて綾は箱に似ているが、より細かいものとされている。「埤蒼」は三國魏の張揖の作である。この規定は玉篇でも同一で、「倭名類聚抄」は「野王案、綾似綺而細者也」としている。綺と同様に紋様のある絹織物であるが、よりは細かくかつ薄いものを指したようである。この綾は任大椿も指摘の通り唐代とりわけ貴ばれたようで、その種類も多い。今、「新唐書」地理志により土貢の綾をあげると次の通りである。
文綾 方紋綾 仙文綾 雲花綾 亀甲綾 雙距綾 溪鷘綾。鏡花綾 雙絲綾 独窠綾 両窠綾 四窠綾 二包綾 熟線綾 合羅綾 緋綾 白編綾 蓮綾 白綾 小紋綾 魚口綾 繡葉綾 花紋綾 十様綾 呉綾 交梭綾 紅綾 樗蒲綾
この他の綾をあげると次のようなものがある。
独窠呉綾 独窠司馬綾(「冊府元亀」巻五〇四邦計部総帛の條引く代宗大曆中の詔)
繚綾(白居易「新楽府」)
盤絛繚綾(「唐書」巻一八〇李徳裕傳)
竹根綾 柹帯綾 馬眼綾 蛇皮綾(「白氏六帖事類集」巻二 綾第七五)
これらの綾は具体的にどういうものか明らかでないのが多いが、呉綾、繚綾(越地方産)が産出の地方名であるのを除き、色や紋様により命名されたもののようである。独窠というのは紋様の裂幅の方向における繰返がない場合、つまり幅一杯の紋様のこと、兩窠は二遊びのもの、四窠は四竝びのものであろう。
(11)紋。卷八七では「分反、考聲云、呉越謂小綾為紋」とされる。とすると、これは小綾、つまり綾の一種であるが、呉越地方でとくにそれを紋と呼んだというのである。「考聲」は唐張の撰であるとされているから、小綾を呉越地方で紋と呼んだのは唐代であろう。
(12)紈。八七では「換巒反、許叔重云、紈、素也、説文従糸、丸聲」とされている。これは唐以前の解釈にしたがったものである。任大椿は執と素とは素潔なる点似ているが、紈は熟絲の繒で、素は生帛という区別があったのではないかとしている。
(13)綈。巻八七では「弟奚反、説文云、綈、厚繒也、従糸、弟聲也」とされている。綈を厚繒とするのも唐代以前の解釈と同じである。
以上は「一切経音義」に見える絹織物の種類であるが、遼の希麟「續一切経音義」は「一切経音義」に見えない織物をあげ、唐代もしくはそれ以前の文献によっているものがある。それを次に見てみよう。
(14)紗。巻五では「所加反、切韻、絹属也、考聲、似絹而軽者也」とされている。「切韻」や「考聲」によっていいるから、隋唐時代の說と言えよう。「倭名類聚抄」も、「四聲字苑云、紗似絹太輕薄也」としている。これらの解釈は隋唐時代と同じで、紗はうすぎぬの一種である。なお唐代、紗にいくつかの種類があり、「新唐書」地理志の土貢に次のようなものがあげられている。
隔紗 平紗 花紗 巾紗
(15)絹。卷五では「古椽反、切韻、縑也、廣雅曰、繁悤鮮支縠、絹也」とされている。「廣雅」の説についてはすでにふれた。「切韻」は縑と同一視しているが、これについても縑のところでふれた。ところでこの「切韻」は陸法言のものとは思われない。というのは、「倭名類聚抄」で「陸詞切韻云、絹、繒帛也」としており、ここに見える「陸詞切韻」が陸法言の切韻であると思われる。この「陸詞切韻」によると、絹は繒帛であるというのであるから、絹織物の総称ということになる。「新唐書」地理志には土貢として次のような絹が見える。
吳絹 小絹 大絹 白絹
吳絹は呉の地方産の絹、白絹は無地の絹であろう。小絹や大絹については流通のことろでふれたが、小絹は小巾の絹、大絹は大巾の絹ということのようである。これらの絹は単に絹織物の総称として用いたのではない。いわゆる平絹のことである。
以上は「一切經音義」共に「續一切經音義」に見える絹織物の種類であるが、それらに洩れている主な種類を他の文献にようって見てみよう。
(16)絁。「倭名類聚抄」は「唐韻云、絁、繒似布也。」としている。ここに見える「唐韻」は「孫愐唐韻」を指すと思われる。宋代の「廣韻」も「繒似布」としている。ただしこの字があらわれるのは割と新しく、「說文」や「玉篇」では糸璽につくられている。「玉篇」だは経緯の粗細同じからざるものとされているが、絁も実体はこれと同じで、任大椿はその絲、大にして粗である点、布と同じであるとしている。「大唐六典」では絹の次にあげられ、かなり廣く生産されていたものであろう。「新唐書」卷二四車服志では流外官.庶人.部曲.奴婢が紬.絹.絁.布を服することになっている。
(17)紬。これはすでに「說文」のときからあらわれ、「說文」は「大絲繒」としていることは前にのべた。「玉篇」も同様の解釈である。また「急就篇」顏師古註も「抽引麤繭緒、紡而織之、曰紬」としており、粗いまゆの糸を紡い織でったものと解している。おそらく唐代も「說文」に見える説と同様に紬を理解していたと思われる。ただ「大唐六典」卷二二織染署の條は紬を「織絍之作」ではなく、「紬線之作」に入れている。「紬線之作」は次の四つとなっている。
一曰紬、二曰線、三曰弦、四曰綱、
これについて任大椿は次のように言う。
考急就偏註、紡而織之曰紬、又考急就篇、纍繘繩索絞紡纑、註謂紡切麻絲之屬為纑縷也、紬先紡而後織、則是先為縷、而後織、質近于線、故唐制紬與線同作、今時有線紬、或其遺制與、
この説明で先に紡いで後に織ると、質が線に近いから、唐制では紬と線と作を同じくしたというのはよく理解できない。これはおそらく紡いでつくった糸が大糸なので線と同じ範疇に入れられたということだはないかと思われる。なお「新唐書」地理志は土貢として次の紬をあげている。
平紬は平織の紬、花紬は紋様のある紬である。綿紬は明らかでないが、或は綿からつくった紬ということであろうか。
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佐藤武敏,《中国古代絹織物史研究》,東京:風間書房,1978第一節 文献に見える絹織物唐代の織物の種類については原田淑人氏が「唐代の服飾」で言及されている。氏が主としてられたのは「大唐六典」巻二二織染署の條で、それに次のように見える。
一曰布、二曰絹、三曰絁、四曰紗、五曰綾、六曰羅、七曰錦、八曰綺、九曰繝、十曰褐、
これは織物の種類で、一の布は麻織物、二の褐は毛織物であるから、残り八種が絹織物である。また同書同條に次のように見える。
一曰青、二曰絳、三曰黄、四曰白、五曰皂、六曰紫、
これは染色の種類で、全部で六種あるとされている。
原田氏はこれらについて簡単な説明を加えている。しかし以上の織物並に染色の種類は織染署で製作した織物に関するものであって、隋唐時代に織染署だけでなく、民間で製作された織物となると、さらに増加する。そこで「大唐六典」以外の史料によってこのことを明らかにしてみたい。隋唐の絹織物の種類をまとまった形でつたえているのは字書・類書であろう。隋唐時代、多くの字書類が編纂されたが、今日完本のつたわるものは少ない。各体字書に分類されるものとして、隋代のは曹憲「文字指歸」、諸葛穎「桂苑珠叢」、顔愍楚「俗書証誤」、庾儼黙「演説文」、闕名「字書」、闕名「字体」、闕名「異字苑」、闕名「字類」、闕名「字諟」、闕名「古今字音」、闕名「証俗文」、闕名「異字音」などがあり、唐代のは顔師古「字様」、顔元孫「干禄字書」、陸善経「新字林」、闕名「分毫字様」などがあった が、そのほとんどが散佚し、清代に入って一部復原されたものがある。また音韻に分類されるものとして、隋代のは陸法言「切韻」、闕名「聲譜」、唐代のは郭知玄「郭知玄切韻」、陳廷堅「韻英」、武元之「韻詮」、麻果「麻果切韻」、王仁喣「王仁煦切韻」、孫愐「孫愐切韻」、「孫愐唐韻」、祝尚邱「祝尚邱切韻」、釈神珙「四聲五音九弄反紐図」、顔真卿「韻海鏡源」、李舟「切韻」、李審言「李審言切韻」、裴務齊「裴務齊切韻」、蔣魴「蔣魴切韻」、闕名「開元文字音義」、闕名「釈氏切韻」、闕名「切韻」などがあるが、いずれも今日散佚し、清代に一部復原されたものがつたわっている。ただ敦煌から三種の切韻の残篇が発見され、パリ国立図書館に藏されている。王國維によると一つは陸法言の原本、他の二つは長孫訥言箋注本であるとされるが、また大谷探検隊の「西城考古図」にも唐寫韻書の断片があり、王國維は長孫訥言箋注本であるという。いずれにも織物関係の部分は残っていない。しかし後にのべるように日本古代の字書に「孫愐切韻」や「蔣魴切韻」がつたわっており、それらには織物に関する部分もある。類書としては唐代では歐陽詢「藝文類聚」、徐堅「初学記」などがあるが、これらの織物に関する部分はそれ程多くないし、またその説明もそれ以前の書物に據っている部分が多く、果して唐代のものとしてよいかどうか疑問がある。
ところで唐代の織物については以上のような書物とは若干性質を異にするが、目録学では通常、子部釈家類に属するものとして、釈慧琳の「一切経音義」にかなりまとまった記載がある。この書は中国では五代のとき散佚したが、高麗が契丹につたわっていたものを遼の希麟の「續一切経音義」とともに海印寺で刊行した。いわゆる高麗海印寺刻本である。「一切経音義」には顧齊之の開成五年(八四O)に書かれた序があり、著者慧琳やこの書のことについて簡単紹介がなされているが、民国の丁福保「重刊正續一切経音義序」は一層詳しい説明をしている。それによると、慧琳は姓は裴氏で、元来疏勒国の人である。唐の大興善寺の僧となり、はじめて不空三藏を師とし、室灑となった。内は密藏を持し、外は儒流、印度の聲明、中國の話訓を究め、精究せざるはなかった。ついに群経を博覧し、「韻英」「考聲」「切韻」を引いてその音を釈し、「説文」「字林」「玉篇」「字統」「古今正字」「文字典説」「開元文字音義」を引いてその義を釈した。また以上の一〇書に備わらない場合は諸経、雑史、百家の学説を探討し、佛意を参合し、是非を詳察し、兼ねて唐釈玄應「一切経音義」、唐慧苑「新華厳経音義」、唐雲公「涅槃経音義」など各家の音義を採り、「一切経音義」一〇〇巻を撰成した。全部で六〇万言。その釈するところの経論は「開元釈教録」により、「大般若経」に始まり、「護命放生法」に終っている。全部で五、〇〇〇余巻。建中末年に着手、元和二年(八〇七)に脱稿した。二十五年ほどかかったことになる。原稿は西明寺に藏されていた。慧琳は元和十二年二月三十日、八十四歳で亡くなった、と。この書は以上のように佛経の経論の意義を釈したもので、その順序も「大般若経」に始まり、「護命放生法」に終るというように経論毎になされているのである。したがって絹織物に関する字も網羅しているものでなく、経論に見えるものに限られており、また経論が相違すると同一の字が重複してあらわれる場合も多い。しかしこの書物が唐代現存の字書としては最もまとまっているので、この書物を中心にして、さらに唐代の諸文献、日本古代の字書などで補足してみたい。日本古代の字書は「秘府略」、「新撰字鏡」、「倭名類聚抄」、「類聚名義抄」などがある。「秘府略」は平安初期、滋野貞主が撰したものであるが、一、〇〇〇巻の中、現存はわずかに二巻だけである。「新撰字鏡」は僧昌ので、一二巻。漢字を扁旁によって類聚し、その音訓・解釈を施したもので、寛平四年(八九二)の夏、草案を終え、その後、修補を行っている。織物はとくに巻四糸部のところに見えるし、また巻一二機調度及織縫染事が見えている。「倭名類聚抄」は単に「和名抄」、「倭名抄」などとも略称される。源順の著で、漢語を二四部、一二八門に類聚し、音・意義を漢文で注し、さらに万葉假名で和訓を加えている。承平年(九三一─九三八)中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進されたもので、一〇巻本・二〇巻本があるが、後者は前者を増補したものとされる。この書の注釈書として「箋注倭名類聚抄」一〇巻があり、狩谷被齊により文政十年(一八二七)に完成されたもので ある。織物はこの書の布帛部第九に見えている。「類聚名義抄」は著者不明で、平安末期の成立とされている。全巻を仏・宝・僧に分け、偏・旁によって漢字を一二〇字に類別し、多く片假名で字音・和訓を示している。
さて以下に「一切経音義」の巻数(初見)の順にしたがって絹織物の名称とその説明をかかげ、必要があれば他の文献を引くことにする。
(1)綺。巻一では「欺紀反、范子計然云、出齊郡、案用二色彩絲、織成文華、次於錦、厚於綾、説文云、有文繒也、従糸、奇声也」、巻四では「欺紀反、范子計然云、綺出齊郡、今出呉越」および「音墟倚反、以二色綵絲、織為文花、出呉越、次於錦也」、巻二では「張載注靈光殿賦、綺文也」、「帛有邪文日也、釈名曰綺崎也、其文崎邪不順経緯之縦横也」、巻三一では「欺倚反、説文云、綺有文繒也、従糸、奇声」、巻八五では「崎崎反、説文有文繒也」とされている。以上によると、綺の定義はいろいろである。第一は「説文」により有文の緡とすること、第二は「名」により帛に邪文(経緯の縦横にしたがわないもの)あるとすること、第三に二色の色糸で紋様を織ったもので錦の次であるが、綾より厚いものとすること、である。第一・二の定義は唐以前の説にしたがったものであろう。第三の定義は唐以前の文献に見えないものであり、これは唐代そのような理解の仕方が一部で行われたと考えざるを得ない。また「范子計然」を引き、綺は齊郡から産出されたが、「今出呉越」とされている。「今」は慧琳の時代であろう。呉越地方から産出された二色の色糸で紋様を織った絹織物を慧琳の時代に綺と呼んでいたことがわかる。唐代、綺の用法は必ずしも一義でなかったと言える。
なお、「倭名類聚抄」では「蔣魴切韻」を引き、「綺似錦而薄者也」としている。
(2)縵。巻一一では「莫半反、正従巾、作縵、帷也、経文従糸、覚音、作縵、乃無文繒也、非帷縵之字也」、巻三二では「満半反、謂以七寶修装縵覆幢上、古今正字、繒無文也、従糸、曼聲也、曼音万也」、巻三九では「満半反、説文云、繒無文也、従糸、曼聲也」、巻六四では「満伴反、左傳云、降服乗縵、杜注云、車蓋無文也、説文云、繒無文也、従衣、曼聲」とされている。巻三九六四で「説文」の「繒無文也」とする説を引いているように従来の用い方と相違ないようである。
(3)繒。巻二〇では「牆蠅反、説文云、繒帛之総名也、従糸、曽声」、巻二三では「疾綾反、......説文曰、繒、帛也」、巻二七では「疾陵反、......説文切韻、縉、帛也、......小爾雅、織繒也、通五色、皆曰繒」、巻三六では「疾陵反、 説文、帛之総名也、従糸、曽声」、巻三七では「疾蠅反、考声云、帛之総名也」、巻四二では「情蠅反、説文、帛之軽者惣名也、古文従辛作絆、音訓與上同」とされる。「説文」にしたがって帛或は帛の総名としている。ただ巻四二で同じく「説文」によりながら帛の軽いものの総名としているのは「説文」の説には忠質ではない。他の史料によればこれとは逆に繒は厚帛だという説もある。この説に対して任大椿は次のように言う。
案演繁露曰、繒厚帛也、蔡邕女誡曰、繒貴厚而色尚深、為其堅靱也、此即厚帛乃始名繒、其著色深也、今考字林及匈奴傳急就篇諸註、皆云、繒為帛之総名、帛厚薄不一、則繒不得独為厚帛矣、女誡云、繒貴厚、乃謂繒非一類、以厚者為貴耳、非謂繒専為厚帛也、
繒を厚帛だけとする説に任大椿は反対している。繒を帛の軽いものとする「一切經音義」巻四二の説については任大椿は何らふれていないが、おそらくこれも誤まりであろう。また巻二七引用の「小爾雅」の説は五色の織物を皆、繒というとしているが、これも誤まりであろう。
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6. 唐草文様ギリシアの唐草文様は、初期の形式と後期の形式にわけられる。古代エジプトの側面形ロータス文様は形式化して、いわゆるパルメット文様といわれる。花弁と夢とをそなえた側面形である。ギリシア初期唐草文は、パルメットおよびパルメットを折半した(いわゆる半パルメット)モチーフを使用する。このモチーフは、日本で忍冬文とよんでいるものだが、べつにもとづく忍冬なる植物があるわけではない。古代エジプト以来、伝習されるうちに、一定の簡素で単純な形になっていったのである。簡素、単純であるから、ひろくギリシア美術の流れとともに容易に各地に伝播した。東方に渡来して、ガンダーラ美術、ササン朝ペルシア美術に用いられ、中央アジアの仏教美術をいろどり、ついに中国の五、六世紀、仏教美術において大いに流行した。もちろん、時代色、地方色が混入したことはいうまでもない。もうひとつのギリシア唐草文は、アカンサスというギリシア固有の野草の茂った葉を文様化したものである。これはギリシア人独特のナチュラリスムによって、いかにも植物らしいみずみずしさがそのまま文様に生かされている。アカンサス唐草文は、ローマ美術はもちろんのこと、西洋の近世美術に大いに流行し、ますます華麗に図案化されてゆく。
みずみずしい植物文様が創造されるためには、ナチュラリスムという造形精神が基盤となることと同時に、植物が繁茂し、それが愛好される風土と文化が必要である。乾燥地帯ではだめである。その意味で、中部インドの文化圏は、植物文様を発達させる最適の地盤ということができよう。では、インドの唐草文様はどうであったろうか。これを概観しよう。
まえにあげた前二世紀中葉のバルハット仏教遺跡における石製欄楯の笠石には、唐草波状線があらわされている。しかし、この唐草線はギリシア系の文様とはまったくおもむきを異にしている。波状線の山と谷の中間には、物語図が浮彫されている。波状線は、物語図の場面と場面とを区切る枠の役をしている。しかし、注意してみると、波状線はあきらかに植物の茎であって、名の知れぬ草の実が茎のさきについている。そのみずみずしさは、ギリシアのアカンサス文様をはるかにしのぐものがある。
インドでは、石彫以外の古代遺物がすくないので、植物文様の発展史をとらえるデータが足りないが、五世紀前後に隆盛をきわめたグプタ時代美術には装飾文様も高度の発達を示している。石造仏教彫刻では、仏像の光背の華麗な装飾、円形天蓋の装飾、寺院門口の浮彫装飾にみられし、また壁画では、有名なアジャンタ石窟に美しい装飾が色彩あざやかにあらわされている。グプタ時代の装飾文様は、唐草ふうな波状線のリズムが主要といってよい。
しかし、ギリシア式の整理された文様とはまったく異なり、波状線をおしつぶすほど、豊麗な植物文様が充満しているのである。たとえば、サルナート出土の有名な転法輪仏坐像の彫刻である。この彫像は、現存するグブタ彫刻の最高傑作で、五世紀後半の作といわれる。仏像の清楚端麗な表現に対照的なのは、円光背の豊麗な装飾である。波状の唐草線はその主茎の途中に萼がつき、そこから花がつく。これは、ギリシア系の唐草文様とまったく相異する手法である。さらに、波状線の山と谷の空間には、ローゼットや側面形蓮華や渦巻状の葉形が充満している。これらのモチーフは生きいきとした形をもつが、波状主軸とどうむすびつくのかわからないほどで、ちょうど池の水面に浮かんだ水草のごとく、相互にせり合っている。そのせり合いが、動いているような雰囲気をかもすので、波状唐草線の印象がうすれるのである。
アジャンタ第二窟の天井には、大きな円形の枠をもった天蓋様の豪華な 装飾壁画がある。これは七世紀前半ごろとされている。色彩があざやかでて、そこにえがかれた装飾文様はすばらしい。中心は大蓮華、そのつぎの帯は花文様である。この花文様は、波状線をあらわさない。むしろ構図法は、大輪の花と葉や茎をもった切り花を上下縦列にならべる方法をとり、波状線もS字線ももちいていない。しかも、花は写生ふうにあらわされている。文様にはちがいないが、生きいきとした多彩なナチュラリスムこの発揮である。
要するに、インドのグプタ時代は、インドの豊富で色彩あざやかな草花を採用して、外国の影響をまったくうけない独自のナチュラリスムを装飾 の世界にもり上げたのである。こういう装飾文様は、近代のヨーロッパの美術界をのぞいては、世界に類例がない。裏返していえば、装飾デザイン本来もとづくところの幾何学的、合理的配列の工夫にまったく目をむけないのである。むしろ描写美術が、図案を包み込んでしまうといってよいだろう。
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4. 中国の動物文様中国の動物文様は、きわめて特殊の様相と発展をしめしている。まず、前一四〇〇~一一〇〇年ごろに推定される殷代の青銅器の饗餮文、霊獣文(竜文)、霊鳥文(夔鳳文)が注目される。饕餮文は獣面文であって、すでに写実的な獣頭からはなれて、人工的なマスクになっている。そのマスクも、多くは舌や下顎をもたない。角、耳、目、鼻、上顎の表現が写実性をすてている。殷代の甲骨文字や、金文にある象形文字的な省略法が、文様にはたらいている。鼻梁を軸にしてシンメトリーの原理をまもり、顔 の各部がそれぞれに特殊な曲線を発揮する。そして、文様の空間には、すきまなく、雷文または渦文を陰刻する。こういう特殊な獣面文は、祭祀のための銅器にほどこされて、呪術的象徵図形という意義がつよい。殷がほろんで周の時代となっても、祭祀が国政の重要事項であったために、獣面文は象徴的図形としてながく使用される。
もちろん、西周から春秋、戦国、さらに漢代におよべば、獣面文の原義もかわってくるし、スタイルも変化した。しかし、器形における主導的文様の王座をしっかりと確保していたのである。
殷代銅器は、立体的なゾウやフクロウをみごとに造形していた。写実の目は別にあったのである。しかし銅器文様の霊獣文、霊鳥文は、ケモノやトリの側面観ではあるが、外形を徹底的にけずり去り、異様な曲線の集合 物に化している。写実は完全にかくされているが、そうかといって、西アジア先史時代土器の彩文のごとく、ヒツジの角を円形にし、ウシの身体を二つの三角形にするといった幾何学文様化でもない。側面形の頭も胴体も、異様な曲線である。基本的には、C字形やS字形ではあるが、先端はつねに牙やくちばしのように尖っている。なめらかな合理的な曲線にたえず抵抗している。多少、曲線的であっても、ヘビやトカゲやワニを連想させる鱗をほどこしていて、不気味さをあたえる。インドの親密感にあふれた動物図様とは、正反対な、陰気なうす気味わるい動物 文様である。動物というよりは、霊界の存在、すなわち竜である殷周の文様は、抽象的な冷厳さがあり、その冷厳さはむしろ幾何学的な性質にちかいといえる。そして、幾何学的な文様構成法、たとえば、左右相称(シンメトリー)が発達するのは、理由があることである。霊獣文、霊鳥文にしても、左右相称的に対置して饗文ふうに構図することが多い。さらに文様化がすすむと、菱形構成にはめこむ。菱形を上下に数個ならべ、また、左右に連結して、ひろい地文様ができる。上下左右にならべた菱形は、ジグザグ文の組み合わせでもある。こうなると、幾何学文様の発達と饗餮文の発達とがむすびつき、相互に影響しあったという解釈もできる。また、霊獣文、霊鳥文の側面形がしめす横S字形は、帯状に並列して、一種のリズムをうむ。それを相互にからませると、絡縄文のような効果を生ずる。波状線のリズムも、生まれる素地があるのである。
このようにして、殷周時代の文様は、独自の動物文と、前述した幾何学文様との結合、構成によって、複雑多様な文様の世界を生みだした。その抽象的傾向は、本来、多様な単位モチーフが組み合った混成物に、豊富な幾何学文様に即した空想力が作用した結果である。原始的呪術の殿代から形式的礼法の周代へ発展した中国古代の文化の一断面が、文様界にもあきらかにみとめられよう。
中国では、前三世紀ごろから、この抽象的傾向がくずれかけて、ナチュラリスムの傾向を前面におしだしてくる。写実的なトラ、ウシ、ウマ、シカ、トリ、カメ、ヘビなどが文様となる。竜さえも、まことらしい外貌をそなえて描写されだす。素朴ながら、樹木や山岳も文様となる。漢代の画像塼のスタンプ文様や銅鏡の文様は、多くの例をあたえてくれる。このナチュラリスムは、もちろん、発達の頂点にある唐代のそれにはおよばない。まだ怪奇な古代文様の影はつよくのこっており、一方、幾何学文様の用法も多い。文様にさまざまな具体的事象を生きいきとした姿でつくりあげようとする潮流は、殊に唐代ではさかんになった。
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二、歴史時代の幾何学文様1.ギリシア ギリシアの古代美術には、前一〇〇〇〜七〇〇年に幾何学的様式期があった。それに先行した、クレタ島を中心とするミノア文化およびミケーネ文化において盛行したナチュラリスムが衰退し変化して、幾何学的デザインの流行となった。もっとも顕著なのは彩文土器であって、主たる文様はジグザグ文、三角形文、チェッカー文、網状文、いろいろの円形文、半円文、波状文、ローゼット(円形花)文、車輪形文、卍字文などがある。のちには、メアンデル文(渦文)が主導的な役割となる。この時期のはじまり(前十一世紀)には、まだミケーネ様式が残存し、幾何学様式前期(前十世紀)をへて、盛期(前九、八世紀)になると、動物像や人像がくわわって混然たる幾何学様式(すなわちゲオメトリスム)が成熟する。土器の出土地は、アッティカを中心として、コリントス、ボイオティア、アルゴス、クレタ、多島海の諸島、キプロス、サモス、ロードス、イタリアなどである。
彩色法は、土器表面に光沢性褐色釉でえがき、装飾文のない素地は、暗褐色釉をハケでぬる。しばしば画像に白色顔料の輪郭線をくわえる。画像は、単一モチーフのくりかえしもあり、複合的構図もある。後者には、神話的題材が推測されるものもある。もっともいちじるしい作品は大形壺であり、一メートル二〇センチをこえるものがある。この大形壺は、墳墓上の記念物として安置される。装飾デザイン中には、層序のうちに、プロテシス(死者を横たえた形)の主題がしばしばもちいられる。棺台の周辺に人物列立像が配され、下の段には、葬列の戦車がならべられる。すべての画像は、幾何学文様ふうに簡便化され、統一されている。また、船の難破をあらわした図もあるが、地中海に活躍したギリシア人の情景の一コマであろう。
前八世紀末からは、ギリシアの幾何学的様式は弱まる。地中海世界全体に変化のおこる時期で、東西の交流がさかんになり、エジプト、メソポタ ミア、シリア、フェニキアなど、オリエントとの接触がひんぱんになる。装飾モチーフでは、東方植物文様、たとえばロータスやパルメット、またオリエントの怪獣や動物文、たとえばスフィンクス、ヒョウ、シシなどが採用されるのである。
古代ギリシアのゲオメトリスムはきわめて明確な現象であったが、どこの歴史時代の文化圏にも幾何学文様は使用されているし、織物や建築など の技術の発達にそって、いちじるしくさかんになったといってよい。織物では、たてとよことの糸の組み合せから、幾何学文様がたやすくなりたつ。建築においては、木材、石材、煉瓦材の単位ブロックを組み立てるときに、さまざまな直線図形とアーチなどの曲線図形がえられる。2. 中国
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一、先史時代の幾何学文様人類はすでに、その原始状態において身体装飾と装身具をもっていた。身のまわりを飾りたいという欲求は、ほとんど本能的といってよいほどつ よいのである。先史時代の農耕民族は土器をつくり、それにさまざまな装飾文様をほどこしている。そのさい、土器づくりは実用的手工であるが、装飾をほどこすことは実用をこえた余剰エネルギーの発揮である。人類はどんなに未発達な低級な生活をしていても、実用だけでは満足しないので ある。装飾文様をほどこす美的活動は、あたかも一部族が敵を打ち負かし たあとの凱旋のダンスとおなじことで、人間の余剰エネルギーは彼を美的活動や遊戯にみちびく。
さて、ヨーロッパ旧石器時代の遺跡、遺物を概観すると、フランスのドルドーニュ渓谷や、スペイン北部のアルタミラの諸洞穴には、きわめ写実的な野ウシやウマやシカの図様がえがかれている。これらのナチュラリスム(写実主義)的描写は、呪術的だが、洞穴壁面をかざる役目をもっているともいえる。しかし、いま本題にいう装飾意匠と文様のカテゴリーにいれるわけにはいかない。ヨーロッパ旧石器時代の遺物でも、獣骨刀子や投げ槍には、陰刻手法で、ウマの頭、ヤギの頭、サカナなどが、きわめて図式化してあらわされてい るが、これらの図様は、一見してはなかなか正体がわからないほどになっている。とはいえ、これなどは装飾デザインのカテゴリーにいれてよいだろう。ナチュラリスムのさかんな旧石器洞穴美術時代にも、すでに装飾文様が発生していたわけである。ウクライナのチェルニゴフ州メチーヌのオリニャック後期層遺跡から出土した象牙の腕輪断片には、線刻手法で、中国ふうの雷文やジグザグ(鋸歯)文とそっくりの文様、つまり純然たる幾何学文様があらわされている。しかし、旧石器時代には一般的に、幾何学文様(ゲオメトリスム)は稀である。これなどは例外的であろう。
装飾意匠と文様とは、新石器時代になって、人類が農耕段階にはいり、土器製作をはじめるにいたって、一時に花ひらき、さかんとなる。したがって、意匠および文様研究は、新石器時代を最初の手がかりにするのが賢明である。1. ヨーロッパ 便宜的に、中部ヨーロッパを例にとる。中部ヨーロッパの新石器時代は、ゲオメトリスム(幾何学的装飾意匠)の時代といわれる。ゲオメトリスムは、ナチュラリスムに対立する傾向の呼称であって、旧石器時代にあれほど隆盛であった動物や人間の描写が、すっかり衰えてしまい、反対に、幾何学的図様がいっせいにあらわされるにいたった傾向をさすのである。
新石器時代にはじまるこのようなゲオメトリスムの大傾向をもたらした原因のひとつは、農耕定住による技術文化の進歩、とくに土器製造の開始とその発達である。やがては金属器の使用によって、いっそう技術がすすんでゆく。中部ヨーロッパ諸地の新石器時代土器の幾何学文様は、図20のように、直線文、ジグザグ文、帯状文、菱形文、円弧文な どがあり、そのほか、うつくしい渦文が出現している。文様施工法は、線刻、彩描、浮出しなどである。
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おわりに以上において、中央アジアと古代イラン(イラクも含めた)のチューリップの造形表現の歴史を辿ったのであるが、その結果、チューリップの花びらの描写が3弁から5弁に変化したのは5~6世紀のエフタル時代であったことが判明した。それゆえ、冒頭で述べたグレコ・バクトリア王国の諸王の王冠の花文は3弁のチューリップと見なしても、中央アジア・チューリップの造形表現の編年には矛盾しないことが明白である。無論、コインに描写された花文は極めて小さいので、チューリップと断定するには問題もあろうが、筆者は作業仮説として、チューリップと見なしておきたい。
恐らく、中央アジア(バクトリア、マルギアナ)に移住したギリシア人たちは、ギリシアやトルコなどでは眼にしたことがなかった赤や黄色の豊満な花弁を有する春の花にいたく感銘したのではなかろうか。ギリシアやトルコの野生種チューリップの大半はいわゆる「ユリ咲き」で、花びらがユリや水仙のように細いものであった。それゆえ、かれらが目にしたことのない花を中央アジアで知ったということは想定できよう。ただし、ギリシアやトルコの野生種チューリップTulipa boeotica(赤色)は比較的豊満な形(一重咲きカップ形)をしている。それゆえ、それを知っていたならば、同じ種類のチューリップを遠く離れた中央アジアで思いがけなくも発見して感動したとも考えられなくもない。
一方、これら野生種のチューリップは大地の女神デーメーテールやイダ女神が祭典でかぶる冠を飾るものと見なされていたという見解もあるので、バクトリアに移住したギリシア人が全くチューリップに無知であったとは断言できないかも知れない。しかしながら、ギリシア美術にはチューリップを再現したと断定できる例は知られ不知ていないので、チューリップがギリシア本土でギリシア人の関心の対象となっていたとは想定し難い。かれらが比較的熟知していたのは、既述したようにアネモネ(Anemone coronaria)であったから、側面から見るとアネモネに酷似している中央アジアの野生種チューリップ(一重咲きカップ形)に関心を寄せたことも考えられよう。
このように、様々な可能性に想いを馳せることはできるが、中央アジア産チューリップには無論、ユリ咲きで一見したところ花だけではチューリップとは思えないような種類(黄色の花びらに赤い部分が混じった Tulipa kaufmanniana、タシュケント北東のチムガーンの山岳、筆者撮影、1999年5月下旬)も多々あるが、現在我々が花屋やチューリップ公園で見る園芸種のような「一重咲きカップ形」の豊満で肉厚の花びらを開く野生種「Tulipa fosteriana Irv.?」(赤色の花びら、チムガーンの山岳の例、川崎健三氏撮影、1998年5月下旬)も少なくない。中央アジアに移住したギリシア人が魅了されたのはこの後者のタイプのチューリップであり、それがヘーラクレース神の花冠に描写された3弁の丸みがかった豊満なチューリップであったと筆者は推定するのである。その豊満な形の魅力は、オスマン朝トルコにおいて野生種のチューリップを交配して作り上げた園芸種の細長いユリ咲きチューリップと比較すれば容易に判明しよう(ただし、花弁が針のように直立 したこのタイプはオスマントルコのチューリップ王と称され、いわゆるチューリップ時代を現出せしめたアフメト3世〔1703-1730〕時代に、オスマン朝トルコの宮廷で最も愛好珍重されたチューリップである)。
無論、上述したように、これらグレコ・バクトリア王国のコインに刻印された花の比定に異論があるることは筆者も十分認識している。筆者は幾つか保存状態の良い4ドラクマ銀貨(デーメートリオス1世)を詳しく肉眼で調べてみたが、直径が3.2センチほどのコインの細部に描写された小さな花(0.5×0.8mm)の特定は実に困難である。また、顕微鏡などの光学器具の無かった時代に、このような微細な造形を正確になすのは至難の業であったろう。それゆえ、グレコ.バクトリア王国の銀貨に刻印され花冠の花は植物学的な正確さを欠いているかも知れない。また、筆者が花と見なしたものはあるいは、すなわちギリシア美術の木蔦文、月桂樹の葉を描写したものである可能性を完全に否定するのは難しいことも承知している。ただし、これら二種類の植物の葉を連ねた葉冠の葉の表現形式が3弁の花のようなのはギリシア古典美術やヘレニズム、ローマ美術では極めて少ないのも事実である。それゆえ、葉冠と断定するのも問題があるのである。
このようなわけで、この冠の植物の比定問題は今後、コイン以外のグレコ バクトリア王国の造形遺物、しかもコインよりももっと大きい作品の出現によって決着がつくことを期待したい。しかしながら、たとえ筆者の比定に問題があっても、本稿で指摘し紹介した大半の資料は、イスラム時代以前の中央アジア 西アジアにおけるチューリップの造形表現の歴史を系統的に述べ、かつ同地域の5~6世紀の美術におけるチューリップの花弁の数の変化を世界で初めて明らかにしたたものであるから、それだけでも十分に学術的意義があることは何人たりとも否定できないであろう。
最後に近世から現代に至る中央アジア、小アジア(トルコ)などの野生種、園芸(栽培)種チューリップについて若干つけ加えておきたい。
イスラム時代のイランにおけるチューリップについては、既述したフィルドゥシーなどの文学作品に言及されているが、造形遺産の例としては、サファヴィー朝の施釉タイルに5弁及び3弁のチューリップが描かれている。また、北西イラン(ダーゲスターン地方)のいわゆるクバチ陶器はトルコのイズニク陶器の影響を受けているが、クバチ陶器のチューリップの例としてはトルコ系のチューリップ(3弁で球根形)を描写したサファヴィー朝時代のタイル装飾が知られている。
16世紀のオスマン朝トルコでは、イズニク(Iznik)で色絵陶器が盛んに作られたが、その文様の中心は植物文である。それゆえ、チューリップもその中に加えられている(16世紀の半ば頃)。その描写を見ると花弁は2枚、3枚、4枚、5枚と多様である。18世紀のオスマン朝トルコにおけるチューリップの愛好についてはA. ベイカーの論文に詳述されているので参照されたい。18世紀初期に制作された「チューリップ誌」に掲載されたチューリップの絵を見ると、その花弁は側面から描写されているが、いずれも5弁ないし6弁で3弁はほとんどない。
16世紀~18世紀のオスマントルコで制作された真鍮製の燭台、水差し、陶器、織物(絨毯)などの工芸品の装飾に用いられたチューリップの例については、Y. ペツォプロスの編著を参照されたい。
また、ヨーロッパで16世紀以降描かれたチ ューリップを見ると、側面観で写実的、自然のままに描かれているが、形式化した場合には花弁は5個であって、3弁の例は殆どない。また、16世紀から18世紀にかけては、ネーデルランドの静物画においてチューリップが側面観で盛んに描かれ、植物学の書物にも挿し絵入りで掲載されている。最も愛好された種類は、不思議なことにウイルス病に罹ったためにできる美しい「斑入り」のもので、それが好んで絵に描かれたのである。オランダにおけるチューリップの歴史及び「チューリップ狂」(tulipomania:球根一個がレンブラントの絵よりも高価であったといわれる)については、T. ローデウィーク、A. パヴォード、M. ダシュなどの著作を参照されたい。16世紀以降現代に至るヨーロッパの絵画、陶器、ガラス器、切手、文学、祭りあるいは園芸などにおけるチューリップ の役割については、A. L. ストークの編著に詳しい。
16~17世紀頃にオランダで描かれた5弁のチューリップの原画がオランダ商会を通して中国の明に伝わり、17世紀に景徳鎮(民窯)で制作された芙蓉手の鉢などの染め付け文様の一部に用いられている事実を指摘しておこう。
一方、我国では、1828年に出版された岩崎常正著『本草図譜』巻八、芳草類三に「チュリッパ」(鬱金香)とし オランダ産(?)のチューリップ4種類(フリンジ咲き、斑入りのものが含まれている)が、彩色図とともに紹介されている。また幕末に川上冬崖(1827-1881)が描いた水彩画「草花図」(長野県信濃美術館蔵)の中に他のヨーロッパ系草花と一緒に、白の花びらに黄色の斑入りのあるチューリップの花が二輪見られるが、葉は描かれていない。陰の部分が青で塗られているから恐らく、16~18世紀ヨーロッパの銅板画の無彩色のチューリップの絵を参照して描いた後、適当な色を選んでに彩色したのであろう(文久2年=1862年頃)。いずれにせよ、これらが我国のチューリップ画の嚆矢であろうが、いずれもヨーロッパの絵を模写したものに過ぎない。チューリップの球根については、文久3年(1863年)にフランスからもたらさ れたことを蕃所調所(洋書調所)の物産方の田中芳男が記しているのが最古のものといわれている。我国におけるチューリップ栽培(富山県、新潟県)については、北日本新聞社刊『チューリップが好きになる本』が参考となろう。
中央アジアでは19世紀、フェルガナ地方、タジク人の邸宅の壁などに描かれた絵画に頻繁に用いられたモティイスラエルの野生種チューリーフはチューリップ(春の植物の代表)と石榴(秋の植物の代表)を組み合わせたものであるが、 その場合、チューリップは側面観、3弁である。更に、石榴と組み合わ せて装飾文として用いた例は10世紀のサマルカンドで制作された陶器にも見られるが、その場合、チューリップの花弁は3弁で側面観で描写されている。
本稿では扱わなかったイスラム時代のチューリップの文学表現、造形に関しては、チューリップのペルシア語、ラーレ(lale)の意味、チューリップの象徴的意味(楽園=天国を想起させる神聖な花)、イスラム文化におけるチューリップについて論じたヤマンラール・水野美奈子の興味深い佳論を参照されたい。
西アジアのチューリップとしては、イスラエルの山地に咲く野生種「Tulipa montana」が知られ、それが「ソロモンの詩」の2:12に記されている'nitzanim'に相当するともいわれている。その写真図版によれば葉にはギザギザが顕著で赤い花弁はユリ咲きではない。イスラエルで平山美知子氏が撮影された同種の赤いチューリップは栽培種の持つ豊満感はないものの、イランの野生種「Tulipa montana」と同じく、全体がふくよかな印象を与える。また、イスラエルやヨルダンの山地や砂漠にはこの種の他に更に野生のチューリップが三種類ほど存在するのが確認されているが、その中の二種(Tulipa agenensis, Tulipa stylosa)は赤いふくよかな花弁を示すが、他の一種(Tulipa polychroma)は白い水仙のような花弁である。いずれも葉にはギザギザがある。シリアでは前1千年紀にいわゆるアスタルテ女神像といわれるテラコッタ製小像(板)が数多く制作されたが、その中に3弁のチューリップらしき花を一輪手にする例がある。アスタルテ女神は大地の豊穣を司る女神であるから、春一番に咲くチューリップはその象徴 に相応しいので、その可能性も無論否定できないが、これらの像容にはギリシア美術の影響が存在するから、あるいはギリシア美術のロータス文、あるいはロータスを手にする女神(女性)像の影響と解したほうが妥当であろう。
以上、植物学の知識が皆無に等しい筆者が写真図版などを見てチューリップと推定したものも含めて考察を試みた。その場合、図版に用いられたチューリップが開花した時に撮影したものか、あるいは満開後に撮影されたものか、筆者には判断ができなかった。それゆえ、本稿でユリ咲きと記したものの中にも、開花した時には釣鐘を逆さにしたような豊満な形をとる野生種もあるかも知れない(カシュミール産の場合、写真図版ではユリ咲きであるが、解説には開花した時は釣鐘 at first bell-shaped と記してある)。また、イラン高原、中央アジアの野生種チューリップの実物は殆ど見ていないので、造形遺物に描写されたチューリップを見落としたり、別の花と誤解した点があるかも知れない。いずれ、これらの地方で春に野生種チューリップを求めて踏査し、またその開花から枯死までその過程をつぶさに観察するなどして、更にチューリップの造形表現の研究を深化進展させたいと思っている。チューリップに関心のある方々のご協力、ご教示を切望する次第である(朝日新聞4月3日の朝刊には富山県礪波市にある富山県農業技術センター野菜花卉試験場の 浦島修氏が中央アジアの野生種チューリップを数種類栽培していることが報告されているが、掲載された写真には、ユリ咲きのチューリップが含まれている)。なお、世界各地のチューリップ全般に関する研究書、論文は膨大な数にのぼるが、本稿ではその極く一部を参照できたに過ぎないことを記しておきたい。
最後に本稿を執筆するにあたり、下記の方々にご示教、ご協力を賜った。記して謝意を表したい。金沢大学文学部助教授持井康孝氏、同助教授藤井純夫氏、東京大学教養学部美術博物館文部技官石渡美江氏、古代オリエント博物館研究員宮下佐江子氏。ウズベキスタンのハムザ芸術研究所(タシュケント)のB. トゥルグーノフ、E. ルトヴェラッセ、J. イリヤソフ氏には、ロシア語の論文をコピーしていただいたり、貴重な専門書を頂戴した。
更に、スイスのH. ノイマン博士からは貴重な書物のゼロックスコピーとカラー図版のコピーを、ドイツのG. メヴィッセン博士からはロシア語の貴重な文献のゼロックス・コピーを送って戴いた。
なお、本稿の校正中には、前上智大学教授土谷遙子氏から、カーブルでチューリップの花を売っている男の写真一葉を恵贈された。
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B. 摩崖浮彫次にササン朝の摩崖浮彫を見てみよう。イラン南部のダーラーブのシャープール1世(242-272)の騎馬戦勝図には、数人の国王(総督、王子)の中の最前列の二人が帝王たるシャープール1世に対して花を一輪手に持って敬意を表している。この花は5弁であるが、その種類に関して、W. ヒンツはロータス(睡蓮)と見なし、L. トリュンペルマンは花の種類を特定してはいないが、アケメネス朝の首都ペルセポリスの階段浮彫などに描写された睡蓮の花を一輪手に持つペルシア人貴族と関係づけているところから判断すると、W. ヒンツと同じくロータスと見なしているようである。しかしながら、イラン高原には睡蓮も蓮も野生していないし、ペルセポリスのロータスの花と比べると、その茎は細く、花びらは5弁で、バラバラに開いている点など形式的に異なるので、筆者はロータスではなく百合ないしチューリップを描写した蓋然性が大きいと思う(エジプト風のロータスを完璧に再現した例はクセルクセス1世の謁見図浮彫に描写された同王の手に握られているものである)。このように花弁が細長く、百合の花のように咲くいわゆる「ユリ咲きチューリップ」は現在もイラン高原に野生種(Tulipa clusiana, 花びらは赤と白)として存在することが知られている事実が筆者の推定の根拠である。
次にイラン南部、シーラーズ市の東方、バルメディラク (Balm-e Dilak) の浮彫には、帝モバフラム2世(276-293)の叔父でサカスターン(Sakastan)の総督(?)のナルセーと帝王の王妃(アルダシール・アナーヒド?)あるいはパフラム2世(王子)と王妃(王女)のシャープールドゥフタクが向きあった状態で描写されているが、帝王(王子)は右手で一輪の花を摘んでいる。この花は4弁なのかあるいは萼(葉)を表したものか断定が極めて難しいが、W. ヒンツはロータスと見なしている。また、A. Sh. シャーパジは花の種類は特定してはいないが、上述したスタンプ印章などに描写された婚姻.結婚の場面に女性が花を持っていることを参照し、また古来からのイラン民族の風習を引用して、女性が花を持つのは自分が選択同意した夫に、結婚申し込みの承諾を与えることを象徴しているという。いずれにせよ、ロータスでないことは明らかであるが、チューリップとも断定しがたい。
更に、ビシャープールの北方のサラベ・カンディール(Sarab-e Qandil) の浮彫に描写された女性も右手で花を摘んでいる。これについてはL. ヴァンデン・ベルへはロータスと見なしている。その花の形は卵を立てかけたようで、一見側面観で描写されたロータスの蕾に見えるが、花弁は描写されていないように思われる。あるいは花弁の部分(頂上)が破損しているので、花の種類を特定するのが難しいが、少なくとも開花したロータスではない。
以上、三つの浮彫に描写された花はチューリップとは確認できないが、ロータスである可能性も極めて少ないように思われる。
イラン北西部のターキ・ブスターン大洞(7世紀)のイワーンの正面のアーチを飾る花綱のようなものの中に5弁のチューリップが糸杉文と交互に配されている。更に、大洞の左壁の「帝王猪狩図」の中の勢子の衣服の文様にもチューリップが見られる。これらはいずれも5弁の花よりなる。C. D. シェパードはバラの蕾ないしチューリップ形のパルメットと解釈しているが、チューリップそのものに間違いない。更に、小舟に乗って、猪を狩る帝王を賛美する5人の廷臣の中の一人の衣服にも5弁のチューリップが描写されている。このようにターキ・ブスターンの彫刻に描写されたチューリップはいずれも5弁ではあるが、しかし、その表現形式は大いに異なる。図28の例(アーチ)は極めて自然な外観を示すが、図29に代表される諸例(帝王猪狩図)では非現実的で形式化、図案化が顕著である。すなわち、このような表現様式・形式上の顕著な差違は、これら二つの彫刻が同時代ではなく異なった時代に、つまり前者が後者よりも早く制作されたことを示唆しよう。このような見解は既にH. フォン・ガールが提唱しているが、それによれば、正面のアーチの部分、洞窟、奥壁の上下の高浮彫はペーローズ王(459-484)側壁の帝王猪狩図と帝王鹿狩図の両浅浮彫はホスロー2世(591-628)の時代に制作されたという。この編年論は極めて興味深いが、筆者は全面的には賛同できかねる。特にチューリップの表現様式.形式上での差違にしても、アーチの装飾と衣服の装飾では目的が異なるし、また上述したスタンプ印章の3弁のチューリップが全て5世紀末以前(エフタル族と3度戦ったペーローズ王の時代以前)の形式か否かも明らかではないというのが筆者の反論の根拠の一部である。いずれにせよ、ターキ・ブスターン大洞の各彫刻の制作年代については、本稿で扱うには余りに複雑であるので、いずれ別稿で考察したい。
このような5弁のチューリップは、カレー・イ・クワナ(Kale-i Kuhna)などから発見された大理石製柱頭の装飾文の中にも見られる。これらの柱頭の制作年代はターキ・ブスターン(少なくとも両帝王狩猟図浅浮彫)とほぼ同時代であろう。
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4. イラン美術のチューリップイラン美術のチューリップに関しては、古くはエラム古王国(前20~19世紀)の円筒印章などにそれらしき花が描写されているという提言もある。確かに花の形はイラン高原の野生種チューリップ(tulipa micheliana、tulipa stapfi、tulipa montana)に似ている。しかしながら、花弁の形式がチューリップのそれとは異なるので、チューリップとは断定できかねるが、この花らしきものは聖水に匹敵するものとして儀式に用いられているから、水が潤す大地の豊穣に関係していることは疑問の余地がなかろう。とすれば、大地に春一番を告げる芥子(低地)ないしチューリップ(高地)の花と見なすのも一理はあろう。しかしながら、イラン美術において明確にチューリップと判定できる最古の例はササン朝時代のものである。以下において、そのジャンルに分けて概観を試みてみよう。イスラム時代初期(9世紀)に著された『Bundahišn』第27章にはさまざまな植物が記されているが、その中にチューリップが挙げられている。また、フィルドゥシーの『王書』には、チューリップが山岳地帯に咲く花で、それが春を告げる花であることが明記されている。また、Ch. ブラナーによればチューリップはゾロアスター教徒にとっては、ゾロアスター教の正義の女神アシュタード(Aštad, Arśtād, Risto)を象徴するというが、この女神はクシャン朝のフヴィシュカ王の金貨裏面、ガンダーラ仏教美術、クシャノ・ササン朝美術、バーミヤーンの仏教美術などにおいては、ギリシアのパラスアテーナー女神、ローマのミネルヴァ女神像で表現されたことが知られている。ただし、いずれの場合もチューリップを手にしていないので、チューリップとアシュタード女神との関連性は明らかではない。A. スタンプ印章以下に挙げる諸コレクションにはチューリップを持つ女性が頻繁に描写されている。D. G. シェパードはササン朝のスタンプ印章に描写された女性が手にする3弁の花を睡蓮(ロータス)と見なしているが、それは間違いである。無論、ギリシアの陶器に側面観で描かれたロータスは豊満な花弁を有するチューリップに酷似しているが、しかし、チューリップ特有のギザギザの縁のある葉を欠いているので、ササン朝美術に描写された女性が手にするチューリップと同一視すべきではない。ロータスの尖った花弁が男根を想起せしめることからギリシア美術ではロータスは異性及び同性間の「愛の営み」を象徴するに至った。このような象徴主義はあるいはササン朝のスタンプ印章に刻印された女性の手にするチューリップにもあったかも知れない。
(1)大英博物館蔵のクシャノ・ササン朝およびササン朝のスタンプ印章
A. D. H. Bivar 1968によれば、
PL. II-3, 6:男子頭部の冠帯に3弁のチューリップの花を挿している。冠帯に花を挿すという点において、デーメートリオス1世銀貨のヘーラクーレス神の冠と比較できる。
P1. XVI-2, 4, 5, 6, 8:女性が右手で3弁のチューリップの花1輪を摘んでいる。
P1. XV-6:長椅子に座る母子の中の子供が手にするディアデムに3弁のチューリップの花が3個飾られている(デーメートリオス1世銀貨のヘーラクレース神の冠の文様に酷似)。
PL. XVI-14:葉と茎がついた3弁のチューリップが2本描写されている。
PI. XXVII-6:女性ないし王妃の胸像が描写されているが、その頭部にはディアデムを巻き、それに3弁のチューリップの花を2輪挿している(デーメートリオス1世銀貨のヘーラクレース神の冠の文様に酷似)。これは、パクトリアの草書体ギリシア文字銘が刻印されているので、クシャノ.ササン朝の版図で制作されたものであろう。
以上に挙げたササン朝およびクシャノ・ササン朝のスタンプ印章はA. D. H. ビヴァールのカタログ(1969)にも収録されている。
(2)パリ国立図書館蔵のササン朝のスタンプ印章
R. Gyselen 1993 によれば、
221頁の図表 no. 10. 1 (両手でチューリップを持つ女性立像)。229頁の図表 nos. 30. I. 7, 30. I. 9, 30. J. 10(前二者の場合は、牡羊の傍らに3弁のチューリップと葉、茎を側面観で描写、最後の例では、犬のような動物の背の上方に3弁のチューリップの花だけを側面観で描写)。Pl. XLI-no. 50. A. 1-50. A. 20, pp. 153-54 (No. A. 1 からNo. A. 8は3弁の花を明らかに表現しているが、チューリップではないかも知れない。No. A. 9 から No. A. 19は3弁のチューリップを表している。No. A. 20は2羽の鳥が花ないし実をついばんでいるので、あるいは石榴かもしれない。)
(3)パリ国立図書館およびルーヴル美術館蔵のササン朝のスタンプ印章
Ph. Gignoux 1978 によれば、
Pls. X-4. 27, 4.30, 4. 38, P1. XV-4. 111, 4. 116, P1. XVIII-6. 34 (男女が握手している上方にチューリップの花らしきものが描写されているので、婚姻ないし結婚の場面であろう)。
P1. XXII-6. 80, などに、上述したチューリップの表現形式が見られる。
(4)メトロポリタン美術館のササン朝のスタンプ印章
Ch. Brunner 1978 によれば、
No. 25の印章には、一輪の花を左手に持つ男子(貴族)の立像が刻印されているが、この花は3弁のチューリップであって善意と誠実、あるいは神格に対する尊崇を象徴しているという。
Nos. 141, 93には3弁の花を持つ女性(貴婦人)が刻印されているが、これもチューリップの可能性が大きい。No. 138には、3弁の花びらとギザギザの葉、茎を描写したチューリップが3個刻印されている。No. 39にはディアデムの周りに、3弁の花びらと直線的な葉のあるチューリップが配されている。
(5)エルミタージュ美術館のササン朝のスタンプ印章
A. Ya. Borisov/Lukonin, V. G. 1963によれば、
3弁の花びらと一対の葉、茎よりなるチューリップをアカンサスの上に描写したスタンプ印章が1点含まれている。この他、鹿の傍らに3弁の花びら一対の葉、茎よりなるチューリップらしき植物を刻印した例、花(3弁の花びら)を手にした女性の立像、男性(?)の座像を表した例もある。ただし、編者は花の種類を特定していない。
(6)諸博物館・美術館蔵のササン朝のスタンプ印章
Ph. Gignoux/Gyselen, R. 1987によれば、
Pl. IV-nos. 10. 110.9, pp. 15961(3弁のチューリップの花を右手ないし両手で持つ女性立像)。P1. XIV-nos. 10. 1-10. 2, p. 222(3弁のチューリップを右手で持つ女性立像)。 P1. XXII-50. 1-50. 3, p. 267(No. 50. 1は3弁のチューリップの花一個と葉、茎を側面観で描写、Nos. 50. 2 と 50. 3は3弁のチューリップの花3個を左右対称的に側面観で描写)。更に図表のKP43f, KP44b, KP34にも3弁のチューリップが葉、茎とともに2ないし3個表されている。
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サマルカンドとピャンジケントの間にあるジャール・テペには城砦ないし神殿の遺跡があるが、ウズベキスタン考古学研究所の発掘によって5~6世紀頃に描かれたといわれる壁画が出土した。 この壁画の制作年代に関して発掘者は5世紀の前半と推定しているが、根拠乏しく、筆者には5世紀後半以降と思われる(出土した土器の編年は7~8世紀という)。そこにはロゼンジュ(格子)文の中に5弁のチューリップが多数描写されている。この壁画の保存状態は悪いが、発掘者によれば、花びらの色は「黄色味を帯びたバラ色」(jeltobatorozobyj)という。ただし、残念ながら葉と茎の色については何も記載されていない。
ピャンジケントの第II神殿(6世紀)の第2礼拝堂の壁には4人の貴人が描かれているが、中央の二人の間に「黒いチューリップ」が鮮やかに残っている。 更に、チューリップの太い茎(同様に黒一色)らしきものも画面の最も左の礼拝者の傍らに描かれているが、B. マルシャックは開花していない黒いチューリップを描いたものであろうと推測している。 この壁画の背景(地)は赤色一色である。それゆえ、赤地の中に花びらが赤いチューリップを描く愚行は許されなかったといえよう。とすれば、この「黒いチューリップ」は実物を再現 したものではなく、ウズベキスタンに現 存している赤色、黄色などの野生種チューリップを花の色を代えて描写したとも考えることもできよう。
もう一つの見方は、このチューリップは花は無論、茎や葉も全て黒色で描かれているので、当時実在すると信じられていた「黒いチューリップ」を想像して再現したと考えることであろう。しかしながら、花に関する限り、全ての部分が黒色の花びらのチューリップは知られていないから、黒い花びらのチューリップそ のものを再現したとは考えがたい。無論、アレクサンドル・デュマ作『黒いチューリップ』(La Tulipe Noire)ではないが、「黒花チューリップ」といわれるものは現存する。たとえば、現在知られている「黒花チューリップ」としては「夜の女王」(Queen of the Night)や「漆黒の美女」(Black Beauty)などの園芸種があるが、しかし、その花びらの色は純粋な黒色ではなく、濃い紫色ないしやや黒みがかった紫色(deep maroon or deep purple)で、かつその葉や茎は緑色である。このような「黒花チューリップ」は1700年頃にN. A. クレーズ(Claesz)が描いた水彩画にも記録されているが、その花びらは黒色ではなく、黒みがかった紫色である。ただし、その茎や葉の色は緑がかっている。それゆえ、この壁画の「黒いチューリップ」の場合、花びらのみならず、葉と茎も黒色である点が問題とな ろう。葉も茎も本当に黒色のチューリップを再現したのであろうか?あるいは、葉と茎の緑色を再現する顔料が欠如していたので、黒色で代用したのであろうか?いずれにせよ、5~6世紀のソグディアナにはこのような微妙な黒紫色を表す顔料が存在しなかったので、その代わりに黒色を用いたと想定することもできなくはないともいえよう。
この壁画をはじめ6世紀頃のピャンジケントの壁画に使用されている顔料は黒、白、赤、黄、青(?)の4ないし5色であるから紫や赤紫、緑色の顔料が存在しなかったことは明白である。一方、上述したA. シャリポフとY. プラトフの著書に収録された64種類の中央アジアの野生種チューリップには、そのカラー図版で判断する限りでは「紫ないし黒紫色」の花びらを示すチューリップは見あたらない。ただしその解説の部分を参照すると、花の中央とか下部には黒い部分(斑点も含め)が存在するとか、あるいは2~3種類の赤色チューリップの色はボルドーワインのような暗赤色(temno-bordobyj, temno-krasnyj)と記されている。一方、イラン高原のエルブルズ山脈やザグロス山脈などの高山に野生するチューリップ(tulipa humilis, laleb-yerizeh)には濃い赤紫の花びらがあるので、中央アジアにも同類の野 生種が実在した蓋然性は大きい。問題はこの赤紫、黒紫といった色をどの程度黒く感じるかということであろう。この点については、実際に現地調査をして最終的な結論を出すべ きであろうが、筆者が友人のジャンガルイリヤソフ氏(タシュケント在住の考古学者)から聞いた話では、フェルガナ地方には「黒いチューリップ」が実在するという伝承があるという。しかし、彼の知人の生物学者で実際にフェルガナ地方の高山で野生種チューリップの 実体を観察したものの話によれば、それは純粋に黒い花ではなく、黒みがかった赤いチーリップで、赤や黄色のチューリップの群生している中にたまに見つかるという。恐らく、ウズベキスタンの登山家などが「黒いチューリップを見た」とか「黒いチューリップがある」というのは、このような「黒みがかった赤いチューリップ」のことであろう。このようなわけで、問題の「黒いチューリップ」はあるいは上述した「黒みがかった赤いチューリップ」を再現しようとしたものかも知れない。
またピャンジケントの城砦にあった宮殿の第13号室の壁(6~7世紀)には5弁のチュリップと3弁の芥子の花が描写されていた。芥子の赤い花びらとチューリップの赤、黄色の花びらは4~5月の中央アジア(例、ウズベキスタン)の低地と高地をそれぞれ彩る代表的な花である。残念ながら、このチューリップの花びら、葉、茎の色については、その写真が発表された論文には何も記載されていないが、それらをモデルとしたものが、ピャンジケント遺跡の傍らにある小さな「ピャンジケント歴史文化博物館」のパンフレットの表紙に描かれている。それによると、花びらは赤色、葉と茎は緑色である。ただし、この配色は原画とは無関係であり、原画のチューリップの花弁は橙色ないし灰色で、萼は青色であったと発掘者のB. マルシャックは筆者に語った(1999年7月初旬、ライデンにて)。
更に、ピャンジケントの発掘区第XXIII 第26室から出土した狩猟図壁画(7世紀~722)には猟犬と王侯風人物が描写されているが、その豪華な衣服には格子文が施され、各格子の内側には5弁のチューリップがそれぞれ一輪、側面観で描写されている。その花びらの色はやや褪せているが、青ないし青紫と考えられる(ただし、青色の栽培種チューリップはまだ作られていないという)。
また、ピャンジケントの発掘区第VIの第26号室の壁画には格子文の中に葉が黄色で花びらが赤色の5弁の花が描かれていた。5弁の花 びらの中の3弁はユリ咲きのチューリップの特色を示すが、残る2弁(左右の緑)は垂れ下がった状態を示し、かつその夢もチューリップのそれらしくはない。しかしながら、その一対の黄色の葉は蛇行しており、正に野生種のチューリップの葉の特色に一致するので、全体と しては極めて形式化しているが、チューリップと断定してよかろう(同じように形式化した5弁のチューリップが第I神殿の壁画にも見られる)。
また、タジキスタン南部のカライ・ショドモンの仏教寺院遺跡からも王侯姿の供養者らしき男子座像を描いた壁画が発見されているが、枕(肘掛け)の上に5弁のチューリップのような花を3本束ねたものが描かれている。ただし、これには葉がついていないので、チューリップと断定することは難しい。更に、ウズベキスタン西部(ホンズム)、カラカルパーク自治州のミズダクハーンの古墓から出土した石製の納骨器には一頭の獅子を挟んで一対の花が描写されている。その花は石榴のようであるが、3弁の花を描写したとも解釈できる。発掘者たちは「芥子の花」ないし「聖樹=ハオマ」と見なしているが、筆者はその葉の縁がギザギザである点を考慮すれば、この葉は石榴の木の葉ではなくチューリップの茎につく葉に酷似しているから、蕾ないし二分咲きのチューリップと見なすこともできなくはないと思う。
トルクメニスタンのメルウ(ギャウル・カラ)出土の納骨壷(5~6世紀)の器面に描かれた王侯の一代記には3弁と2弁のハート形の花が多数描写されている。残念ながら、いずれも葉や茎を欠いているので、決定的な根拠は見いだしがたいが、3弁の花はチューリップを描写したものと筆者は推定している。というのは、このハート形の花びらは、死亡した主人公の再生を象徴していると解釈できるからである。また2弁のハート形の花もチューリップを表していると見なすことができる。すなわち、3弁を省略して2弁にしたのである。同じような現象が後述するササン朝時代(中期)の銀製鍍金の水差しに描写された女性像が 手にするチューリップの表現にも認められる。
以上、先史時代からイスラムが中央アジアを制圧した8世紀の半ば頃に至るチューリップ表現の実例を概観したのであるが、その結果、チューリップ表現の形式的変遷については、5~6世紀のエフタル時代に、3弁から5弁へと花びらの数が変化したことが判明した。
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3. バクトリア、ソグディアナ、東トルキスタンのチューリップ(A)先史時代前2000年前後から前2千年紀前半にかけてアフガニスタン北部やウズベキスタン南部、夏トルクメニスタンには青銅器文化が栄えたことが判明しているが、この時代の遺跡からは多数の興味深い工芸品が出土している。そのに青銅製のスタンプ印章があるが、その文様としてチューリップが用いられている。これはチューリップを側面から見て表現したもので、6弁のチューリップの花弁(花冠)のうち3弁が描写されてい るが、チューリップの花弁の特徴的なふくらみ(外反、千重咲き・カップ型)を見事に再現している。また、マルギアナ出土の石製円筒印章の底部にスタンプ印章として用いるために、チューリップを一つ刻んだ例も発見されている。この例では3弁と一対の葉が側面観で 描写されているが、野生種のチューリップの細長いギザギザした葉の特色を見事に写実的に再現しているといえよう。同じようなチューリップの写実的描写は、黒い石で作られた小さな壷(化粧瓶?)にも認められる。図13の左端の図像には有翼女神 が二つのチューリップの間に描写されているので、バクトリア青銅器時代の様々な工芸品に描写された(有翼)女神像は、一部の学者が想定しているようなメソポタミア由来のナナ・イシュタル女神ではなく、土着の大地の豊穣の女神ないし春の女神と見なすほうが妥当であろう。更に、この地域の青銅器時代に制作された青銅製小壷の表面に刻まれた饗宴図の中には、動物たちに混じって3弁のチューリップ(左右に一対の葉、茎)が一輪描写されている。また筆者蔵の奉献台(?)のモデルにも3弁のチューリップが刻出されている。
以上挙げた作品に描写された花(チューリップ)に関しては、H.P.フランクフォールは春に平野部に咲く赤い芥子の花と解釈し、チューリップではないと述べているが、筆者はその葉の形式から芥子と相前後して山岳地帯に咲くチューリップであると思う。いずれにせよ、この花が大地の再生、豊穣に関係する神聖な植物であることには変わりない。
一方、この時代は、バクトリア、インダス河流域、イラン高原東南部、ペルシア湾岸地域を結ぶ交易(特に緑泥岩製の容器)が盛んであったことが判明している。特に、アラブ首長国連邦のテル・アブラク(Tell Abraq、オマーン半島)の古墓から出土した前2100-2000年頃の骨製櫛の表裏に、バクトリアの例と同じような3弁のチューリップの花(茎と2枚の葉がついている)が一対、側面観で線彫りされている。この花の花びらが比較的細長く、また3弁の花びらが各々分離されて描写されている点において、上述したパクトリアの作品のチューリップと若干異なっているけれども、チューリップ特有の葉のギザギザは一致している。ペルシア湾岸には野生種のチューリップは存在していなかったので、これはバクトリアないしイラン高原(テペ・ヤヒヤ、Tepe-Yahyaなどのケルマン地方)で制作されたものか、あるいは当地から輸入された工芸品に描写されたチューリップを模倣したものであろう。前2千年紀前半のバクトリア、イラン高原(ケルマン地方、エラム王国文化圏)、ペルシア湾沿岸から出土した造形遺物(小形の壷、櫛など)に描写されたチューリップについては、S. ウィンケルマンが纏めている。(B)歴史時代タジキスタン南部、ワフシュ河とオクサス河が合流する地点に、アケメネス朝時代からクシャン朝時代にかけて存続したといわれる都市遺跡タフティ・サンギーンで発掘された「オクサス」神殿からは、多数の興味深い工芸 品が出土したことは既に述べた。その出土遺物の中に含まれていた骨製円筒形品の表面には何らかの儀式(メソポタミアの図像との関係が指摘されているが、土着的色彩が一層顕著で、インド美術の影響を指摘する学者もいる)が線彫りされているが、3弁の花と蕾が描写されている。この花をロータスとみなす見解もあるが、筆者はその側面観はチューリップに酷似しているので、これはパクトリア産のチューリップを表していると考える。
一方、新疆ウイグル自治区、ニヤ(Niya)から発掘された後漢時代の刺繍を施した絹布には、多数の植物文装飾に混じってチューリップが用いられている。それは3弁で茎および葉がついている。楼蘭の古墓LCからA. スタインが発掘した絹織物の断片にも同じような形式の3弁のチューリップが装飾文として用いられている。これはL. レスニチェンコによれば、3~4世紀の作という。一方、中国の野生種のチューリップ(伊梨郁金香、老鴉郁金香、山慈姑)については、新疆ウイグル自治区の天山一体に生育しているものが知られているが、その花弁はすべて細長く「ユリ咲き」で、上述した織物に表された丸みがかった花弁の種類とは異なる。それゆえ、これらの織物に表されたチューリップは西トルキスタンのチューリップに由来すると考えられる。
隋時代ないし初唐に制作された「円花銘帯文銅鏡」(陝西省博物館蔵)にチューリップらしき文様が刻まれている。これは円文の中に四個配されているが、その花弁が三つの花の形式は後述するササン朝美術の花弁が三つのチューリップを想起せしめる。また、盛唐の作である海獣葡萄鏡の外区の東西南北の位置にそれぞれ花弁が三つのチューリップが配置されている。これは葡萄とともに装飾文となっているので、同じくササン朝の銀製皿などの「チューリップと葡萄文」(ただし、チューリップは甚だしく形 式化され、かつ花弁は5個である)の影響が想定できよう。更に、狭西省の永泰公主の墓(701年没)から出土した石棺の表面には女性や花が線刻されているが、その花の中にトルキスタン種(Tulipa turkestanica)のチューリップらしき花が描写されている。この花の形態は現代の最も一般的な園芸種チューリップのそれとは異なるので、一見した限りでは、チューリップと思われないかも知れないが、その葉の形態や6弁の花弁の細い形(ユリ咲き系)はイラン高原の野生種チューリップの それに似ている。
天山山脈の南方のクチャにはキジル、クムトラなどの仏教寺院遺跡があり、その窟院には多くの壁画が存在しているが、その中に山岳文をあしらった図柄が多数あり、野山に咲く花々が描写され、3弁のチューリップらしき花が見られるが、チューリップと断定するのは難しい。
以上により、東トルキスタン、中国においてはチューリップが装飾花文として愛好された事例が極めて少なかったことが判明したであろう。
では次に天山山脈の西南部、ウズベキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタンなどの西トルキスタンの古代美術品に描写されたチューリップを見てみよう。
クシャン朝時代(2-3世紀)のウズベキスタンでは、テラコッタ製の女神像が多く制作されたが、その中に玉座に坐った女神像が存在する。残念ながら全て頭部が欠損しているが、スルハンダリヤ州の北部にあるパイヨン・クルガン(Payon-kurgan)出土の例は明らかに右手に一輪のチューリップ(花弁は3、一対の葉あり)を持っている。K. アブドゥラーエフはこの女神をクシャン朝の有力な女神ナナー(Nana)と推定しているが、 頭部にナナー女神の持物たる三日月がついているのか否か明らかではないので、断定が難しい。また、ソグディアナではクシャン朝時代以降、7~8世紀テラコッタ製女神像が多産されたが、特に我国の鬼子母神像との関係 で注目されるのは、石榴を手にする女神立像である。これらの女神像の中にチューリップを一輪、あるいは石榴とチューリップらしき花を共に持つ女神立像が含まれる。それらの例ではチューリップらしき花は3弁の 「ユリ咲き」であるが、この形は中央アジア原産の野生種に多く見られる。
アフガニスタン北部のディリベルジン・テペ都市遺跡の第16号室からは壁画が発見されたが、北壁には多数の男子が一列に描写されている。その向かって右端の二人の男子の頭部は花で飾られているが、側面観で描写された花びらは3弁及び5弁で、チューリップの花に酷似している。一方、北壁からはこの壁画よりも制作時代が遅いと見なされる別の壁画も発見されているが、そこにはチューリップの茎と葉の特色を有する花が描かれている。花そのものは二つあるが、その中の一つの花は側面観で描かれ、3弁でチューリップに酷似している。一方、もう一つの花は開花した花を真上から見て描いているが、花びらが8個あるのでチューリップとは断定しかねる。この北壁の壁画はクシャン朝時代後期(3世紀前半)ないしクシャノ・ササン朝時代(3世紀半ば~4世紀半ば)の作と発掘者は推定しているが、7~8世紀の作と見なす見解もある。ただし、チューリップの花びらの表現に3弁と5弁を併用している点は、クシャノ・ササン朝より以後、次のエフタル時代の前半(5世紀前半)を予想させる。
西トルキスタン(バクトリア)からアフガニスタン、ガンダーラを支配したエフタル族ないしフン族の印章には、頭部に三本のチューリップの花を挿した王侯風人物の正面観の胸像が刻印されている。更に、エフタル族の王の発行した銀貨の表には国王の胸像が刻印されているが、国王の面前(向かって右)にはタムガ(tamga)ないし壺(花瓶)が描写されている。タムがないし壷(pūrnaghata)の上には三本のチューリップの花が乗っている。このような銀貨を発行した国王はエフタル族の王キンギラ(Khingila)であるが、その在位年代に関しては確定的なことは不明である。R.ゲーブルは5世紀の半ばから後半、M. アルラムは5世紀の前半であると推定しているが、J.ハルマッタは未発表の仮説では5世紀の後半と推定しているという。そのチューリップの花の花弁は3個であるので、エフタル時代(5~6世紀半ば)には、少なくともその前半は、従来と同じく6弁のチューリップの花を側面観・3弁で描写していたと推測される。
サマルカンド北方のビア・ナイマンで発見された土製納骨器(6世紀頃?)には神々の像が浮彫りされているが、その中の一人(女神?)の冠にはロゼットを中に挟んで一対の3弁のチューリップが飾られている。
しかし、サマルカンド近くのチレクから出土したエフタル時代の銀製碗の表面に刻出された女性像の一人が5弁で描写されたチューリップの花を一輪左手に持っているのでエフタル時代の終末ないし5世紀末から6世紀の前半には、3弁のチューリップに代わって5弁のチューリップの描写が行われるようになった蓋然性をうかがわせる。この銀製碗の底部に 描写されている王侯胸像は頭部を人工的に変形した形態(円錐形)に特色があるが、このような頭部の変形はエフタル族の王アルホンの胸像に酷似しているので、この国王と同時代ないしやや遅い時期に制作されたことを予測させる。R. ゲーブルやM. アルラムはこのアルホン王をキダラクシャン族を駆逐した国王と見なし、その在位を388-400、あるいは400-430年頃と推定している。
一方、上述したキンギラ王の在位に関しては、A. H. ダニ、J. ハルマッタとB. A. リトヴィンスキー などは、エフタル族の覇権が潰えた6世紀半ば以降であると述べている。もし、このような年代が正鵠を射ているならば、それ以前に在位したと古銭学者が推定しているアルホン王も4世紀末~5世紀初期ではなく、6世紀の前半、すなわちエフタル族の中央アジア支配の末期に在位した国王である蓋然性が大きくなろう。しかしながら、アルホン王が発行したコインには、ササン朝のシャープール2世(309-379)の銀貨を模倣したものが含まれるので、その在位は5世紀前半が妥当と思われる。
B. I. マルシャックは、この銀製皿に描写された国王肖像をササン朝の国王肖像(銀貨)と比較し、更に、大英博物館蔵のエフタル時代の銀製碗との類似性を根拠にして、この銀製碗の制作年代を475年より下らないと推定している。475年以前とマルシャックが推定しているエフタル族の国王が発行したコインには3弁のチューリップが刻印されているので、筆者は、5弁のチューリップは475年以後、すなわちエフタル族の統治の後半(5世紀半ば以降)に初めて登場したと推定するのが妥当であると考えるのである。3弁のチューリップのような花を一輪挿した瓶(プールナ・ガタ)はオクサス河畔のカラテペの仏教寺院(B寺院)の中庭の地面に太い線で描かれていたが、これは恐らく4~5世紀前半の作であろう。
パキスタン北部のカラコルム・ハイウェイに沿って多数の岩壁画が近年、発見されたが、パルタブ・ブリッジ(Partab Bridge)のある岩に刻まれた花は3弁のチューリップのようにも見える。K. イエットマーは、この絵は西トルキスタンの南端(バクトリア)からこの地へやって来た人々が描いたと推定している。このような推定は、この山岳地帯には野生種のチューリップが 存在しなかったという前提でなされたものであろう。しかし、パキスタン北部のスワートや西部のクニックなどの高地には野生種のチューリップが現存しているので、その論拠には問題がある。スワートのブトカラの仏塔の周囲の例は赤と白の混色花弁を特色とするユリ咲きイラン原種(Tulipa clusiana)である。いずれにせよ、その制作年代については、この地方の岩壁画の年代がインド・スキタイ時代(前1世紀)から7~8世紀に及んでいるので、その正確な年代を決定することは難しいが、これがチューリップとすれば、エフタル時代を下らないであろう。また、ガンダーラの仏教彫刻にもユリ咲きのチューリップらしき3弁の花が描写されているが、これは上述したブトカラの仏塔の周囲に見られる「Tulipa clusiana」をモデルとしたとも考えられなくもない。
タジキスタンのリャフシュ(Lyakhsh)遺跡から発掘された銀製皿の図像には女神、葡萄と3弁のチューリップが描写されている。Yu. ヤクボフはロータス又はチューリップと見なしているが、チューリップに関する考察はまったく行なっていない。図版から判断すると、葡萄の木は現実のものではなく、想像的要素が顕著で、特に葉の表現は葡萄の葉と異なる。すべての図像は豊穣の観念を示すために用いられていると見なすことができる。ただし、ロータスは水中に生育するもので水辺に生えるものではない。それゆえ、これはチューリップと見なすべきであろう。無論、チューリップが水辺に生えているのも異常ではあるが、山岳地帯の川のほとりに野生しているから、「水辺のロータス」よりも現実的であろう。制作年代については、5~8世紀と見なされているが、インドのグプタ美術系の女性表現の影響が存在するからエフタル時代、5~6世紀半ばであろう。
更に、ソグディアナで制作されたいわゆるソグド銀器が多数知られているが、 B. マルシャ ックの『ソグド銀器』に収録されている作品の中の2点の銀器に5弁のチューリップが描写されている。その一つはサマルカンド郊外のチレクで発見されたもので、ロゼット文の花びらの間に、長い葉を1ないし2個つけたチューリップを2輪配している。この銀器の制作年代は B.マルシャックによれば6世紀という。もう一つの作品は猛獣(虎?)を描写した皿(パリ、国立図書館蔵)であるが、B. マルシャックの編年によれば7世紀(後半)の作という。猛獣(虎?)の足下には山岳文と水流文を配しているが、山岳文からは2本のチューリップ(花は4個)が生じている。
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1. ヘーラクレース神像の東伝アレクサンダー大王の東征の後、西アジアから中央アジアにかけて、ヘーラクレース神の図像が伝播し、各地でヘーラクレース神の像が制作された。たとえば、中央アジアのバクトリアでは、アイ・ハーヌムのギリシア人植民都市遺跡から青銅製のヘーラクレース神立像や大理石製のヘーラクレース神立像が出土している。また、オクサス河とコクチヤ河の合流点に位置するタフティ・サンギーン(Takht-i Sangin)の都市遺跡の「オクサス神殿」に奉納されていた様々な工芸品の中には、ヘーラクレー ス神とシーレーノス(Silenos)(アケローオス Acheloos)の戦いを描写(浮彫) した象牙製の剣の柄が含まれている。これらの作品はいずれも、グレコ・バクトリア王国にて制作されたと考えられる。更に、アフガニスタン北部のディリベルジン・テペ(Dil'berjin-tepe) の神殿址からも粘土製の ヘーラクレース神立像が発掘されている。このように西アジアから中央アジアにかけて発見されたヘーラクレース神像の中には、頭部に花冠(葉冠)ないし鉢巻(diadem)を戴くへーラクレース神を表わしたものも存在する。たとえば、上述したアイ・ハーヌム出土例、トルコ南東部のアルサメイア(Arsameia)やイラク北部のハトラ出土(Hatra)の作品にそれが見られる。このような花冠(葉冠)ないし鉢巻は前5~4世紀のギリシア美術に既に描写されていた神々の花冠(葉冠)を踏襲したものに他ならない。
一方、ギリシア美術のヘーラクレース神の花冠(葉冠)については、次のような形式が知られている。その一つはいわゆる月桂冠(laurel leaf)である。もう一つは木蔦(ivy wreath)よりなる葉冠ないし帯である。この他に花よりなる冠ないし帯(diadem)が知られているが、これら3種類の冠ないし帯はヘーラクレース神の神格化や勝利(戦勝)を意味していたと推定されている。いずれにしても、これら3種類の花冠(葉冠)の形式は、本稿で問題とするグレコ.バクトリア王国の数人の国王が発行したコイン裏面に刻印されたヘーラクレース神の花冠の形式(チューリップのような花の形)とは異なっている。更に、これらの花冠(葉冠)は頭部に巻きつくように表現されており、グレコ.バクトリア王国の数人の国王が発行したコイン裏面に刻印されたヘーラクレース神の頭の周りの頭光(光輪)のようには描写されてない。花冠(葉冠)を光輪のように描写した例として、筆者の知る限りでは、パティカン博物館蔵の浮彫に描写されたヘーラクレース神の横臥像があるが、そのような非合理的な形式は前1世紀を遡らないと考えられているので、このような共和制ローマ期の冠装飾が前2世紀初頭のバクトリアに伝播したと考える必要はまったくない。
更に、ヘーラクレース神やディオニューソス神、アポローン神などの頭部につけられた木蔦や月桂樹はプトレマイオス朝やセレウコス朝の国王の王冠に象徴として使用されているが、一方、そのような伝統は若干ではあるが、グレコ・バクトリア王国のコインに刻印された国王胸像に見られる。2. グレコ バクトリア王国のコイングレコ・パクトリア王国のディオドトス1世の子供、ディオドトス2世(Diodotos、前238-230)はエウティデーモス1世(Euthydemos、前230-200)によって王位を簒奪されたが、エウティデーモス1世の4ドラクマ銀貨の裏面には、岩に座ったヘーラクレース神が刻印され、銅貨の表にはヘーラクレース神の頭部が刻印されている。ただし、その頭部には以下に述べるヘーラクレース神像の場合と違って、花冠がついていない。次のデーメートリオス1世(Demeterios、前200-190)の4ドラクマ銀貨やドラクマ銀貨の裏面には獅子の皮と棍棒を持ったヘーラクレース神の立像が刻印され、その頭部にはチューリップを6個連ねたような花冠がついている。このようなわけで、デーメートリオス1世のヘーラクレース神像はエウティデーモス1世のヘーラクレース神像とは一線を画す特異なものであることが判明しよう。そして、以下に挙げる国王たちが採用したのは、このデーメートリオス1世のヘーラクレース神像のタイプなのである。
たとえば、エウティデーモス2世(前190-185)のドラクマ銀貨の裏面にも、デーメートリオス1世の銀貨の裏面と同様にヘーラクレース神の立像が刻印され同種の花冠を戴いているが、デーキャットリオス1世の銀貨のヘーラクレース神像と異なるのは、右手にもう一つ別の花冠(タイプは同じ)を持ち、それがしばしばギリシア語銘の中に描写されている点にある。ゾイロス1世(Zoilos、前130-120)の4ドラクマ銀貨やドラクマ銀貨では、エウティデーモス2世のコインのヘーラクレース神像のタイプが刻印されているが、神が右手に持つ花環(冠)はギリシア語銘の中には描写されていない。同様にリュシアス王(Lysias、前120-110)のドラクマ銀貨の裏面にもエウティデーモ茶2世のコインに刻印されたへのドラクマ銀貨の裏面にもエウティデーモーラクレース神の立像タイプが用いられているが、前者と異なるのは、棍棒と獅子の毛皮に加えてナツメヤシの葉(勝利を象徴する)を左手に持っている点にある。更に、テオフィロス王(Theophilos、前90)の4ドラクマ銀貨にも花冠を戴くヘーラクレース神の立像が刻印されている。
エウティデーモス1世を除いたこれら5人の国王のコインに刻印されたヘーラクレース神立像の頭部すべてには花冠のようなものが認められる。これに関して今まで 古銭学者は次のように解釈している。(中略)
このように古銭学者たちは、ヘーラクレース神の頭部の花冠については、蔦(ivy)あるいは木蔦(English ivy)とその構成植物を特定している場合もあるが、単に花冠(wreath)と表記するにとどめ、その冠がどのような植物で作られているか、まったく問題にしていない例も 認めれる。いずれにしても、先学たちは、この花冠の花ないし植物があまりにも小さいので、何で作られているのか、ほとんど考察しなかったといえよう。 一方、アガトクレース王(Agathocles、前190-180)の4ドラクマ銀貨の表に刻印されているディオニューソス神の胸像を見ると、その頭部には、前5~4世紀のギリシアの陶器画に描写されたヘーラクレース神がかなり頻繁に頭に戴く木蔦文の冠が描写されていることがわかる。この例と比較すれば、上述したグレコ.バクトリア諸王のコイン裏面のへーラクレース神像の頭部の花冠は木蔦文を表わしたものではないことが判明する。更に、この花冠の花は3個の花弁よりなることがわかる。3弁の花が何を表わしたものであるかという点に注意し、バクトリアやソグディアナにおける近年の考古学的発掘や盗掘によって出土した絵画や工芸品に描写された類似の形式の花を参照すると、この花冠の植物がこの地方の 原産といわれるチューリップではないかという思いが生じる。同じような思いは、インド・グリーク王国のアガトクレースとパンタレオンの両王(前2世紀前半)が発行した方形銅貨の 表に刻印された女性像が右手に持つ3弁の花についてもいえる。この女性像には、ラクシュミー女神などのインド女神の図像的影響は全く見られず、また手にする花も、睡蓮(ロタス)の花びらは外反しているべきなのにこの花びらは逆に内反しているから、睡蓮ではない。また、女性はディオニュース神の眷属たるメナド(マイナス)であるとも解釈できるので、問題の花はチューリップである可能性もあるのではないかと思う。ただし、この問題については、エウクラティデス2世の方形銅貨裏面に刻印されたカーピシー(ベグラム、迦畢試国)市の守護女神像(Kavisiye nagaradevatā)と比較して別稿で考察する予定であるので、ここでは特に問題としないでおきたい。
一方、デーメートリオス1世が発行した銀貨や銅貨の表に刻印されたヘーラクレース神の胸像の頭部を見ると、3弁の花らしきものが一本の蔦の左右に連続して描写されている。そしてその各々の花には短い茎がついているが、その形態はチューリップの花を側面から描写したものとも見なすことができるのである。あるいは図7の場合と同じく木蔦文かもしれない。
一方、デーメートリオス1世が発行した4ドラクマを模倣して、中央アジア西部(西トルキスタン)で発行されたと思われる小さなドラクマ銀貨裏面のヘーラクレース神像の冠の飾りはXないしY、またはKの様な文字を連ねたように描写されている。また、エウティデーモス2世の4ドラクマおよびドラクマ銀貨に刻印されたヘーラクレース神は、頭部にデーメートリオス1世のコインに刻印されたヘーラクレース神が頭に戴く花冠の形式と同一の花冠を戴くのみならず、右手にも同種の花冠を持っているのである。それをつぶさに観察すると、3弁の花の茎を環(冠)に垂直に立てて作ってあるように解釈できる。このような形式の花冠は、ギリシア美術やローマ美術において従来知られている月桂冠とも木蔦冠とも異なる。
このように異例な花冠を用いた理由を考察する場合、以上に挙げたグレコ.バクトリア王国の国王の中で、このような異例な花冠を戴く落神立像を初めてコインに刻印したデーメートリオス1世の偉業について一言述べておかねばならない。というのは、この国王の特別な業績とこの異例な花冠が密接に関係しているのではないかと思われるからである。デーメートリオス1世はそのコインの表にインド象の頭皮を被った自分の胸像 を刻印している点において異彩を放っている。このインド象はディオニュソス神やアレクサンダー大王のインド「征服」に倣った同王の「インド」征服を象徴していると従来解釈されている。デーメートリオス1世はストラボンやポリビオスの記録によれば「インド」を征服したというが、「征服」というよりも「侵略」というのが適当という見解もある。しかしながら、この国王のコインの銘文はギリシア文字だけで表記され、インド(ガンダーラ)で当時用いられていたカロージュティー文字を使用していないので、デーメートリオス1世はガンダーラなどの北西インド辺境を征服したのではないという見解が提示されるに至った。すなわち、同王はインド本国ではなく、かつてインドのマウリヤ朝が支配していたアフガニスタン南部のカンダハール、東部のカーピシー(カーブルの北方、ベグラム周辺)などの地域を征服したと考えられる。このように、その征服地に関しては異論があるけれども、デーメートリオス1世のコインの表の図柄が同王の(対インド)戦勝を記念したものである点に関しては問題はないといえよう。それゆえ、同王のコイン裏面のヘーラクレース神立像も戦勝に関係していることが十分考えられよう。また、デーメートリオス1世とデーメートリオス2世のコインの区別(同名の王が二人いたのか否か)も古銭学では問題となっているが、筆者は明らかに二人(親子)のデーメートリオス王が存在したという見解を支持す。それゆえ、ガンダーラなどカローシュティー文字が用いられていた北西インド辺境州を征服したのは、デーメートリオス1世ではなくデーメートリオス2世ということになろう。
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