第三節 仏教絵画法隆寺蘇我馬子が崇峻天皇元年(五八八)に建てた飛鳥寺は、日本における最初の本格的規模の大寺院であったことを前にのべたが、ついで聖徳太子は四天王寺と法隆寺を創建し、さらに中宮寺・橘寺・蜂岡寺(広隆寺)・池後寺(法起寺)・葛木寺(妙安寺)も太子と関係があるような伝説があるほどだから、飛鳥時代に大寺院が続出したことはたしかであり、また現在の四天王寺などによって、当時の寺院の伽藍配置などは十分に知ることができるけれども、さて堂塔の形体や構造や内部壮厳などの具体的なことは、一つも遺構が残っていないのであるから判らないのである。たしかに太子が建てた法隆寺は、天智天皇九年(六七〇)の四月三十日の夜半に一屋も余すところなく焼失してしまったという「日本書紀」の記事を信用すべきであるからして、現在の法隆寺はその後の再建である。聖徳太子時代の法隆寺を若草伽藍と考古学者はよんでいるが、飛鳥寺や旧法隆寺などの飛鳥期大寺院の堂塔内は、どんな舗設と壮厳が施されていたのであろうか。
止利が造った釈迦三尊像はたしかに法隆寺の一堂の本尊であったのであるから、それを安置する須弥壇が中央に築かれ、その上には天蓋がかかっていたことは、現在の金堂と同じ規格であったにちがいないけれども、さて天井やその下の小壁や、扉とその間の壁はどうなっていたのか。部分的な施設や形式はしばらく別として、少なくとも四方の大壁面にどんな壮厳をしたか、すなわち現存金堂と同じように本尊を盛りたてるための仏教絵画が描かれていたか否かは、絵画史としては大きな問題であるが、現金堂がたとえ半世紀以上も後の再建であるにしても、若草伽藍たる旧法隆寺の本堂は壁画によって壮厳されていたにちがいないと考えてよかろう。画工白加の帰化さきにあげたように、崇峻天皇元年(五八八)に使者や僧と共に百済から来朝した技術者の中に画工白加が混っていた。かれらは同年に起工された法興寺の建設に従事したのであって、すでにあった桜井寺の域内に仮住していた。法興寺は推古天皇四年(五九六)に竣工して高麗僧恵慈と百済僧恵聰が止住することになったが、この画工白加も絵画関係の責任者として法興寺の完成に参加したのである。建通寺(法興寺)塔露盤銘によると、白加博士と共に陽古博士の名もみえるからして、これも百済の画工であったにちがいないが、この白加たちが分担した法興寺の仕事は、どんな内容であったかを考えることが、飛鳥期絵画を知る重要な指針であろう。
しかし画工の来朝は白加が初めてではない。雄略天皇七年(四六三)に陶部高貴、鞍部堅貴、錦部定安那錦、訳語卯安那などと一緒に画部因斯羅我が百済からきたことを「日本書紀」が記録しており、かれらは上桃原、下桃原、真神原に遷されたが、この真神原は法興寺が建てられた土地であった。雄略天皇七年は、白加来朝の年より一二五 年も前であり、仏教公伝の新説である五三八年よりもなお五〇年も以前のことであるから、因斯羅我は仏教絵画をかくためでなかったことは明らかである。恐らく宮殿装飾文様や実用的画図を作るのに役立てるために贈られてきたのであろうが、それにしても因斯羅我の子孫やそれに学んだ画工、さてはその後の帰化画工などが画部として部 民に組み入れられて中央的な豪族の絵画的施工に動員されていたわけである。
ところが宮殿や邸宅以上に装飾画が必要であり、むしろ既存の装飾的画工では描くことができない未知の世界である仏教絵画を大量に具えなければならぬ大寺院の建設が始まったので、ここに仏教絵画にすぐれていて、しかもより高度な画技を有している白加の来朝となったのであろう。したがって、因斯羅我が貢献した年代が正しいかどうかは別として、仏教興隆以前から帰化していた画工と、仏教伝来以後になって来朝した画工との間には、才能と水準においてひじょうな差があったとみるべきである。早くから画部として部民になっていた画工は、それこそ雄略記七年に記されているように絵画的技術に長じた手末才伎であり、白加に至ってようやく仏教絵画に精しい画工であったのだろう。
続々と建立される寺院のために、いかに絵画的技術者を切実に要求したかということがわかるのは、「日本書紀」推古天皇十二年にある画師を制定する記事であろう。書紀には黄書画師と山背画師しかないけれども、聖徳太子伝暦では他に河内、楢、簀秦の各画師も定められたとあるが、かれらはその名が示している各地に集団生活をして画技を世襲し、戸課が免ぜられる代りに賦役に応じなければならなかったが、そういう制度によって画工的技術者を保護しなければならぬほど画師が入用になってきていたわけである。
しかし寺院の本格的な仏画にはいろいろ複雑な規約と形式があって、それに熟練した高級な専門画工でなければ描けない。古墳の壙壁などに描いていたような土着的画師の能力を越えた知的世界であるからして、先進国の経験者である百済から招かざるをえなかったのが飛鳥時代の実情であろう。画技の進歩は優秀な材料の開発と不可分の関係にあるので、推古天皇十八年に高句麗から絵具と紙墨の製法に長じた曇徴が来たのは当然のことである。そしてこのようにして、帰化の画工や諸技術者の指導教授のもとに完成されたのが法興寺や法隆寺やその他の寺院に壮厳された文様と仏画であった。仏像彫刻を専門とする止利は仏師・造仏師・造仏工などと称されているのであるから、寺院の仏像絵画を専門とする画工も、やはり同じ言葉でよばれてもよいはずである。
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第二節 仏像彫刻止利の作品 聖徳太子の心に合致した見本を基にして造りあげたのが、同年四月に完成した法興寺の丈六坐像であったことは、やはり「日本書紀」によって明らかである。そしてそれは今も安居院に本尊として安置されている銅像なのであるが、火災で焼けただれた痕跡を留めている頭部だけが止利の制作した部分であるにすぎないけれども、そこには後にのべるような止利形式の面影が漂っていて、記念すべき作品であることを認 めねばならぬ。しかし最も完全な条件の下に保存されているのは、法隆寺金堂にある釈迦三尊像である。挙身光背の背面に刻まれている造像銘の要旨は、推古天皇二十九年十二月に太子の母が薨ぜられ、翌年正月には太子夫妻が病床に臥されたので、王子や諸臣が発願して太子と等身の釈迦像を造ることでもって転病延寿を願おうとしたのであるが、同年二月に太子夫妻が亡くなられたけれども、釈迦像と俠侍と壮厳とは推古天皇三十一年三月にでき上り、司馬鞍首止利仏師が造った、とある。
この釈迦三尊像こそは止利の最も確実な作品であるばかりか、飛鳥時代を代表する典型にされているが、同じく法隆寺金堂には薬師像が奉ぜられていて、その光背銘によると、聖徳太子が用明天皇の病気平癒を祈願して推古天皇十五年(六〇七)に斑鳩寺の本尊として造らせたことがわかる。また釈迦三尊像と類形が同じであり、鋳造技法も共通しているので、やはり止利仏師の作であると信ぜられてきた。しかしここ二十年来の美術史学界では、造像銘の中の語彙や文体や鍋刻法などに疑問が抱かれるようになり、とくに釈迦三尊像の顔面表情との差が大きすぎることについての解釈ができないことによって、止利の制作であることを否定した上に、さらに制作年代をもっと下げ る説が支配的になっている。それがために、日本歴史も日本文化史でも、この薬師像を取りあげることを躊躇してしまって今のところ敬遠されているのが実情であるが、今までに呈出されている限りでの否定説の根拠は、それほど強力ではないと言ってよかろう。止利形式この釈迦三尊像に最も近い形式や技法の作品を求めると、まっ先にあぐべきは法隆寺夢殿の観世音菩薩(救世観音)立像であり、小像では戊子年(推古天皇三六年・六二八年)の造像銘がある法隆寺釈迦三尊坐像を初め数体をあげることができるが、その作者は止利であると断言するためには、もっと多くの近似作品と文献とが必要である。そこで、これらの作品群を止利形式として理解しておくのが良心的であろうと思う。
この止利形式仏像の特徴は、いわゆる古拙的微笑(アルカイック=スマイル)をたたえた面貌と、両肩から末広がりに長く垂れている形式化した法衣と、左右相称の像身とであろう。また、釈迦三尊像を例にとって、これを彫刻的に観察するならば、像の正面は完全な仕上げであるけれども、側面から背面に至るにしたがって半製になっているからして、完全な丸彫像であるとはい難い。こういう彫刻形式が生れる造形意識について、芸術学では正面観照に基づく浮彫的な方式であると解釈しているようだが、たしかに正面から観照されることだけを目的として造っていると考えてよかろう。側面や、まして背面から礼拝されることは全く考えていないのであるから、背面の彫刻性を省略しているがために、像身を側面から見ると偏平な形体になっていて、丸彫としての立体性を獲得していない。仏前に跑まづいてひたすらに礼拝する像としては、これでよいわけである。丸彫鋳像を造るには技術的な困難があったのかもしれないけれども、丸彫が自由にできるはずである木造仏像、例えば夢殿の救世観音像ですら偏平であるところから推察すると、止利形式の仏像はたしかに浮彫的立場を持っていたと結論してよかろう。正面観照だけで処理するがために、像の輪郭や部分を明瞭にしようとして、法衣裳・綬帯などの装身具の形式を整えていっそうの壮厳性を計ろうとしている。二等辺三角形の中にはまる左右相称の像身によって安定性と確実性を保たせ、肉身も姿態も衣服もすべて様式化し、その上に古拙的微笑の相貌であるからして、止利形式の仏像は観念的な威厳で統一されているのが、その様式上の特徴であると言ってよかろう。大陸仏像との関係
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第二章 飛鳥時代第一節 仏教美術の伝来飛鳥文化の根底 弥生と古墳の両時代に見られる日本の造形物は、朝鮮と中国の影響のもとに改良進歩してきたことと、その造形物の形式や技術を伝達指導した者は、韓漢の帰化人であったということを強調してきた。多くの日本史家があげているので、すでに常識となっていることだが、かの「新撰姓氏録」(八一五年撰)が掲げている帰化人の子孫は三二六氏に及び、それは畿内居住の氏一一八二の三分の一強にあたっているのであるから、いかに帰化人が優勢であったかが推測できようと思う。しかもかれらは当時の日本列島人にとっては技術と知識においてはるかに先進者であったのであるから、当時の文化的な産物と現象が、いかに大陸的であったかは想像以上であったろう。
その理由は、何度もふれてきているように大陸造形物が格段にすぐれていたという簡単な事実に他ならぬが、その造形物を摂取しようとする意欲や能力を具える前提として、その以前に大陸の精神文化を吸収し理解していたという半面を忘れてはならぬ。すでに五世紀には漢字が用いられて倭語的訓読法が考案されている。百済系帰化氏族によってなされたにちがいないが、それ以後、韓漢帰化人が宮廷豪族の筆録に従事して、やがては史部が形成されて、かれらによって史書が編纂されるにいたった。かの弓月ノ君や阿直岐や王仁はその伝説的始祖であるが、これらの多くの文筆の才をもった帰化人とその子孫の精神文化は、大和朝廷の権力を強めるのに大いに与って力があったにちがいない。
しかし、漢王朝以後における中国の精神文化の大宗は儒学であるからして、儒学あるいは漢学を本格的に学ぶことによって、より正しく中国文化が理解できるのであるが、そういう意味では漢学の受容に積極的な政策を打ち出してきた六世紀以後の大陸文化輸入は、それ以前の雑多な受容とはいささか質を異にしていると言ってよいであろう。必ずしもこの記事が史実上の最初であるわけではなかろうが、「日本書紀」継体天皇七年(五一三)紀に百済は穂積臣押山に副えて五経博士段楊爾を送り、さらに高安茂と交代させている同十年紀の記事が、文献上の初見である。こんな段階を経て急速に精神文化への傾倒が高まってきたことを証明しているのは、欽明天皇十五年紀の記述であって、僧・医博士・抹薬師・楽人に混って五経博士と易博士と暦博士を百済から招聘していることである。
およそ、技術的な実学を功率的に作動させるのが精神的な思想や哲学などであり、またその上に立って国家や民族の文化が進展するのであるからして、漢学その他の諸学の移植が盛んになってきた六世紀以後における大陸文化の輸入についての態度や内容は、自ら前時代とは異っていた。それは日本の社会と国家の成長に伴って興ってきたことであるにしても、日本に新らしい大陸文化を積極的に受容する基盤が生れてきていたことであり、またそこに古墳期から飛鳥期へと時代的に移行する原因があるわけである。
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埴輪この新時代の技術革新の一翼を担っていたのは陶部の工人たちである。それに較べるならば、原始的な素焼土器の生産者である土師部の工人たちは、本来ならばあまり歴史に登場させる必要もないのだが、幸いにも、かれら土師部に属すると思われる工人たちは、須恵器に勝る埴輪なる造形物を焼成していることで、不朽の名を残している。
この埴輪には円筒と象形との二類があり、更に後者は弓・大刀・楯・食器などの器物を象った器材埴輪と、鳥・馬・犬などを現わした動物埴輪、家形を造っている家屋埴輪、男女の像をした人物埴輪との四種に考古学は分けている。前者の円筒埴輪は土師器の一種とみてよいから省略するとして、第二類の象形埴輪こそ日本造形史上で最古の本格的塑像であると言ってよかろう。この埴輪は高塚墳墓の外装と墓室の内装との二つの用途に造られたのであって、古墳が発生する三世紀後期からの初期古墳では円筒埴輪だけが墳丘の要所に埋められていたのであるが、やがて地下墓室の上にあたる墳丘頂の区域に家屋や器材の形をした埴輪が安置されだし、四世紀末期には鳥形埴輪が生れ、五世紀に入ると動物埴輪が、さらに五世紀中期になると人物埴輪が現われてきた。
これらの埴輪は奉納者や司祭者のどんな願望を表現しているのかということについては、まだ定説がたてられていない。「日本書紀」の垂仁紀(二八年、三二年の条)によると、垂仁天皇は悲惨な殉死を禁止し、ついで、出雲の土部一〇〇人を召集して、その代りに人馬や種々の土物(埴輪)を作らせて埋めたのであるが、これを進言したのは野見宿弥であったので、宿弥を土部職に任じ土部臣の姓を賜ったとある。記事そのものは粉飾された伝説であろうが、陵墓に安置された象形像なるものは、すべて親近な人と物の代償たる性質をもっているからして、その限りでは垂仁記は一面の真理を伝えていると言えよう。
それにしても、この埴輪は日本最初の明確な塑像彫刻であるからして、その発生と成長の過程については、もっと考究されなければならぬ課題である。その様式の差が著しいためか、あまり密接に結びつけて扱われていないけれども、中国の漢代に完成されたところの器材埴輪にあたる明器と、人物埴輪に類する泥像とは、日本埴輪が成立する前提になっていると推測したい。大陸の明器泥像は墓室内に侍者として置かれているのに対し、埴輪はほとんど墓室を覆うている封土に立てられている違いはあるにしても、玄室に眠る死者の生活に仕える奉侍者であるという意味では、両者は同じである。
日本の墳墓は漢魏時代の墓制を倣って生れてきたことは考古学界が認めているところである。日本の独自の形式と思われがちな前方後円墳ですら、中国古代円墳の前面に設けられた祠堂の転化であろうと推測されているほど、中国の厚葬習俗が受容されていたのであるからして、死後の生活の永遠性を祈願する切実な心の現われとして、明器泥像と同性格の造形物を墓域に安置するのも、自然に学びとられたのであろうと思う。ただ、最初の円筒埴輪は封土の土留めや聖域を区画するなどの純粋な実用に役だてるために埋め立てられたがため、その円筒の上部に象形像を継ぎたしてできた新種の埴輪すなわち象形埴輪も、やはりそのまま封土に奉立する習俗を守って、ついに地下墓室内の主君の側に侍立する機会を失ってしまったのではなかろうか。死者の生活の従者としてよりも、墓域を警護し壮厳する役割りに重きをおいた性格、それは中国の石人・石馬にあたるわけだが、そういう方向に変質されたのであろうと思われる。六世紀になって、より豊かな居所である横穴式石室が生れると、その入口などにも置かれるようになってきたことは、泥像本来の任務に返ったのであるとみてよかろう。
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第三節 古墳期大陸交通弥生土器期の造形物と大陸の造形物との関係をかなり強調してきたのであるが、それを最も具体的に証明しているのは、弥生中期の甕棺に納められている漢式鏡が、朝鮮楽浪郡などの墳墓から出土することであろう。また中国の文献においては、古くは山海経から漢書、後漢書、さては魏書などに倭の国としてしばしば登場することは、両漢・魏晋南北朝を通じてかなりの国家的交渉があったことを物語っており、その結実が倭国造形物の変容であったわけだ。
この問題を最も要領よく適確に説明している末松保和氏の学説(任那興亡史)を借りることにしよう。日本文化の最古の展開が、縄文文化から弥生文化への進入であったとすることは常識であるが、その弥生式文化の祖国がどこであるか、またその伝来流入年代はいつごろであるかについては、まだ定説がない。ただし弥生式文化の発展の基礎に、水田耕作の普及という事実があったこと、ついで大陸伝来の青銅器と鉄器の金属器が新文化発展の契機をなしていたことは考古学の証明するところである。日本の大陸関係史をみると、壱岐・対馬をへての朝鮮交通と東シナ海を渡っての直接の中国交通との二路が考えられる先史期における大陸交通は、金属器の輸入が主な目的であった。次 の楽浪期(前一〇八年─三一三年)に入ると、この大陸金属器文化の輸入は飛躍的に増進された。漠然と大陸交通というよりも、楽浪交通といってよいほど交通は集約されていて、その輸入文化も漢文化と言い換えるのが至当であろう。四〇〇年に亙って続けられた倭人の漢文化輸入は、たんに個々の物品の輸入にとどまらず、やがてはその製造技術の輸入、さらに製造技術者の輸入をも実現し、それに伴って文化の実用化すなわち日本化もしだいにすすめられたであろう。かかる技術や数量の面だけでなく、やがてはその質と内容についての発展が認められる。すなわち物質文化から精神文化への欲求となるのである。
輸入された新文化が発展するには、その文化の受容体とその文化の所有者とを考えねばならぬ。個々の器物と技術の輸入は個人を媒介として行なわれても、それが新文化として発展するためには個人的な受容と所有に止まることが許されない。楽浪期の経過につれ、しだいに質量を加えていった漢文化の輸入は、その受容体としての日本社会に大きな発展の契機を供与したと思われる。すなわち、新文化の所有は少数の支配者の発生と成長に最も大きな条件となったであろう。支配者の成長は他面からみれば統一範囲の拡大であり、政治社会の発展である。この成長・拡大・発展がある程度にまで到達した時、大陸交通の目的は一転し、輸入文化の質的変化が現われた。
楽浪期が終って任那期に入る四世紀の前半代は、大陸の政治情勢が転換する時代であったばかりか、日本の国内情勢も転換期であったので、かかる時代の要請として大陸文化と漢文化に対しても精神文化を求めるきざしが起ってきた。そしてその欲求に即応する事実が、任那成立期(三七〇年頃)における韓漢の帰化人の来朝である。いわゆる帰化人は、その出自の系からいうと、中国系と韓系とに二分され、またその働きによってみれば、文筆の才能者と職縫その他の技術者と一般百姓との三類がある。その中で、文筆者はもっぱら中国系で歴史的には楽浪・帯方の遺民であって、弓月ノ君や阿直岐や王仁はその伝説的始祖である。
さて、この帰化人の渡来は任那成立の直接の結果であるが、これら帰化人がその後の日本の発展に大きな役割を担ったことについては改めて考えてみる必要がある。帰化人は諸国諸地方に分散しないで集中的に大和とその隣接地区に置かれたことは重要な点である。その結果が大和朝廷の政治力と経済力を圧倒的に高めたのである。これを具体的に言えば、朝廷直属の部、また中央の大氏族に属する部の急激な増大であって、この外来要素の大注入は当時の氏族制度の根幹である部の問題の頂点をなしている。また五世紀から六世紀にわたる中央大氏族の盛衰、相互 抗争、大氏族と皇室の対立などは、帰化人や外来の部の帰属問題と大きな関係がある。
前にあげた文筆の才能でもって時代の要請に応じた中国系帰化人は、任那隆盛期に入ってさらに新要素を加えた。いわゆるイマキノアヤヒト(新漢・新漢人)といわれる者がそれである。「日本書紀」雄略天皇七年紀にある「陶部高貴(すえつくりべかたき)・鞍部堅貴(くらつくりべけんき)・画部因斯羅我(えかきべいんしらが)・錦部定安(にしごりべじょうあん)那錦・訳語卯安那」の五人が、その新漢人の初めであって、最も確実なのは推古天皇十六年(六〇八)の遣隋留学生大国・学問僧旻・広斉の三人である。推古天皇以前の帰化人の中にみられる新漢人が、南朝系の漢人であったらしいことは、南北朝分立の余波をうけて百済に帰化して文芸をもって仕えた南朝人が多かったことと、倭の五王の南朝通交で知られるように、日本と南朝との直接交渉が半世紀以上も続いていたことによって、南朝人の日本帰化説が認められよう。
こういう新帰化人があった五世紀が終って六世紀に入ると、任那は替期から滅亡期に移り、精神文化の輸入も新たな段階に入るのである。
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金属工芸これらの金属器のうちの農耕機具は、縄文期末から弥生期初めに伝わったところの稲作の生産能率を大いに高めたにちがいないし、またその他の器具や器物など広義の道具も生活の向上に役立ったのであるが、そういう社会的な背景については省略するとして、石器よりはるかに鋭利な金属製工具の使用は、木製品の工作をひじょうに容易にして、精巧な木器の製作が始まった。自由な加工によって生れる種々な形態の木器が、さらに土器の形態にも影響したことであろうし、また多量生産のために専門的工人の集団も発生してきたこ とであろう。さらに今までは加工が困難であった玉・貝・骨・角などの硬質材料で器物を作ることも容易になった にちがいないが、とくに道具とは全く異質の装身具がこれらの材料で大量に作られだしたのは、金属工具の恩恵によると考えてよかろう。
恐らく弥生時代人はこれらの装身具に対して咒術的観念をかなり抱いていたにちがいないけれども、それらを身につけることによって自己を誇示する精神と態度も強く持っていたことも認められるからして、装身具が弥生時代人に快適な情感を与え る物であったこともたしかだ。すな わち、装身具こそ最も端的に弥生時 代人の美的精神を満足させる直接的 な造形物であった。器具的道具とは意味のちがった造形物であったからして、この装身具こそ確実な工芸の範囲に入るべきであろう。もっとも、縄文時代の装身具もやはり似た性質であったにちがいないが、その加工と仕上げの精巧さを考えるならば、この弥生時代装身具に真の工芸性を求めてよかろうと思う。なおこの時代にガラスと織物の製法を新らしく覚えたが、とくに後者はいまだ初歩の実用的消耗品にすぎなかった。
この装身具以上に工芸性格を発揮しているのは銅鐸である。高さ一二・六cmから一三五・七cm(滋賀県野洲町小篠原出土)に至るまでの大小の作品三〇〇個ほどが発見されていて、梅原末治氏の説によると、それらは文様的に三類五種に分類できるそうであるが、この弥生期銅鐸の起源は朝鮮半島の小銅鐸にあること、ほとんど中部地方で生産使用されていること、実用品でなくして共同体の祭器的存在であったことが公認されている。したがって、祭器として十分な効果を発揮させるために実用性を超越した造形が施されているからして、この銅鐸こそ日本列島における最古の完 全な工芸品であったという見方をすることもできよう。
この銅鐸を、もっと美術史的な観点で取り扱うと、次のような二つの特色をあげることができよう。銅鐸は紐と身の二部から成りたっているが、扁平な紐が身の低部まで垂れ下ってきている。 それがいわゆる鰭とよばれている領巾状の突起であるが、それがために、紐と身との高さの比例は二倍半から三倍であるにもかかわらず、紐が身を深くかかえこんでいるような恰好になっており、その上に、正面底辺の直径が総高の六割前後の幅であるから、太さの割には高さが低いのである。こんな誇張された形態的意匠であるがために、鈍緩な形体の中に重圧感を蔵して おり、しかも鋳造技術の低さがもたらす稚拙さによって、その印象が倍加されているのだが、こういう映像こそ、祭器としての資格を具えた造形物である。
また銅鐸の表面には文様と絵画が鋳出されていて、とくに絵画は当時の生活習俗を示す資料であるから後にふれることにするが、祭器としての荘厳性をますます高めるための表面的意匠であったにちがいない。しかし銅鐸に表われている流れ文、渦文、重弧文、鋸歯文、斜格子文、杉綾文などは、土器にも共通して施されているところに、銅鐸が弥生期特有の日本列島産であったことを示しているわけだが、概して幾何的な単純明快な文様であるのは、すでに紀元前一五世紀において複雑な文様を創造している中国に較べて、日本を考える上に興味ある問題を提供していると言えよう。
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第二節 弥生土器期縄文土器の変遷この縄文式土器は年代とともに、どういうように変っていったかについて、考古学者は次の如く述べている(世界文化史大系.日本1、坪井清足)。「縄文文化は東日本を中心にして最後の輝かしい光を放った。とくにその土器の精巧さは、中期における中部山地の土器の荒々しいマッス(谷.住、量塊性)の美しさとともに、縄文時代を通してみられる技巧の一つの頂点を示している。これらの土器は青森県にある代表的な遺跡の名をとって亀ガ岡式とよばれている。その形の奇怪さ、変化の多様性、表現の繊細さなど、どの点からみても世界の新石器時代の土 器のなかで屈指の作品とされる。...それとは対照的に、文様をほとんど失ってしまい器形も単純な一群の土器が、九州を中心とする西日本でつくられていた。この徴候はすでに後期にあらわれているが、晩期になっていっそう強まったといえる。この両極の中間には、近畿・瀬戸内を中心とする一群の文化、中部地方の文化や関東を中心とす文化などの数群の中間的なグループがみられる。 そして近畿地方の土器は、九州のものにくらべると文様の要素も多く、弧線文を組み合わせた文様をもっているが、縄文を全く用いない。ところが、中部地方の土器、とくに北陸系のものは近畿と同様の弧線文を用いているのは、縄文が使用されている。その点で、より亀ガ岡式に近い。つまり、それぞれ両隣りの地区とくらべると中間的な様相を示している。...この亀ガ岡式土器は百をこえる器形の変化がみられるが、...基本的な形としては皿、深鉢、碗、壺、注口土器、高坏などの十種類ばかりのものが、それぞれ数種から十数種の異った変化をみせている。...全体を通じてみれば、それが極めて徐々に移り変っていたものであることがわかる。しかもある時期特有のモチーフがすべての器形に用いられている。これは単に土器だけに止まらず、その他の製品、石器から骨角器にいたるまで各種の工芸品にわたった現象であって、そのモチーフがくり返され、決してその施文の法則は乱れない。この点では変化というより法則といったほうがよく、これは中 期の土器の形の上にみられる自在な変化とくらべた場合、むしろその停滞性が強く感じられる」。
また、似たような論旨が他でも次の如く説かれている(角川版世界美術全集・日本I、野口義麿)。
「...後期の土器は、文様・器形に大きな変化が認められる。器形はその用途に応じて分化し、鉢、甕、壺、碗、注口、台付などの土器が普及するとともに、非実用的な容器の製作が目だつようになる。中期の特徴であった厚手で大形の土器は減少し、薄手となり、器面調整、焼上げの技術にも進歩のあとがうかがえる。文様は中期の後半には隆起した渦巻文、曲線文がみられたが、この文様はしだいに沈線化する方向に進み、後期になると、へら状工具による沈線文様となる。これに伴ない中期の終りに芽ばえた磨消し縄文が発達して、ここに後期の土器は中期とはまったく変った繊細な磨消し縄文によって代表されるようになった。...晩期の土器は亀ガ岡式土器によって代表されるといっても過言ではない。この土器は東北地方に栄えた縄文土器の最後の華とでもいうべきであろうか。相対的にみて衰退的傾向をたどっていった晩期の土器群のなかで、きわだった存在である。このすぐれた土器は、東北地方を中心として発達し、しだいに周辺地域に影響を及ぼした。...しかし、関東・中部・近畿地方では、このすぐれた土器の影響をうけながらも、進歩改良のあとがみられず、しだいに退化の途をたどり、やがて西方から伝わった新らしい弥生式土器へと移行していくのである。瀬戸内・九州の土器も、はっきりと衰退的な様子をみせはじめる。口縁や胴部にめぐらした突帯や条痕文が目だち、無文土器が増加し、装飾のある土器がなくなっていく。そのなかには、やがて生れる弥生式土器の要素があらわれはじめる」。変遷と発達考古学者は、以上のように縄文土器は 終末に近づくに従って衰退していったという考え方のようであるが、しかし土器そのものは日 常生活に有用な容器として製作されたのであるからして、土器としての用が充足されるならば、それはよりよい土器であり、また同時にそれは土器の発達であるといってよかろう。細い頸をもつ土器、台付の土器、ことに注口土器の製作などは、土器の革命であると言ってよいほどの変遷であるから、少なくとも容器の成形技術の一大進歩であった。形ばかりではなく、器体がしだいに薄手となり、中には赤漆を塗布して耐久力をもたせているのもある からして、容器としての完成物を作ることに、さまざまな知恵が応用されてきていることを知るのである。
それにもかかわらず、あえて衰退と言われるのはなぜであろうか。私の推測に誤りがなければ、過剰装飾をもっている縄文中期土器との比較において生れてきているのではないか。それらの神秘的な容姿と装飾の魅力はたしかに無くなってしまったが、容器は装飾物ではないからして、容器としての発達の順序においては、それは当然のことであるにすぎない。容器の合理性を追及してとであるにすぎない。容器の合理性を追及してゆくならば、縄文晩期の形体に向ってゆくのが必然の過程だろう。ただ、土器を造形芸術として眺める場合は、中期の土器を大いに推賞して、そこに縄文時代人の神秘的なエネルギーを追想するのもよかろうし、またアニミズムやナチュラリズム、あるいはトーテミズムによって原始心性を解こうとするのも一理あることである。したがって、前にあげた考古学者の土器観は、いささか美術史的でありすぎると言ってよかろう。
土製容器が造形芸術でなかったことは厳然たる事実であるからして、過剰装飾を追放して容器としての用途別形 態を追及してゆくために興ってきた器体の変化こそ、逆に土器の進歩であったとみなければならぬ。そしてその背後には、緩慢ながらも縄文時代社会の発展を前提とすることは当然なことである。さらにまた、この縄文社会の前進の原因は、恐らく東アジア大陸の生活方式を学んだことにあると思われる。部分的には縄文時代早期からすでに大陸との関係を実証する土器の存在が説かれていて、縄文後期から晩期に降ってくると、ますますその例証が増え てくるし、さらに最近では、稲作技術すらも繩文期のうちに伝わってきていたという新説すら現われているほどで ある。
こういう日本と大陸との交渉を証明する学説はまだ仮定論の段階ではあるけれども、確実性の高い推測であると 思われる。その仮定のもとに、次のような言い方ができるであろう。海を距てた両国の計画的な交渉はまだこの時代では不可能であったにしても、漂流その他の偶然によって日本列島に来着した大陸人がもたらした大陸的土器製作の技術は、その精巧さの故に無言の影響を縄文土器に及ぼしたのではなかろうか。そして、かの特色ある縄文中 期土器がしだいに変形改質されて縄文後期以後の土器になっていったのであろう。
これを土器の効用という立場から言い直せば、土器が容器としての原始性からしだいに解放されてゆく過程に他 ならぬ。土器が生活器物としてそれ自身の自律性をもち始める萌芽であったのだ。そこに、造形的な性格から遠ざかっていった理由があるわけである。同じ傾向が土偶や土面などにも言えそうである。これは単にささやかな比較上の相異にすぎないけれども、縄文後期以後の土偶類の形体が、多少の整いを具えてくること、原理的な問題にまでもちこんで説明するならば、晩期以前よりも晩期の土偶のほうが、姿容において左右均斉になっている傾向が濃いようである。少なくとも無動機的な量塊性が減ってきていることは確かであるからして、それだけ “人形” の偶像性を表現しようとする態度と造形観念が現実的になってきていることを物語っていると考えてよかろう。そして、その変化の原因は大陸の偶像表現に示唆されていると推定するわけだが、かの 唐草文様岩板(磐城)の唐草デザインが、縄文晩期の他の造形物に較べて格段の精巧さであること、むしろ完全な文様と言ってよいほど進歩しているのは、大陸との関係を認めなければ肯定できないことなどを考え合わせるというと、縄文晩期には中国大陸の造形物や技術の感化が日本列島に及んできていたにちがいないと思われる。
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谷信一,《體系日本史叢書20 美術史》,山川出版社,1968第一章 先史時代第一節 縄文土器期最初の造形物人間が人間になったばかりのころは、現在の私たちがキノコやイチゴを拾い集めるように食物を採集するだけであって、まだ石の爪や歯を作ることをしなかったのだが、その後の長い年月の間に、河の浅瀬などを歩きまわって、自然がその周囲を削りとったり研いだりしてくれた鋭い石をさがしていた。このようなうまく尖った天然の石は、ほとばしる水が渦巻くところに落ちていた。しかし、自然に細工されたたくさんの石の中で、人間の役にたち得るような鋭利な石はひじょうに僅かしかなかったので、そこで人間は、石でもって自分たちに必要な尖った石を作りだした。自分自身で道具を作りはじめたのである。
かくして、その後は人類の歴史の中で何度もくりかえされたことが起った。すなわち、人間は天然のままの自然物をば人工的な物に変えることであった。人間は自然の中にはない新らしい物を作りだすために、自然の偉大なる仕事場の片隅に自分自身の仕事場を建てるのであった。この石の道具について起ったのと同じことが、数千年の後に金属について行なわれた。見つけだすことが困難な自然の金属の代りに、人間は鉱石を精錬して金属を得ることができた。そして、自分自身の手によって発見された物から創造された物へ移る度ごとに、荒々しい自然の力から自由に独立の新らしい一歩を進めたのであった。
その初めのうちは人間もまだ、道具の材料を自分で作り出すことを知らなかった。見つけてきた自然に用意された材料に、新らしい形を付け加えることを覚えることから始まった。人間は手に石を採りあげると、他の石を打ちつけて削った。このような道具は物を割ったりするのに便利であった。そしてその時の破片もまた仕事に用いられてきた。それもまた削ったり尖がらせたり砕いたりすることができた。大地のずっと深い所で発見された先史時代の道具は、まだ自然によって細工されただけの石とひじょうによく似ていて、これをこしらえた職工は誰であるか。すなわち人間か河か、それとも水と力を合わせて同じように石を砕いたり割ったりする熱気や冷気か、はっきり区別して言えない物が多かった。
しかし、今や粘土や砂の厚い層にうずまっている河岸を掘ると、先史時代人の仕事場がそっくり発掘されることがある。そこには、用意してしまっておかれた石の破片が見出され、それらを調べると、人間が石を割るためには、どこらあたりを打ったか、しまっておけるようにするためには、どういうふうに大きさを平均させたか、ということがわかる。自然はこんな貯蔵物をこしらえない。それができたのは人間だけである。自然はすべてのことを目的も計画もなく、ただひとりでにするだけである。河の渦巻は何の考えもなくただ手あたりしだいに石を打つのだが、人間は意識的で目的があった。かくして、この世界に初めて目的や計画というものが現われた。人間は、自然が作り出した石を作り直すことによって、少しずつ自然そのものを訂正し作り変えることを始めた。その結果は、人間を他の動物よりも更に一段と高い所へ押しあげ、更に大きな自由を与えた。人間はもう、自然が適当な石(自然石)を落していってくれたかどうかを考える必要がなくなってきたのである。
人間は、もはや自分自身のために自分自身で道具をこしらえることができるようになったのである。
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5.《日本風景論》與台灣丸山晚霞和石川欽一郎相似之處,在於他也喜歡歸納風景的類別,例如風景、史景與情景三類,以及壯美(陽)、優美(陰)的區別。有趣的是,他也認為相思樹是台灣最尊貴的樹。他印象式的歸納台灣田園自然風光的觀念,其實是沿襲石川欽一郎以來,水彩畫家眼中的台灣風景圖式。石川欽一郎等早期來台的水彩畫家美學觀的共同來源之一為日本的國粹保存論者,地理文學家志賀重昂(Shiga Shigetaka, 1863-1927)於1894年出版的《日本風景論》。此書為介紹日本地理地質的大眾讀物,歸納日本的自然景觀特色,包括動植物、氣候、山脈、河流,並及登山知識,歷代詩人文客的詠懷風景文詞等,強調日本國土的特殊優越性。此書緒論開首即引用「江山洵美是吾鄉」的漢文詩句,宣揚日本風景美如人間淨土,愛國愛鄉的主旨,運用當時的科學觀點與地理氣象資料分析介紹日本的自然環境。他歸結日本的風景特色有三:一、瀟洒,二、美,三、跌宕。如此凸顯文學性的瀟灑觀,正如石川欽一郎在〈薰風榻〉(1929年7月)文章,談到「台灣的風流觀」時,所推崇的日本室町時期的風流瀟灑情趣。也許石川欽一郎的說法並非直接來自志賀重昂,那麼兩者也應該有共同的來源,而且志賀的說法早已普遍流行於日本的知識界。
《日本風景論》書中也提到日本的新殖民地台灣,但是從未到過台灣的志賀重昂只是簡單地歸納為:台灣風景青綠,島的全半或幾乎全部都在熱帶圈內,多火山而植物茂密。同時,他又鼓勵日本的地理學家擴而研究整個亞細亞大陸地質。他認為:日本是亞洲的「先輩國」,亞洲人文的發展是日本人的天職,故而在西洋的地理學家尚未認真研究亞洲大陸的地質之前,日本的地理學家應該努力經營,並且將一些(略)新術語冠上亞洲大陸的岩石系統,以便讓日本自然科學的美名永垂不朽。...在此大日本的心態下,富士山便成為名山的標準,志賀重昂建議台灣的最高峰玉山與富士山形式相同,可以改稱「台灣富士」,山東省的泰山也可以改稱「山東富士」。
志賀被視為日本的John Ruskin(1819-1900),十九世紀末英國研究文藝復興時期美術史家與美學家,Ruskin因結識水彩畫家Turner(W. Turner, 1775-1851)而開始撰寫現代畫家的評傳。但是他的名著Modern Painters一書,與其說是讚美畫家Turner不如說是以浪漫的眼光讚美大自然,尤其是神聖的阿爾卑斯山。Ruskin使用當時的地理科學知識與道具分析、記錄並讚美大自然。這樣融合科學與主觀情感的觀照自然方式影響了志賀重昂也影響了石川欽一郎等水彩畫家。志賀重昂是提倡日本山岳美,推動登山運動的先驅,他推崇富士山為日本標準名山,櫻花和松樹為日本風景的特徵。如此古意盎然的自然觀正是石川與丸山所奉為圭臬的。石川欽一郎最推崇台灣的相思樹與栴檀樹(苦楝),他認為台灣的相思樹正有如日本的松樹,都可以被約定俗成風景的代表特色。《日本風景論》更促進了日本水彩畫家的登山熱潮,從而出現山岳畫家一詞,並以團隊方式研究日本風景和風土。從日本來的老畫家丸山晚霞,第一次到台灣便直奔阿里山調查其氣候與林相,甚至向植物學專家請教,並一再解釋這次放棄上玉山(新高山)的原因。接著他將台灣風景的第一印象歸納為,台灣是有如蕃薯狀的島嶼,中央山脈貫穿南北,而且從西岸看來,中央山脈彷彿一幅畫的背景:前景是相思樹林,或者是一棵、一對相思樹,或者是相思樹的小山丘,背景搭配中央山脈,水牛作為點景。這類簡單公式化的取景,配合詩意的眼光便與志賀重昂所歸納的日本風景之美構圖手法相近,例如:
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3.理蕃政策與山岳繪畫第五任台灣總督佐久間左馬太陸軍中將,是歷任台灣總督中,任期最長(1906年4月—1915年5月)的一位,共九年一個月,任內以「掃蕩生蕃」為重要施政方針。石川欽一郎第一次來台時期,不但與佐久間總督的任期重疊,而且他受命來台任總督府陸軍部通譯官的時刻(1907年10月底),正值總督府在全台實施理審計劃,開闢北蕃隘勇線,而引發桃園、新竹地區所謂「大嵙崁蕃匪騷擾事件」(10月7日)及「北埔暴動事件」(11月15日),日人傷亡將近八十人。對原住民的反抗,佐久間回報以更殘酷的五年理蕃計劃(1910-1914),不惜親上戰場指揮,武力圍勦。
石川欽一郎受聘來台的初期,以通譯官的身份製作許多歷史戰爭畫,並且配合佐久間總督理蕃政策而作畫。1909年3月,他所製作鉅幅油畫「北白川宮殿下御奮戰圖」,描寫北白川親王在彰化八卦山一役,寬九尺,高七尺,懸掛在台北博物館大廳正面,作為日本征服台灣戰爭紀念。
同年三月初,在陸軍副官率領將近二十人護衛之下,石川奉命由埔里進入中央山脈,繪製佐久間總督所推動的隘勇線蕃界地勢。出發時,陸軍參謀總長建議石川攜帶手槍,他雖然是婉拒了,但是當隊伍進入山地後,警衛便不斷地鳴槍示威。在隘勇線,石川使用桌椅繪製大幅水彩,身邊圍繞著數名警衛,偶而向山間放槍,引起一陣陣的迴響。石川回想在天津的戰場上必須躲開敵人的視線作速寫,相對地:這次能夠隆重地在隘勇線花很長的時間寫生畫畫,是很愉快的經驗,永遠難忘的回憶。
這次寫生的「蕃界圖」共有十幾幅大畫,佐久間選取九幅,於7月返回東京時,直接呈獻給明治天皇,宣傳他的理蕃成果。據報導,天皇「非常地滿意」。同時也讚揚石川「畫」的「至高榮譽」。石川赴南投蕃界何以聲勢浩大,氣氛緊張,那是因為當時除了「霧社蕃」和「埔里蕃」之外,大多數的原住民仍未被日人征服,但是佐久間總督下定決心,以龐大的武力和軍備深入山地,目地在奪取其蘊藏豐富的資源,尤其是原始的樟腦森林。正如藤井志津枝所指出,佐久間總督統治台灣的時期,正是「日本帝國主義邁進雄飛發展期」,武力收歸蕃人、蕃地,既可滿足明治天皇的國家主義,更可以為日本帝國抽取豐富的財源,支持其北進與南進擴張政策。
在理蕃政策下,1910年2月,石川欽一郎隨同佐久間總督,巡視台北、 桃園、新竹隘勇線,尋找宣傳畫的題材,完成五幅大作,自認為能夠兼具地圖和藝術創作而感到欣慰。理蕃事業在佐久間總督時期發展成為總督府治績的大看板,歐洲先進帝國主義國家駐日大使,特地來考察,總督府也派歸順的蕃人代表台灣殖民地參加1910年在倫敦舉行的博覽會,歌舞演出,長達將近半年。
總督府為了宣揚台灣治績,舉行日本國內的拓植博覽會時,也邀請最具有名望的畫家為台灣館製作壁畫。他們或親自來台寫生,或根據照片製作台灣的風景圖像。事實上,除了石川欽一郎等畫家為了工作而來台灣,接觸山地風景之外,日本畫家有志於探險、開發新畫題者也不辭辛勞地到台灣來。例如文展日本畫家金森南耕,早於1913年2月來台,至新高山(玉山)寫生,1915年又以原住民題材「竹尾鳴梅」入選文展,次年又再度來台,至阿里山、澎湖、日月潭、台中寫生。正如前文所引石川欽一郎詳細的描述所示,到蕃界或高山創作並不是一件容易的事,非得仰賴軍警保護不可,所以這些早期的山岳畫家都和總督府軍部保持良好關係,創作完成時往往要獻呈作品給總督和相關官員。日本總督府也從不厭倦對於運用美術創作來表揚治績的豐功偉業,這也是日後在四〇年代聖戰美術展覽席捲台灣的淵源之一吧!
從以上的時代背景可以知道蕃界和原住民題材已經流行於台灣的日本人之間,並且在東京文展、帝展引起注意。如此,我們更容易了解何以1920年秋,台灣的第一代雕刻家黃土水會提出以原住民為題材的「出草」、「蕃童」參加第二回東京的帝展,並成為轟動台灣的新聞。當時黃土水利用暑假,從東京趕回台北,拜訪在台灣總督府博物館,研究原住民二十多年的森丑之助(Mori Ushinosuke, 1877-1926),借取有關蕃界的資料。森丑之助於日本領台之初,1985年9月,比石川欽一郎更早以相同的總督府陸軍部通譯官身份抵台,次年開始對蕃界深感興趣,進入山地踏查,同年在東部遇到由東京大學派遣來台考察的人類學探險家鳥居龍藏(Torii Ryozo, 1870-1953),並且在1900年鳥居龍藏第四次來台調查時,成為他的忠實助手,此後繼續合作,並加入東京人類學會。在日本領台初期,他們以及自告奮勇來台的另一位探險家伊能嘉矩(Ino Kaku, 1867-1925),不斷地以〈台灣通信〉的形式在東京人類學雜誌上發表報告,並親自演說。長期居住台灣的森丑之助在台北所出版的《台灣蕃族圖譜》二卷(1915)、 《台灣蕃族誌第一卷》(1917)更成為認識台灣原住民的手冊,廣泛被閱讀。他曾經在《台灣日日新報》、《台灣時報》等大量地報導他的探險研究心得。他發表過一篇回憶蕃界調查報告,〈生蕃行腳〉,非常生動地描寫他和鳥居龍藏出發調查時,兩人肩膀上斜掛著旅行用的皮箱、攝影機等各種用具,活像古代日本配備七件武器作戰的武士僧人辨慶。同樣的描述也出現在對原住民文化懷抱著深厚興趣的洋畫家鹽月桃甫(Shiotsuki Tôho, 1886-1954),他在1939年所寫,〈內太魯閣行─東台灣旅行的懷想〉一文中,回憶1921年左右他第一次與鄉原古統同行,搭船自花蓮上岸,前往中央山脈太魯閣。在台車站前準備出發時,他也發現自己活像辨慶,配備多達七種。人類學家的探險日記顯然深刻地印在畫家的腦海中。
人類學家的探險活動幸而集中在日本領台的最初十年,總督府仍然採取撫綏政策,蕃界的氣氛基本上是和平的,沒有蕃日對抗的現象,故而他們能夠在很短的時間收穫豐富。然而,人類學家詳實而生動的報導不但提供畫家入山探險的手冊,更是總督府剝削、壓榨原住民的理蕃政策上的重要資料之一。就這一點來看,當石川欽一郎在中央山脈上,愉快地坐在士兵環繞的桌子前面,悠哉悠哉地寫生時,是否認清楚畫家為殖民政府所扮演的角色呢?
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《美術史研究集刊》第9期,2000顏娟英在鑑賞風景時我們認為美或不美的標準究竟何在?最後除了聽任觀賞者的眼力判斷之外,別無其他原則,這雖然是一般的說法,卻也是解釋審美觀的基礎。
石川欽一郎,〈台灣地區的風景鑑賞〉,1926年3月1.從日本到台灣─報導文學與美術 近代台灣風景鑑賞的標準,或者說風景畫的建立,乃至於藝術的審美觀就 在主觀的引導下,「聽任觀賞者的眼力判斷」,逐漸地塑造出她的雛形。此早期觀賞者的眼力中最重要的領導者還是從1907年第一次來台後,便不斷地用水彩畫和文筆報導台灣所見所聞的石川欽一郎(Ishikawa Kinichirô, 1871-1945)。1926年他寫下〈台灣地區的風景鑑賞〉這篇文章時,已在台灣居住將近十一年,他說:鑑賞台灣的風景,首先一定要對照著,從日本的風景角度來考慮。這位台灣近代美術(水彩畫)的啟蒙者,在觀看台灣風景,甚至於一切自然人文景致時,總是不斷地回想到他的故鄉日本,將兩地的風景並比對照著觀看。或者說他是透過對日本自然人文風景的傳統認知來看台灣這塊處女地。石川甚為擅長撰寫旅行文學,1932年4月他已退休返回日本,7月發表〈台灣的山水〉,綜合式地品評台灣山水的各種特色。但是這篇文章起首出發點仍在日本的門司港,船離開景色優雅的六連島後,向南進入熱帶地方。船駛進基隆港後, 他又立刻想起了日本九州的風景。事實上,石川的一生旅行經驗非常豐富,多年旅行於日本各地,中國東北與東南岸,甚而歐洲,而且他又非常強調概略性的第一印象,例如:初抵台灣時,從船的甲板上遠眺基隆景色,最令人欣賞的是自然的色彩飽滿,山峰線條強而有力。
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(18)錦。「一切経音義」「續一切経音義」には見えない。しかしこれは唐代、高級絹織物としては盛んに生産されたものである。「倭名類聚抄」は「釈名」の説を引用しているが、或は「倭名類聚抄」が他の部分でしばしば引用する唐代の音韻書にも見えなかったものかとも推測される。ただ「急就篇」の顔師古註は「錦、織綵為文也」としているところからすると、唐代もそれ以前と同様、綵つまり五色の糸で紋様を織り出した絹織物を指したと言ってよい。これにいくつかの種類があったことは唐代にも見られるところである。「新唐書」地理志土貢として見える錦は次の通りである。
蕃客袍錦 被錦 半臂錦
蕃客袍錦とは外國人向けの袍に用いられる錦、被錦は寝衣用の錦、半臂錦はちょっきの錦ということであると思われる。とすると、これらは主として用途による錦の分類である。他の文献に紋様などによる錦の種類がいくつかつたえられている。朱啓鈐「絲繡筆記」巻下は「杜陽雑編」〔巻中〕の神錦、浮光錦、〔巻下〕の魚油錦、明霞錦をあげているが、神錦は大軫國、浮光錦は南昌國(朱氏は誤まって高昌國としている)、魚油錦は女王國、明霞錦は女蛮國それぞれからの貢物となっている。また「楽府雑録」康老子の條の氷蚕錦もあげているが、これは神錦と同じく氷蚕絲というものでつくることになっており、果して中國で産したというものかどうか明らかでない。中國産が明らかな錦に次のようなものがある。
大張錦(「冊府元亀」巻五〇四邦計部帛、「唐大詔令集」巻一〇九)
独軟錦/瑞錦(右に同じ、ただし「唐大詔令集」は独軟錦、瑞錦を軟瑞錦とす)
透背錦(右に同じ)
竭鑿錦(右に同じ)
六破錦(右に同じ)
小文子錦(右に同じ)
大繝錦(「唐大詔令集」巻一〇九)
なお「冊府元亀」「唐代詔令集」とも次の紋様の錦をあげているが、名称が紋様にしたがっていたかどうかは明らかでない。
盤龍 対鳳 麒麟 獅子 天馬 辟邪 孔雀 鶴(「唐大詔令集」は仙鶴)芝草萬字 雙勝
紋様は動物・植物・文字などで比較的明らかであるが、前の大張錦から大繝錦までは分り難い。おそらくこれらも紋様によって名づけられたのではないかと推測される。
(19)繡。これは絹織物の種類というより絹織物に手を加えたものであろうが、最後にあげておく。「一切経音義」巻六六では「修宥反、考工記云、畫縮之事、五色備謂之繡也、説文云、五色備也、従糸、粛声也」とされる。「倭名類聚抄」は「蔣魴切韻云、繡、以五色絲刺万物形状也」としている。「説文」以来、「蔣魴切韻」に至るまで、五色の糸で刺し、紋様をつくることとされているのである。
次に唐代の染色にうつろう。前に見た通り「大唐六典」によれば、「練染之作」として青・絳・黄・白・皂・紫の六つがあげられている。そして「大唐六典」は次のようにも言っている。
凡染、大抵以草木而成、有以花葉、有以莖實、有以根皮、出有方土、採以時月、皆率其属而脩其職焉、
つまり織染署が用いる六つの色はすべて草木染だというのである。ただし民間のもふくめると染色の数はかなり多数にのぼる。「一切経音義」を中心にそれを見てみよう。
(1)紫。卷七では「玆此反、説文帛青赤色也、従糸、此声」とされている。
(2)縹。巻二では「漂眇反、説文云、帛青白色也、従糸、票声也」とされ、巻五では「疋暁反、説文云、縹者帛青黄色也、唐韻亦云、縹、青黄色也」とされている。巻二と巻七とでは「説文」を引きながら説が異なる。現存「説文」では「帛白青色也」となっており、巻二と同じである。上巻でものべたように宋代の「廣韻」では「縹、青黄色也」と「唐韻」と同じ説明を與えている。縹を青黄色とするのは唐代にさかのぼれるが、青白色とする説に比べると後起のように思われる。
(3)紅。巻三では「胡公反、説文帛赤白色也」とされ、「説文」の説にしたがっている。
(4)紺。巻四では「甘暗反、......説文云、帛染青而揚赤色、或作絟𦇝、音與上同、此皆馬鄭所用古字也」とされ、「説文」の説にしたがっている。ただし現存「説文」は青が深青となっている。
(5)緑。巻五では「力足反、説文云、帛青色、或作碌、石碌也、又作緜、古字也」とされ、巻六では「力斸反、説文云、帛青黄色也、古文作緜、従糸、彔声」とされ、巻八一では「陵燭反、春初衆草緑色可愛」とされている。巻五と巻六とは「説文」を引いているが、一方は青色、他方は青黄色となっている。現存本「説文」は後者と同じである。
(6)緇。巻一〇では「滓師反、毛詩傳日、緇、黒色也、従糸、甾声也」とされている。緇を黒色とするのは「説文」も同じである。
(7)組。巻一一では「息陽反、字書、縑、緗也」とされ、色でなく、絹織物の一種に取扱われている。ところが巻八三では「想良反、考聲、細、浅黄色也、亦緝、釈名、細、物生之色也、文字典説云、従糸、相聲」とされ、巻九二では「想羊反、釈名云、緗、素色繒也、古今正字、従糸、相聲也」とされ、巻九八では「西羊反、釈名、網、素也、素、物生之色、考聲、浅黄色也」とされている。巻八三から九八まで「釈名」を引いているが、巻八三は「物生之色也」、巻九二は「素色繒也」、巻九八は「素也」としている。現存本「釈名」は「桑也、桑葉初生之色也」とある。巻九二九八の素は桑の字の誤まりでないかと思われる。ただし色については巻八三・九八とも浅黄色としている点は同一である。
(8)絞。巻三では「交効反、考聲云、絞謂繒黒黄褐色也、 説文、従糸、交聲」とされる。絞を絹織物の黒黄間の色としているが、彼のこうした用法は唐代以前はあまり見られないことである。
(9)緋。巻四〇では「匪微反、字書云、緋絳也」とされている。絳色と同じように取扱われたようである。
(10)緋。卷八五では「音晉、説文、帛作赤白色曰縉」とされている。現存本「説文」では赤白色が赤色となっている。
(11)絳。巻八三では「江巻反、考聲、絳、赤也、説文、絳亦赤也、従糸、夅聲」とされている。現存本「説文」では赤が大赤となっている。
(12)青。巻一では「戚盈反、俗字也、説文、正体従生、従丹、作𤯝、経文作青、隷書略也」、巻四では「戚盈反、......字、説文、従生、従丹、今隷書訛略」、巻四三では𤯝とあり、「戚経反、東方色也、爾雅、春青陽也、字従丹、従生、木生丹、丹青之信必然者也、経文作精、旦見反、精今非体」、巻九四では青とあり、「正青字、説文云、𤯝、東方色也、木生火、故従丹」とされている。
(13)赤巻五二では「説文云、南方色也、従大、従火、古文作烾」とされている。
以上、「一切経音義」「續一切経音義」に見える絹織物の色をあげてみた。大半は「説文」と同じであるが、中には若干「説文」を引いて「説文」と少し異なった説明をしているのもある。また「説文」に比べると、色の数がきわめて少ない。「一切経」にたまたま見えるものをあげたということで、唐代、絹織物に使用された色はさらに多かったことは疑ない。「大唐六典」織染署の條でも他に白・黄・皂などがあげられている。なお「大唐六典」では「織紅之作」のところに九として網があげられている。これは「箋注倭名類聚抄」巻三布帛部第九錦綺類第四一錦の條で次のように言われている。
按暈繝本彩色之名、故續日本紀云、染作暈繝色、而其色各種相間、皆横終幅、假令白次之以紅、次之以赤、次之以紅、次之以白、次之以縹、次之以青、次之縹、次之以白之類、漸次濃淡、如日月暈氣雜色相間之状、故謂之暈間、以後名錦、俗从糸、......集韻云、繝古晏切、錦文也、然其字説文玉篇廣韻不載、故云所出未詳也、
「大唐六典」の繝が暈繝であるとすると、これは本来「織絍之作」に入るべきものでなく、染色の方法と見なすべきものであろう。ただこうした染色の紋様が錦に用いられ、他の錦と区別して暈繝の錦として「織絍之作」に入れられたものであろう。ただし原田淑人氏は綴織と考えている。
なお染色についてもう一つふれておかねければならないのは纈である。「一切経音義」によると、「賢結反、文字集略、縛繒染之、解為文、考声亦謂繫絹而染之為文也、古今正字、従糸、頡声」(巻一九)、「賢結反、謂以絲縛繒染之、解絲成文日纈也」(巻四七)、「賢結反、案纈以絲縛繒染之、解絲成文日纈、今謂西國有淡澁汁、點之成纈如此、方蠟點纈也」(巻五〇)とされている。巻一九四七および巻五〇の前半は絹織物を絲でしばり、染色を行い、絲をとき、紋様をつくる方法つまり纐纈(絞り染)のことである。また巻五〇後半は中国でなく、西國のこととしているが、何か淡澁汁で紋様をつくったようである。この手法を蠟點纈と呼んだというが、これは中國の蠟(﨟)纈のことで、後世の形糊の法である。以上の他、夾纈いわゆる板締の法も唐代の文献に見える。「唐語林」巻四(「演繁露」巻一一ほぼ同じ)に次のように見える。
玄宗時、柳婕妤妹適趙氏、性巧慧、使工鏤板為雑花、象之而為夾纈、婕妤因生日、献王皇后、上見而賞之、因勅宮中、依様製之、当時甚秘、後漸出偏於天下、
これによると、夾纈は唐玄宗時代に始まり、次第にひろまったとされている。
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