さて、こうして見て参りますと、鑑賞専門家たちの社会化作業というものが社会化された彼らの観念によって我田引水的に自らの問題意識に芸術を引き寄せようとする作業であるということがおわか りいただけたのではないかと思います。 そして彼らの「個人的なもの」が既に「リアルな私性」ではなく、既成のものに寄生することで規制されたイメージの産物でしかないという点は多くの作家にも共通するものでありまして、彼ら双方がその類似性によって反応し合うことで「美術」のイメージが 再生産され続けていることも明らかに認められることです。この均質化された空間を生きながら差異として表象される自我は既に「私たち」としての私ですから、逆に言えばそれは「彼ら」として一括しうるものです。 そして、この「彼ら」の求めるものと求められるものとの、あるいは肯定的であれ 否定的であれ共鳴されつつ言説化・表現されるものの「共同性」によって、現状なるものが捏造されつづけているということもわかりやすいものと思われます。
では、こうしたシステム化された「個人的なもの」の束からなる美術イメージと、リアルな個別性を生きる作家たちから立ち現れる個のなかの超個別的なものとがまったく別物であることを示すために、今度は実作者の側面からその一例を述べてみたいと思います。
八十年代前半のころのことですが、私はニューアカデミズムだとか新表現主義だとかいわれる焼き直し作品群がメディアを賑わせていた所謂「ポストモダン」と呼ばれる「イデー喪失」の時代のなか で、それとは本質的に異なるタイプの作家たちの活動に強い共感を覚えていました。現在は「ポストモダン以後」などといまだに均質化された苦しい呼び方が飛び交っていたりしますが、私が当時共感を覚えた作家たちのようなタイプの人びとは増えてきているように感じています。
私はこれを《私美術》と呼んでおりますが、まずはこの現象について体験的な話を交えて説明して おきたいと思います。この《私美術》という呼称から連想された方もおられると思いますが、これは「私小説」という言葉がベースになっているものです。私が十代のころはこの「私小説」という言葉が冠せられるだけでそれが作品に対する批判になりうるほどの否定的なイメージが文壇を支配してい る時代でしたが、私自身は日本という土壌の或るリアルな状況から必然性をもって生まれてきたオリ ジナルな文学手法と捉えておりましたので、文壇の作り出すイメージにはずっと疑問をもっておりました。
文芸評論家の川本三郎氏は「日本近代の未熟さが生んだ必然としても、この家族、告白というふたつの特色のために私小説は湿気を帯びてくる」と述べられておりますが、もちろん、日本のモダニズ ムは未熟と呼ぶことも決して間違いではありません。しかし、西欧社会がその内的需要によって生み 出したそれを、まったく異なる歴史の流れにある日本にそのままの形で定着させようと考えるのも、それを日本の成熟・未熟と考えるのも、観念だけが西欧化した一部の「知識人」の勘違いであることは前講でカメルーンの青年が述べている通りです。私は「私小説の湿気」は「日本近代の湿気」と深 くかかわるものだと感じています。
日本は近代化しましたが、それは日本の近代化であって西欧のそれとはまったく異なるものです。たとえば、日本人は新しい価値観が輸入されて取り入れられても、それで旧来の価値観が完全に否定されるということにはならないのです。それらは時間をかけて折衷されていくことで「日本のモダニズム」なるものを生み出すのです。家族に関しても封建的な家族制度は大きく変容しましたが、これもやはり折衷なのです。告白においてもまた観念と心情は有機的に結びついています。こうしたリアルな状況をストレートに描写した「私小説」に不可避に「湿気」がまとわりつくことが問題とされるのは二つの理由があると思います。
一つは、小説はフィクションとして現実の擬態としてドライな非日常性として作られるべきである という先入観から鼻につく、作家と作品との癒着性においてであり、もう一つは、湿気のないモダニズムに観念的逃避をしている読者が「日本近代」のなかで否定されなかった湿気を自らの湿気におい喚起され現前化させられることで今度は逃避を邪魔するその作品に反応した自らの湿気から逆に逃避するために作品の湿気が異常に問題にされてしまうという点においてです。時代・世代は替わって「私小説」の再評価がやっと始まりましたが、それでも「湿気」の問題はいまだ嫌悪の対象とされているように私には感じられます。
たとえば新しいタイプの「私小説」作家と思われる柳美里氏は「私は自分がいちばんよく知っている世界を書くという素朴な方法」を守ってきたと言います。ここには既に「私小説」の手法に対する偏見は見られないように思われます。ただし「生活必需品が私を脅かす。部屋に溜まってる殿のようなものが、私をいらだたせ落ちつかない気分にさせる」とも述べられています。つまり彼女のなかで は「リアルな世界」と「リアルな生活」とはイコールで結べるものではないわけです。しかし、このままでは分裂したものとなってしまいます。そこで彼女は「リアルな世界」としての体験を虚構とし て再構成し、「リアルな生活」の感覚をもたらす素材を拒否することでその生活感覚を抑圧(隠蔽)するのですが、この二つの作業が必然的に導くのは「現実の歴史化(=物語化)」という一つのイストワールです。歴史というものが半ば暴力的な現代的解釈や喚起において再構成されたものでしかな いということは周知のことですが、ここで言う「歴史=物語」とはいわゆる大文字の歴史ではなく「私史」であり、「現実」表象が既に歴史化であるのと同じ構図のなかで歴史化を通して現実としての私を自ら受容する作業と呼んでいいものと思われます。つまり、「リアルな世界」を彼女自身がこの世界に存在することの切迫した許可への希求性から、彼女自身の「リアルな現実」に組み替えるわけです。
もちろん、「私史」も歴史化である以上は無自覚に社会的なイデーが反映されざるをえないものです。これは開儀的なコミュニケートの位相にあるものです。でも同時にそこには湿気の一つである自 己愛的な空間が秘儀性をもって付随しているものです。とはいえこの後者は、コミュニケートの位相において明示的に現れるものではないので、一見すると湿気のない私小説が生まれることになるわけです。
これと同様なことが美術の世界でも起こっています。とはいえ「私史」については断片的かつ想起的なものでありまして言葉によって歴史化する傾向は強くありませんから、よりストレートでリアルな現在性を無意識的に孕んだものとなるということは異なりますし、その表現においてもイデオローグなイメージに支えられた言語を用いることは少ないですから、より秘儀的な空間にあるものと言うことができると思います。この秘儀性について、すなわちコミュニケーションに媚びることで去勢されるもろもろの位相を保持し続けたままで、安易な解釈を許さないどころか「私の作品は私にしかわからない」と明言さえしてしまう作家たちの創作作法に私は共感を覚えたのでした。それは意味深さの演出や難解さを深遠さに見せかけるもくろみとはまったく異なるものでありまして、まるでそれなくしては世界(精神文化)そのものが崩壊してしまうような、私がアフリカの仮面から感受したよう「切実さ」を秘めた、「現実」と「自己」との意図を超えた)同時組み替えなのです。
当時の私がイコンという言葉を作品に付していましたのも「それ自身が世界をもち、みる者がそれに与える意味の自由はない」という意味でのことでした。簡単に言いますとこれが《私美術》の作法に共通して見られるものです。ただ、イコンと言いましてもここでは私的イコンです。そこで最も大 切になってくるのがこの「私性」の在りかであり位相の問題かと思われます。
以前、芸大の近くで学生と酒を飲んでいましたときに彼が「私性からモノを作るのは閉じている」と私に断言したことがありましたが、しかしそれはいいかえれば「私の私性は閉じている」という彼の自己表明にほかならないのですね。一昔前のビックリマンシールの人気やポケモンゲームによって現代の若い世代が「全体性(コスモロジー)」や「未知なる異空間 (野生)」を希求していることは既に指摘されていることです。そしてこれをヴァーチャル・リアリティにおいて実現する手段としてパソコンの普及は大きな位置を占めていますね。既に八十年代後半に私はある美術家の青年から「肉眼でみるよりもモニターを通して見たものの方がリアル」だという過渡期的な感覚を聞いたことがあり ます。モニターというのは単なる「外」を映す窓ではなく、少なからず意図をもった他者が介入しているものなのですが、その他者との関係は強要されていないものです。つまり「見られる」という関係がそこにはないのです。すなわち、モニターを通して見ることにおいて、何ら手順を踏むことなく、遠慮や有責性を必要としない一方的な視線だけを実現するものです。
これは「仮面」の効果と似ておりまして、この関係においては自らが誰であるかを問われることか ら自由になり、日常の自己(有責性)から解放される時空間なのだと思われます。ただし、そこでは見せることを前提に意図された他者の視線と同化されることでリアルな他者や「外」に出会うリアリティは自らの非人称化と同様に消滅していることの自覚もまた感受されえないのです。そして、その後はご存じのようにヴァーチャル・リアリティやシミュレーショニズムといったものがパソコンのゲームや情報とともに日常生活の一部として組み入れられつつある状況にあります。これはリアリティにとって単純に否定的に捉えるべきものではもちろんありません。
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次に発言されたのは高階秀爾氏です。彼は社会制度としてのジャンルや、美術館や展覧会コンセプ トの問題性と、その「外」の問題を指摘するだけに止まり、そのヴィジョンは語りませんでしたが、それ以前に彼らに不可欠な「眼力」の問題が認識されない以上はこれらの諸問題も答えが出ないということには無自覚のように感じられました。これはその後に本江氏が「マッピングのメタファーとしての平面絵画」と規定したことを受けて「マッピング(世界認識の方法)、メタファーとしての絵画 は情報化によってバラバラになるのではないか」と述べたことからも窺われるものです。確かに彼らは作品を「情報化」する作業において作品を切り刻み好みの味に調理することによって生計をたてているわけで、作品を「バラバラ」にする情報化の暴力性を捉えているか否かは別として、情報の力は十分に実感されているものと思います。しかし、「世界認識の方法のメタファー」を簡単に情報化で きるものと考えられていることが明らかにしているのは、彼自身の世界認識の方法が情報化されたものの集合体でしかないということであり、芸術家の世界認識の方法(の前=記号論性)に対する無理 解であり、「バラバラ」に情報化しようとする時に逃れ去ってしまう本質を感受しうる「眼力」の不在性なのです。つまり、ここでも情報化不能な「アルケーの場所」は見過ごされたままなのです。さて引き続いて建畠哲氏が自らの疑問を述べられました。絵画は死んだと言われつつ存続していることと、絵画は本質的(本能的)ではないがメジャーであるということに対する疑問です。これらは 同じことだと思います。といいますのは、私が既に述べましたように「死んだ」という言説は現象世界に句読点を打ち「終わり」を捏造することでしか「歴史化」や「歴史に参加すること」のできない平凡な知識人たちの常套手段でありまして、安易な観念化作業で「歴史」を引き継ごうとするものなのです。つまり、そこには新しい観念や変化(進化?)に捕らわれた視線しかなく、本質的なるものの顕現形態としての作品としてではなく、素材や手法の「新しさ」に反応する鈍い感受性で捕らえられた作品群が希求されざるをえないわけです。なぜなら時代区分やカテゴライズを個々の作品に付すことが実は錯であることに気づかないでいるがゆえに先の「情報化」のレベルでしか現象世界を捕らえられない「眼力」の不在がまたしてもここに浮上しているからです。氏はこうした言説の背景の浅薄さを理解されておられないことで「存続」に疑問を抱かざるをえないわけですね。つまり氏もこの観念に反応する観念レベルによってマッピングをおこなっていることが明らかになるのです。ですから当然ながら絵画の「本質性(本能性)」も見えてこない。これは絵画に対する彼のかかわり方 に限られるものではもちろんありませんね。絵画がメジャーであるということの根拠もその発想も、 ですからまったくその本質を捕らえていない以上はマスメディアによって社会化された情報からえた 彼の印象でしかないことが容易に想像できるものです。ただし、彼自らの内にもそれだけでは説明の つかないものを抱えておられるのはわかります。彼は、絵画の存続性は表現衝動などの深い部分との 繋がりにあるのではないかという仮説を述べております。もちろんこれも絵画に限られるものではあ りませんが、この「表現衝動などの深い部分」が先の「本質的(本能的)」なものと「繋がり」が認 められていないことは誠に残念なことです。
この建畠氏の疑問を受けて、谷新氏はやはり「捕らえようとすると逃れる部分」としての「余剰性」を指摘しておられます。特に文筆家なら言語コードによって表現不能な「逃れる部分」は日々実感しているものですが、これを余剰性と呼ぶ理由が言語そのものの貧困さの自覚であるのか、 芸術そのものの型におさまらないダイモン性の認識であるのかは続いて述べられた彼の印象が物語っています。氏は先の酒井氏の「外」の不在性に反論する形で「外とのコミュニケーションは様々な位相で実現されている」と言います。これは私も共感します。先の酒井氏の「外」は制度化された外でありまして、コミュニケーションがその前提とする均質的に秩序だてられたコントロール可能な「外」のこ とです。こうした社会的で人工的な外とは異なる「様々な位相」にコンタクトする芸術家の能力によって「魔術的価値」と中沢氏が呼ぶような創造性が立ち現れるのですね。ところが、です。ほっとしたのはつかの間でした。谷氏は続けて「写真CGも外部的システムとのかかわり」とその一例を示したのです。私は思わず耳を疑いましたが、外部的システムとのかかわりから体得されたダイモン(余剰)性が写真CGという手法で表現されることも可能だと述べているのではなく、ここでも「外」はシステマティックに作られた人工的な外なのでした。そしてこれらはコミュニケーションを「善」とする信念によって発達したものの一つでありまして、つまりは谷氏にとってCGアート(コンピュータ)が、その発達速度のせいか世代的に馴染みが薄いせいかは不明ですが彼個人的に「外部性」を帯びていることを明言しているにすぎないものと言えるわけです。その後も彼は「個人的なものがパブリックになるシステムが必要」と述べております。これだけでは厳密な意味合いはわかりませんが大方の評論家はこの指向をマスメディアによって実現しているものです。
そこでもやはり問題となるのは、個人的なものをパブリックにするために既成の概念(イデー)を用いて個々を社会的に解釈してしまうという倒錯性です。つまり「これはポストモダンだ」と表現形態からのみ判断が下されてしまうことで個人的なものの特異性や独自のリアリティが「余剰性」として削ぎ落とされてしまうことになるわけです。こうした現代の状況を考えるとそれを「システム化」することはまったくもって恐ろしいことです。これは芸術家が本物であればあるほど、「余剰性」を学んでいるわけですから実作者に対しても決して良い影響をもたらすものではありえないと思われるのです。といいますのは、余剰性を抱えている芸術家ほどシステムに乗りにくいということが必然的 に起こりまして、パブリックとして認められやすい社会的位相で制作する人びとだけが公的に力をも つという状況をさらに加速させてしまうことになるからです。
次に発言されたのは宮崎克己氏で、氏は美術史家という立場から象徴的にパブリックなものである美術館というシステムの効果について述べております。まずは三十年前と現在の違いとして「現代美術」を美術館が扱うようになったと述べた後で、百年前の実作者たちは美術館展示のために制作をしていないが現在では作品が美術館用に作られるようになり、前述のごとく巨大化(非日常化)し、器に依存する傾向が生まれたことを指摘しております。美術館というものは明らかに「個人的なものがパブリックになるシステム」として機能することでその存在意義を保っているものの一つです。
これは繰り返しになりますが以前、私が画廊や美術館を「私は何も言いません」が騒がしく主張しつづけられる空間と感じ、その無気質な箱を装飾する意識で作られた作品群に「場所」がないことを みて「外」に向かうことになったという話をしましたが、こうして「外」と感応する作業のなかで得た「私が場所であった」という実感も、その「場所」というのはやはり内でも外でもない境界域に身 を委ねた時に観ぜられる「アルケーの場所」と表現できるものなのです。そして、それはシステマ ティックな世界からは「外」もしくは「余剰性」として位置づけられるものです。これは馬鹿らしい位に単純ですが、意外に根本的な問題として認められるものです。といいますのはシステムの内実をみることなく環境としてこれに依存することで「個人的なもの」は既にシステム(パブリックなイメージ)に侵されているものだからです。たとえば私が先の「目に映るものすべて完璧」という意識に移行したころ、私は自分の展覧会の副題に「未完成とはシステマティック思考の所産である」と記していますが、これは「完成」を判断する意識そのものが学習された既成の価値観に侵されたものでしかないということを述べたものでした。そういう意味でも宮崎氏の「美術が美術館とともに滅んで ほしくない」という危惧はシステムと創造性との相反関係を捕らえたものとしてリアリティのあるものなのです。
さて、最後に本江邦夫氏の発言です。氏は「アートとは何か、アートはアートとしか言いようがない」と述べておられます。これはアートはそれ独自の文脈にあるもので、他の(たとえば言語の)文脈に置き換えたり解釈したりすることは不可能だという認識だと思います。そしてここに私が先に引用したM・エンデの「作品は体験しなければならない」という続きのセリフが隠されているのか否かはわかりませんが、いずれにせよ率直な実感と受け止めていいものだと思います。そして例の「マッピングのメタファーとしての平面絵画」という認識が述べられるわけですが、これの説明として「多次元に生きる人間をマッピングする」のが絵画であるとつけ加えられます。そしてその効果は、二次 元的なものを三次元に補強するとも二次元から三次元を解き放つとも述べられます。ここでいう二次元とは無論「平面絵画」を指すものです。そして三次元とは私たちの住む日常的な現象世界を指すものと思われます。
つまり先の言説をいいかえれば、絵画は現実世界とされる次元に異次元をもたらすことで現実世界の固定化から現実世界に風穴を開ける効果があるということになります。確かに人間は「現実」の多次元性は理解しているものですが、だからといっていきなり高次元世界を体験するのは困難なことかも知れません。逆に二次元の認識は誰でも普通におこなえるものです。となれば明確に二次元の異次 元性が意識されながら、その平面作品に反映された「人間の多次元性」を体験させることが可能であれば絵画は鑑賞者を「現実世界」から解き放つ効果が期待できるものとなります。氏の感覚やそのヴィジョンは確かにわかりますが、これはひどくシステマティックで遠回しな表現でありまして、単なる「理屈」と捉えられてしまう危険性を感じさせるものです。(逆に私の表現は単なる「神秘主義」と混同されてしまう危険性を孕んだものですが。)
ただし面白いのは彼の言説では、実作者の生きる認識世界がメタファーを通してしか表現・伝達の 不能な多次元性にあることが前提とされている点です。これはそういうアーティストに彼が反応してみておられるのか、彼のヴィジョンが芸術体験において反映されてみられているだけなのかはわかりませんが、もちろん彼のなかにそういう感受性やヴィジョンがまったくなければ決してみえないもの でしょう。多くの「専門家」が作品をロールシャッハテスト的に見つめるだけにとどまることで彼ら自身の抱えている個人的な問題やコンプレックスまでも「評論」の形式でさも客観的であるかのごとく表明してしまうという現状から見ましても、氏の「投影」は(仮にそれが投影にすぎないとして も)健康さを感じさせるものではあります。
彼は美術館依存の作品形式の巨大化については「以前は小さくても純粋だった」と述べ、形式論・システム論よりも「作家の内的空間を話し合うべき」であると主張しましたが、この提案は無視されてしまいました。それは他のパネラーたちが「内的空間」よりも観念論に興味があるか、それゆえに「内的空間」を捕らえる感性を失っているかということだと思われますが、それは「美術」を担っているのは、実作者ではなく我々学者であるという危険な倒錯を生み出す元凶にもなりうるものですね。私自身の印象でも、以前は「評論家」というのはハイエナ的な恥ずかしい職業でしたが、といいますのは小説は書けないというコンプレックスや絵は描けないというコンプレックスから彼らは心から実作者の才能を敬っていたことを彼らの文章から感じられたわけですが、一方で評論というジャンルの 自律性とその優れた作品性が認知されるほどの才人が「評論」のイメージを変えたことも事実です。しかし現在はその評論と作品との同格性という観念のみが一人歩きして、かえって評論家が実作者に対して優位に立つという倒錯(勘違い)がシステムの力によってまかり通っているという現状を実感せざるをえません。もちろんそこにはシステム(マスメディアや美術館等の企画展)に乗じたい作家たちの評論家に対する媚び諂いも大きな要因となっているものです。これは先のパブリック・システ ムのもたらす表現の貧困化と深くかかわる一例です。
ともあれ本江氏の言う「純粋」なアートと「内的空間」が彼においてどう捕らえられているのかという問題は、均質化された観念によってそれを討議する価値が認められないままに終わったことで葬られてしまいましたが、逆にそのことによって「個人的なもの」よりもそれを一般化させた「パブ リックな(社会的な)」ものに反応する現在の鑑賞専門家たちの興味の在りかが雄弁に物語られているように私には感じられたのでした。ただしこれは本江氏にも認められるものではあります。
彼は「バックグラウンドの前に何があるのかが見えない時代」だと述べております。このバックグラウンドが作家の「個人的な」 それなのか、時代・歴史的なものを指すのかが不明なので、何が何だか分かりませんが「見えない時代」という表現から恐らくは一般化された概念であろうことは想像できるものです。つまり「私は見えない」ではなく、見えないことを「時代」観念で一般化しているわ けです。これは逆に言えば歴史化(イデー化)された過去の「時代」の作品については、一般化され た概念で見えるということを表明しているようなものです。先ほどは「作家の内的空間」について述べていた彼が、その視点からしか見えてこない(立ち現れてこない)ものが見えないというのはまったく不可思議としか言いようのないものです。善意に解釈するとすれば彼はその指向を強くもってい るけれども、何か(歴史的イデー?)が邪魔をして現在生きている作家の「内的空間」をいまだ捕らえていないということでしょうか。
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「魔術的価値は、いってみれば前=記号論的なのだ。それは記号論が問題にするのよりも、もっと原初的な『境界性』―近代の社会では、ただ芸術だけがそれを問題にしてきたようなアルケーの場所が、これだーにかかわっている。」
(アルケー〔原初〕の場所〈=もろもろの境界面〉そこはピュシスの力と、その力が自分を「まえーにーおしたてる」ものとしての表象とが、ダイナミックに結びあいながらこの世界にあらわれ出ようとする場所だ。だから、そこは危険な力に満ちている。けっして均質化も計量化もできないから、それを秩序だてたり、コントロールしたりするのは、とても難しいのだ。)中沢新一私が大学時代のころですから、十五、六年前になるでしょうか。当時、私はキャンパスで暇をみつけては図書室にこもって、民族音楽をダビングしたり、古今東西の作品集を片っ端からみたり、芸術家や評論家の記した芸術論周辺について読み漁ったり(もちろん一般の図書館では様々なジャンルを横断していましたが)という一時を過ごしていました。そのなかでも強く印象に残りましたのが『美術批評』という雑誌全巻をファイルに綴じたものでした。そのころで三十年位前のものと記憶していますから今から四十年以上前のものということになります。私はこれを読みながら、日本人の問題意識というものがその間に何も変わっていないことに気づかされ、驚き以上にあきれかえるといった方に近いショックを受けたのでした。すなわち、相対化された日本や日本人のイメージ、西欧化された 視点から自らを位置づける作業やそれを前提化したうえでのアイデンティティ問題が戦後ほとんど変 わらないテーマとして論じられてきたという事実です。
これはいいかえれば文化的なコンプレックスの歴史、観念の輸入による積み重ねも進化もしない歴史と呼べるものです。これは「歴史」観念から見ますと矛盾です。
もちろん歴史なるものに付随する暴力的な情報操作を考えますと、この無進化は正しい方向にあると言いたいのですが、残念ながらここにあるのはやはり情報操作による歴史化の試みがことごとく失敗し続けていることに無自覚であるがゆえに自己循環せざるをえないという一種の淀みにすぎないも のなのです。
当時の私は既に述べましたように「目に映るものすべて完璧」という世界とのかかわり方に身を置いておりましたので、私自身はこうした相対的な境界性の固定化から逃れつつ、無境界(=あるいは境界域そのもの)に身を置くことによって立ち現れてくるものを全面的に容認するという作業に入っておりましたから、相対的な差異や類似性に価値を認めようという発想からは既に解放されておりました。
冒頭に引用した中沢氏の記述にもありますようにアルケーの場所という或る種の絶対性は心の本体であるもろもろの境界面そのものを生きることによって実感できるものです。ただもろもろの境界面の「内外」を指向することのみで得られるのは均質化によって去勢された観念です。そこではピュシスの力も危険な力もコミューンとしての自我によって強力に削ぎ落とされ隠蔽されてしまっています。アルケーの場所とは、前講のイダッコの表現でいいかえれば「コントンの宮」ということであり、私の既述表現では精神の各位相にあるものですが、そこにチューニングする技術を問題にしてきたのはシャーマンたちであり、モダニズムに洗脳された社会では芸術家のみだと彼は述べているのですね。彼が芸術に関心を寄せるのは、その官能的なアルスに彼が実体験し体得したシャーマニックな叡知との親和的な高次元性を認めることで「それ」を表現する最もストレートな手段であるとともにアートそのものの本質に何ら違和感なく触れることができたということがあると思われます。最近のシンポジウムでも彼はシャーマニックな感性や能力というものに気づかない人間は増えてきたけれども確実にアートの分野の方々でそれを認めることができると語っておりました。中沢氏と初めてお会いしたのは私が大学を出たばかりのころで、その時も「それ」を言語によって表現することに苦心していることを述べておられましたが、それは現在私が皆さんに「それ」を語ることの困難を実感していることと同様のものと思われます。ともあれ私が今までに会った学者のなかで最もアートの本質を捕らえうる能力をもった人物としてここで紹介しておきたいと思ったわけです。
さて、これもまた十年以上前のシンポジウムで、中沢氏が美術家に反省を求める評論家の発言に対して「エッ?美術評論家に、ではないんですか」と皮肉たっぷりに反撃していたのが印象に残っておりますが、ここでは評論家だけで最近おこなわれたVOCAのシンポジウムを例に「実作者」ではない方々が現在抱いている美術の均質化されたイメージについて述べてみたいと思います。もちろん、マスメディア等で美術の見方を啓蒙しているのは彼らですから「現状」として一般化された美術の ヴァーチャルイメージを知るためには評論家の見方というものは良くも悪くも美術の社会化過程に関する興味深い資料として無視できないものなのです。
まずは美術館問題についてですが、建畠氏は美術館依存の作品の形式や巨大化は作家に責任があると言います。これは以前私が述べましたが白塗りされた画廊空間を想定しながら制作されることで作 品自体が「場所」をもっていないギャラリー・ディスプレイ作業にとどまっている作家の「勘違い」についての話と同様の話です。確かにこういう作家は目に余るほどおります。しかし、日本には多くの美術館が建てられておりますが、ではなぜほとんどの美術館が「場所」を無視した西洋的な白塗りスタイルをそのまま真似しているのかという問題はどうなのでしょう。つまりは私から見ますと両者 に「勘違い」のレベルでは大差があるわけではないのです。
また、谷氏は同様に温室型美術が時間や社会の風雪に耐えうるかという危惧を表明されています。もちろんそんなものは風雪に耐える必要もないものなのですが、実はそんな風雪から温室型美術を守っているものが温室そのものである美術館や観賞専門家たちが生み出す均質化された美術制度や歴史化(観念化)であることには相変わらず無自覚のようですね。すなわち、既製の事象に規制されな がら寄生することで「再生産」され続けている多くの美術作品に反応して、既成の観念に規制されながら寄生しつづけることでしか言説を生み出せない自らの共犯性を棚にあげて、またもや一方的に美 術家に反省を求める構図は、中沢氏が反撃した十数年前と何ら変わらないとも言えるものです。とはいえ、温室型美術の問題は野生性の喪失という問題と表裏一体のものでもありますから、これについては後ほどさらに述べてみたいと思っています。
さて、このシンポジウムは絵画・平面表現に関するものでありまして、次に各パネラーが抱いてい る「現状」に対する印象や今後のヴィジョンについて見てみることにしましょう。もちろん言説というものは決して客観的ではありえないものですので、これらのヴィジョンもまた彼ら観賞専門家たちが抱えているリアルな問題として彼ら自身にそのまま投げ返すことのできるものであることは明らか なのです。
酒井忠康氏は「楽観的ではない」と言います。それは、何を描くかという問題から何をもって絵画たりうるかという問題に移行する傾向によって、「外」の不在な自己完結性に向かっているという理由からです。更に作品の無機質化が進むことによって人間の郷愁の欠如を危惧しているとも言います。この言説からわかりますのは、氏がアルケーの場所からではなく、観念(制度)の場所から絵画というジャンル化に反応しながら、自己完結性をジャンル化の自己完結性と重ね合わせることで(つまり観念的な自己完結性には「外」はありませんから)「外」の不在、すなわち鑑賞者である彼に対しての「コミュニケーション」の不在によって彼が関与不可能となる状態を危惧しているわけです。
評論家のなかには逆に「人間の郷愁」に触れることによって自らのおどろおどろしい心性が喚起されることに不快感を覚えて、コンセプチュアルなものや無機質なものに安心感を抱く方々も見受けら れますが、酒井氏の場合は自らのヒューマンな郷愁が美化されておられるがゆえに、ヴィジョンとしての人間性の回復が明言されるのですね。しかしそれはあくまでもヒューマン・コミュニティの回復という都市生活者が一般的に希求するヴィジョンを美術の文脈で語ったもの以上のものではないわけです。むろん、彼にそう語らしめた「外」の不在なほとんどの作品群が「現代美術」という観念形式にカテゴライズされた「共同体内の外」以上のものではないことも確かです(これは芸術「信仰」を もつ人びとにしか力を発揮しません)が、それでもこうした多数派の作品群やそこから捏造された問題の一般的言説のみをもって「現状」と捉えてしまう氏の側にも既述のようなジャンル問題とそれを 支える美術観念から逃れ切れない現状とを感じざるをえないのです。
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「私の作品を解釈してはならない。私の作品は体験しなければならない」ミヒャエル・エンデ誤解しないでいただきたいのは私が言語的知性を決して否定しているわけではないということです。私が述べていますのは、言葉は身体性から遠ざかっているものだということと、身体的・官能的な更に豊穣なコミュニケーションが現在も私たちの内外に生き続けていることとを対比的にお話することでしか言葉で便宜的に表現することが難しい非言語的な世界から立ち現れてくるものについてです。もちろん、そこでは言葉はヴァーチャル・イメージとして、そこから現実態が再創造されることこそあれ創造されることは既に述べた例外を除いて認められませんが、そのための行動(意志)カとはな るものです。つまり言葉が生み出す観念は使いようによって毒にも薬にもなるということです。私は、皆さんが言葉に騙されるのではなく、方便として利用する側に身を置くことで創造の特異点や実践的 知識に向かう活力にしていただきたいと思っているわけです。
老子は、世界の有と無の流転性とその一性を探求して、有はある「限定態」として生起するものだと考えました。そして世界の絶え間ない運行、変化、生滅の根元作用となるものを「玄」と呼びました。私が言葉の住みかである意識を境界膜に例えましたのも、その境界面をわかりやすく平面と仮定しますとそこを通過する高次元体としての情報が二次元的情報としてしか捉えることができないという図式にも当てはまるものだからです。つまり安易な言い方をすれば無意識の特殊な「限定態」として「有」としての意識が成り立っているというわけなのです。また「玄」に関して言いますと、これを捉えるのがシャーマニスティックな体験ともいえるもので、以前私は日本に伝来した中国の風水思想について少し述べましたが、今では玄武をはじめ青龍、朱雀白虎はそれぞれ方位神とされておりますが、元来は星と対応していたものでありまして、地上に小宇宙を実現する試みなのです。
そしてここでもやはり玄武は北方であり天体運行の根元である太極との対応が窺われるのですが、これが精神宇宙に対応されますと、「玄」は世界の流転性を捉えることのできる心の「一性」の状態ということになるのですね。これはスーフィーでも修験でも見られたものですね。となると幽玄という言葉はかすかにして根源的な作用と訳すべきものなのでしょうか。そしてもしも、これが私の言う緩やかな内的衝動・官能作用と対応するものであるとすれば、幽玄を感じていた人びとは心身的世界と世界との恋愛関係を生きていたのではないかと思ってしまいますのは私の勝手な投影解釈にすぎな いものなのでしょうか。
しかし、私自身は確かに「自我」の消滅した変性意識において立ち現れてくる消去しえない一点、これを私は「不純物」とも「生命が負っている火傷」とも形容しますが、これが自己増殖・増幅することによって、私の存在そのものが一つの不純物もしくは火傷と化すという体験を強いられるような感覚をもっています。この消去しえない一点が私の「玄」だとすれば、それは恍惚と死を同居させた一種の内なるカーニバルでもあり、私を彼岸の笑いに包み込むものです。この時、私の意識は既に私のものではなく、この笑いそのものであり、笑いの波によって激しく明滅しているのがわかるだけです。このとき、私は細胞の一つ一つが奏でる生命のオルガスムスにゆだねられておりまして、その感覚は二つの認識を同時に生み出します。「存在の祭りは(まだ始まっていない)(まだ続いている)。」これは例の、祝りと葬りの不可分な関係を想起させるものでありまして、葬りによってもなお祓い清められないある一点が再び祝りを甦らせるというサイクルなのです。
それは絶対的責任としての「超決定性」とも相対的無責任としての「未決定性」とも言えるもので、いずれにせよ「自我」においては責任を負えない何かとしか言いようのないものです。でもそれらが 一つの存在の共通分母としてあって、これが分子としてのインスピレーションを明滅・生起させていることだけは確かに感じられるものです。そして、これが「玄」と対応するものか否かは証明できな いものですが、そこから表出してくるものは確かに追創造でも最生産でもない、つまりヴァーチャル 限定態としての自我を超えたものであることは実感できるものなのです。それは私にとって、私の責任において表現されたものでは既にないものだからです。
ところで、この責任と無責任の問題は、社会モデルとしての宗教とシャーマニズム(もしくは芸術)との質的な違いを明らかにするものでもあります。三大宗教について言いますと、ここではクライスト・ムハンマド・ブッダといった行者や聖者が神格化されて信仰されるということがおこなわれています。これは神の人格化と合わせ鏡にあるものですが、ここに信者が作り出す「有責性」と「無責性」の二重性が隠されているのです。すなわち、キリスト等を人間の規範として捉えることでそれを信者がモラルやヒューマニズムとして実行しようとするか、そうでなくてもそれを理想として考えることは信者自らの内に「有責性」を生じさせるものなのです。そしてこの「有責性」は信者自身に 社会・宗教的アイデンティティというかたちで定着することにもなります。
逆に、キリスト等を神として捉えた場合は、その超越性において人間である信者の不完全さが容認されるということを意味するものになります。つまり、ここでは信者の内に「無責性」が正当化されてくるというわけなのです。この後者の「無責性」についてフィリップ・ソレルスという作家はこう述べています。
「文化というものは、無意識とはぼくたちのことではないという安心感を与えるために存在するのだということは明白な事実です」
もちろん、ここで言う「文化」とは、カルチャーの語源(耕す)でもお判りかと思われますが、農耕民的な精神土壌に支えられたそれのことです。そして同様のことが宗教にも言えます。それは先の言葉でいいかえれば「宗教というものは、神とはぼくたちのことではないという安心感を与えるために存在するのだ」ということになります。
ともあれヴァーチャル・イメージ化された宗教や文化が社会的な信仰や認知を得る構造としては、「アイデンティティとしての有責性」と「ユートピアとしての無責性」との二重性が受容者側の内に求められていることが条件になっているということです。一方で、私の言うシャーマニスティックかつアーティスティックな世界における「有責性」と「無責性」はこれとは異なる構造をもっています。
たとえば、神であることの責任を問われたと叫ぶアルトーや歴史上のすべての人物の名が私である と言ったニーチェ等は一見すると「有責性」に身を置いているように捉えられるかもしれません。しかし、ここには先述の「神」に対する絶対的な隔絶はありません。むしろ神や歴史といった一種の代名詞を引き受けることにおいて自らを非─人称・前─固有名詞に放り出しているのです。その無境界に融合する前人称的意識において実現されているものは明らかに先のそれとは質的に異なる「無責 性」です。
これは職民・芸能民、そして狩人などがその「技」のなかで活かされている官能的な感覚にも通じ融合的コミュニケーションにも認められているものですし、以前述べました東巴巫師やスーフィーやイダッコといったシャーマニズム的世界においても言えることです。たとえばスーフィーたちの、神が私に神を語らせんと欲しているという感情は論理的にはトートロジーです(もちろん、愛も官能もトートロジカルにしか語りえないものです)が、それは逆に言えば強度の無境界性とそのダイナミズムに心身を委ねることで論理的な根拠など必要としない状態にあるということでありまして、そこでは既にヒューマニズムを超脱した規範が「支」とも「確信点」とも呼べるものから体得された情報として立ち現れ続けている状態にあるわけです。
私が冒頭にミヒャエル・エンデの言葉を述べましたのは、私と同じことを彼が述べていたことに対する無邪気な嬉しさからですが、ここで言う「体験」もまた「私たち」という共同体的自我から、取り替え不可能な「私」に身を置くことによって、あるいは、作者に対して取り替え不可能な「私」を意識することで読者も同様に「私」として接することが求められているということです。これによってしか「体験」は不可能となるものなのです。要するに「解釈」してはいけないといいますのは、理解や解釈というものが「私たち」としての「私」においておこなわれる、浅薄なコミュニケーションにすぎないということなのです。
あるものをディープなリアリティにおいてコミュニケートさせうる知恵として、理解を超えた官能的な体験を直接的に与えうる技術(アルス)として、芸術(アート)が機能してきましたことは幾度も申しましたね。これは先ほどの宗教とシャーマニズムの文脈で言いますと、後者は経験的確信として「直観力」を生じさせるものです。そしてここでは表象されるものは既に世界の残滓です。宗教の方はこれに対して、慣習的確信として「価値観」に収受されるものでありまして、この制度化された 表象が「世界」と等しいものとされるのですね。ある日本の小説家は実作者と思索者という対比について次のように述べています。
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こうした対立的な構図は案外古い歴史をもっているものなのかもしれません。一説によりますと、約四万年前にネアンデルタール人によって霊的感情とともに芸術が生み出されたと言われております。ところが、そのわずか数千年のうちにネアンデルタール人は絶滅します。あくまでも勝手な憶測にすぎませんが、これは生き残ったホモサピエンスサピエンスが、つまり私たちの先祖が、コミュニティすなわち権力を発達させる指向を強くもっていたからではないかと私は考えています。そしてそのコ ミュニティを支えたのが恐らくは宗教的な価値観(円環性)の共有であり、そのための言語によるコミュニケーション(類型化)の発達だったのではないかと考えたりします。
現代の動物学でも集団を成す生物には彼ら独自の言語があることが解かっています。しかもホモサピエンスサピエンスの場合には言語の意味作用が表象の単純化を定着させ、共通の価値観を生み出す までに「発達」したのだとも思われます。そもそも価値観というものは情報というものがもつ歪曲性や操作性の高さという性質に負うところのものでありまして、その情報操作において逆に情報に騙されるということに無自覚であればそれは見る影もなく肥大化するものです。すなわち原初、神は言葉 であったというわけです。こうして成立した強力なコミュニティは当然のことながら強い排斥力をも つものです。いいかえれば消費されるべき情報が何らかの操作によって滞り、具体的な対象を指示し たり規定したりする手段以上のものに摩り替わったときに排他的な信念は観念として強化され、これに基づいたコミュニティにとって異質で他者的な存在であったネアンデルタール人たちは「世界(観)」を脅かす敵として受難を被ったのではないかといったところが私の寓話です。ただ、コミュニティというものは自給自足ではその活力を失う性質をもつものです。これは共同体におけるエントロピーの法則として説明されるものですが、これがその後も戦争という形で異質な外部と目合う歴史を繰り返してきたことはご存じの通りです。戦争というものは単に経済や思想や文明技術の問題だけではなく、「外」に対する本能的指向とそれを実行させる抽象的な「法」の問題としても軽視することのできないものです。
つまり一つのコミュニティが豊かさを保つためには異質な情報を取り込むシステムが必要だということです。これは逆説的な現実と言えるものですが、それは恐らくコミュニティの成り立ちそのものが逆説的な現実を生み出す抽象的なイデーによって支えられているからではないかとも思われるのです。それはたとえば社会的な「常識」としての価値観や信念を規定したときに、これを現実として受 け入れるエネルギーとしてのコンプレックス(欠如感)が強く浮上せざるをえないような現実のことです。こういった話は既にしましたね。しかし私が今問題にしているのはコミュニティがもつ、異質な情報を受け入れる指向に基づいて、コミュニティ内において、その「外部的」存在を条件つきで許容されたものとしてのシャーマニスティックな叡知が、その大きな役割を永らく担ってきたという事実です。
やっとここまでたどり着きました。もちろんそれは先進国の植民地主義や世界を巻き込む大戦、そしてその後の情報化社会への途上で忘れ去られていたものでした。しかしこうした「外」の喪失感と情報の飽和感を抱いた現代知識人によって再びそれが脚光を浴び始めたという皮肉な現状も認められるのです。当然これはシャーマニズムを時代錯誤のオカルティスムとしてしか捉えられないモダニストたちからは、いかさまで安易な本物指向としてのプレモダンやアンチモダンと混同されながら位置づけられて批判されやすいものです。
それでも民族学の分野ではあくまでも科学的見地にこだわりつつもシャーマンの変性意識から生み出される特異な能力や血肉化された情報の豊かさを認めざるをえないという結論を提出し続けているわけでありまして、思想家や知識人を自称するためには一応それを認める程度の寛容さが求められるような風潮さえ一方では生まれているのです。しかしこれも理解できないものがあってはならないという知識人の暗黙の信念に過ぎないものであれば皮肉な寛容さとしか言いようのないものです。余談はさておき、こうした近代主義のなかでも太古からの技術としての儀礼や芸術は各々の文化で 許容されてきました。そして、それらは時に思想として、時に非思想的な情報として利用されてきました。
たとえば文学も、その啓蒙性を取り除いた部分で考えてみましても、社会的イデーが生み出すコンプレックスとしての欲望をヴァーチャルに実現させるリアリティをもって埋め合わせをする機能を担うという予定調和的なものもありますが、一方では人間の自ら自覚されない衝動や経験を構成する普 遍的な「規則」としての欲望を物語の形式内に実現させるという文学そのものの機能にのっとって創 作されるものもあるわけです。後者のそれは社会的コミュニティや時代をも超えて効力をもちうるものです。なぜかと申しますと、それはシャーマンの技術と同様に、そのパターンや規則や機能が人間の生物学的な(生得的な)記憶やその規則を喚起させる血肉化された経験を翻訳(交通)させる力と極似的な関係にあるからなのです。もちろん、それは音楽や美術や演劇、映画などにも言えることで す。つまり、それらはイデオローグな自己投影的解釈に働きかけるのではなく、体験的なものを疑似体験させるもう一つのコミュニケーション技術なのです。これを私は官能的、もしくは内なる野性の働きによるコミュニケーションと呼んでいるのです。
さて、ずいぶん遠回りをしましたが、再び冒頭に述べました「愛の論理」の正体に近づいてまいりました。ただし、これは言葉の論理で説明しようとすると「台無し」になってしまうものですので直截に申しあげることはなかなかできません。そこで私はシャーマニスティックな技術をルーツにもつ芸術を念頭に置きつつ、シャーマンが例の「異質な情報」を体験的に得る過程と、その伝達技術について簡単に述べてみたいと思います。シャーマンが訓練された強力な注意力によって恍惚的な境 地に入っていくことは以前も申しました。この知覚能力を説明するのに最も理解しやすいと思われるものとして狩猟民の感覚を例にしてみたいと思います。
つまりシャーマンは一種の「狩人」だと考えていただきたいわけです。狩人というものに求められている感覚とは何でしょうか。それは一言で言えば自らを消滅させる能力です。すなわち狩人は狩り をおこなうにあたって場所の力に従い、各動植物が発するサインや前兆を正確に感知するために、そ れら野生のもろもろのコードにコンタクトして同一化しなければなりません。特に目標とする獲物の 生きているコードを自らの内に働かせなければなりません。これは官能的な意識でありまして、狩られる動物と狩る人とは恋愛関係とまではいきませんが少なくとも狩人にとってはセクシャルな対象と言いますか、心理的には自らがその動物になりきっているわけですから殺すというよりも目合うという感覚で狩りをおこなうものなのです。でなければ狩りは失敗し、獲物は逃げ去るか、あるいは逆襲されて死傷することにもなりかねません。いずれにせよ、これは明らかに死活問題なのです。
もちろん、こういった人間社会的に非ざる野生(自然)的世界に満ちあふれているサインの数々は、それを感受する能力をもってしかその「存在」は認められるものではありません。つまりこういった経験、すなわち内なる野生を働かせ「他者」とコンタクトせざるをえない状況を知らなければ、この話も簡単に理解されるものではありません。しかし、たとえ経験的に理解できないとしても、こういう現実を生きているシャーマンや狩人がいるということを否定することはあまりにも安易ですからとりあえず保留していただきたいと思います。
以前、私は占い師の話をしましたね。シャーマンにはもちろんその能力がありますが、占い師が占い師として分業化される場合にも占い師に求められているのはやはり官能的な意識であることに変わりはありません。といいますのは、これも「他者」に移入するためにそのコードを同調させて、そこから情報を読み取るという行為でありまして、その「他者」なるものが多くは人間を対象としている というだけの違いなのです。この程度のことは実はだれしもが無意識におこなっていることではないかと思われます。シャーマンは、それ以上に拡大された知覚能力によって自然の諸現象に自らを組み 込むことで自らの心身を媒介にして、そこから直接的な情報を文字通り体得するというわけですが、既に述べましたように問題はその情報をコミュニティ(社会的コード)に翻訳しなければならないこ とです。これは託宣と呼ばれるものですが、この異質なコード間の翻訳の難しさはこれまで幾度も申しあげた通りです。
どうしても翻訳不可能なものが生じてくるわけです。この時、シャーマンは必然的に新しい記号を 創造せざるをえなくなります。言語に限って言えば造語やメタファーが詩歌の技法にのっとって表明 されますし、そこに音やパフォーマンスが同調されます。さらには美術的な技法が用いられることも あります。
こうしたアートの技法は既成の意味世界を脱却させながら、異質な情報を体験的に再構成させることで、人びとの官能にコミュニケートするために不可欠なものなのです。なぜなら、単に経験性から退行した一般的な知性に働きかけることは危険なことでもあるからです。といいますのも、一般的な知性というものは意味構造として閉じようとする力をもっておりますので、それによって逃れ去るものや捕らえ切れない残余を自己防衛として排除する傾向にあるからです。それは異質な情報によって活性化するどころか、異質な情報を異質なままで(絶対的な外として)信仰するか、非現実として託 宣者そのものを社会的残余と位置づけることで排除するという二方向の無知による誤解が待ち受けているからです。ですから託宣においてアートの技術が要請されることは、逆に言えば「体験」という壁を理解し難いコミュニティが抱える問題から発生せざるをえなかったとも言えるのです。
あるスーフィーが真理を乞いに来た人に、もし私がそれを語れば君は石をもって私を殺すだろうと答えたのも、修行や体験を通して得た異質な知識が悟性では理解されないことの危険性を知っていたからなのです。そもそも真理を乞いに来ることそのものが非慣習的な「真知」ではなく予定調和で自己証明的な回答を求めていることだということを智者は見抜くわけですね。また、同様に実践知を重んずる真言密教について梅原猛も、存在の真義はシンボリックに自らを開示するものであって、その開示体験に対する理解こそが宗教や学問や芸術に対しての深い理解者であるか否かの試金石となることを述べています。
ともあれ、以上の例からもおわかりのように狩人やシャーマン(実際にも両者は密接な関係が認め られています)が自らの精神の各位相を自在に行き来しながら世界の各位相と目合うことはイメージしていただけたのではないかと思います。これを私は広義の「愛の論理」と呼んでおります。もちろん、これは私たちが普通に言う愛をも含むものですが、ここでは特に人間性を超脱した(超自我的)世界に立ち現れるものと考えて下さい。
そしてこの「愛の論理」を喚起させ伝達させる技法(アルス)として必然的に要請されたものが アートなのです。
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中島智,《文化の中の野性》,現代思潮社,2000「私たちが芸術をもっているのは、私たちが真理で台無しにならないためである」
ニーチェ今回は手はじめに、これまで私が述べて参りました民俗芸術に通底する思考といいますか、作法のようなものを総括してみたいと思っております。
ハイデガーは真理は言語を住みかとすることを述べておりまして、これを先のニーチェの言葉に当てはめてみますと、私たちが芸術をもっているのは私たちが言語のロジックで台無しにならないためであると読み替えることができると思います。真理なるものが言葉の産物であるとしても、あるいはそれが言葉によって騙されることで成り立つ表象の一つであるとしても、それによって台無しになるものとは一体何なのでしょうか。私の考えでは、それは「愛の論理」ではないかと思います。
私は民俗芸術を現地取材していくなかで、図らずもそれを支えるシャーマンたちやシャーマニックな心性とかかわらざるをえなくなり、またこの現実を必然としなければ民俗芸術はおろか、広義の民俗芸術であるアートの本質も同様に理解しえないという実感を抱くようになりました。たとえば現代では証明できないものは非科学的な幻想として切り捨てられるという傾向に支配されておりますが、これが人類の精神文化にとって大変な損失であることはあまり理解されていないようです。もちろん人間の無知から生じるオカルティスムや迷信のようなものは巷に溢れています。しかし、これらは科学的な思考や学術の対極にあるものではなく、実際は学術世界にも十分に認められるものであることは過去の歴史に限られたことではないのです。簡単な例としてはデータ信仰もその一つでしょう。すなわちそのデータの取り方によって結果はいくらでも変化するものなのですが、その肝心の取り方が最大の関心事にならない限りはデータもまた巷の噂と同様の構造にあるものなのです。薬学の世界でも、その効能は実験によって偶然発見されるケースが多く、その仕組みについてはわからないものばかりであることは、永年の経験から生まれた民間薬と同様なのです。つまり、こうしたラインを現時の社会的信念によって簡単に引いてしまうことも一種の迷信に値する行為であって、それによって台無しになってしまうものが必ず存在しているという認識はもっていていただきたいと思います。
そうしたうえで数十万年の人類の叡知を現代に伝えながら絶滅寸前にあるシャーマンの技術について少しでも理解が深まることを私は望んでいるのです。しかもそれが皆さんの実践であるアートという技術と深くかかわるものであるとすればなおさらなのです。芸術をもちながらにして真理で台無しになってしまうことは不幸以上に滑稽なことですが、実際には笑いごとで済まされることではないの ですからね。
では、講義を振り返ってみることにしましょう。
まず「他者」の問題がありました。「他者」というものは、それが知覚されるためには自らの「内なる他者」が意識されなくとも働かざるをえないのです。でなければ、まず他者は存在しないことに されてしまうものなのです。私はアフリカでの他者体験において、官能的なものが私の意志に関係なく働き始めたという経験についてお話しました。つまり私の言う他者とは異文化でも、個人(他人)でも、動植物でも、あるいは土地のもつ力でもいいのですが、それらが豊かな情報をもたらす他者であるためには、自らの精神のなかにそれらに対応し感応しつつ、それらの各位相に移入するための自在性が準備されていることが望ましいのです。それは、社会的イデーによって成立する「自我」や「信念」、先ほどの文脈で言えば「言語の論理」等が支配する意識的な世界を一時停止させて、それよりもはるかにかすかで緩やかな、しかし確かでリアルな内的衝動に注意を向け続けるという姿勢によって始まるものです。
シャーマンたちは私の言う官能的なコミュニケーションの技術を伝統的な訓練によって身につけた人びとの代表的な例と考えることができます。その一例として私は、中国は納西族の東巴と呼ばれるシャーマンについて述べました。彼らはとりわけ動物の模倣をもって擬自然化した存在になります。ただ、この擬自然化という呼び方は、他者をリアルに知覚できない人びとが安易に自然を擬人化するということに対比させるための便宜的な表現でありまして、正確なものではありません。ともあれ、こうしてシャーマンは、いわゆる下意識を浮上させるとも内なる野性を旅するとも言いえますが、いずれにせよ内なる他者にダイビングすることによって「真知」なるものを体得してきたというわけなのです。
それは、人間と自然、自己と世界とが超決定的に連撃しているという事実を前提にして、その働きの真っただなかに移入していく手法として各地に認められるものです。これは特殊な世界のように聞こえるかもしれませんがだれしもが少なからず意識せずともおこなっていることの一つです。もちろん、シャーマンともなるとある程度の資質が求められるものではありますが、その最大の資質は慣習的な「自我」の意識を捨てる勇気の有無ではないでしょうか。でなければ、その後の修行によって意識は引き裂かれ、下手をすれば狂気によって修行を中断せざるをえなくなるか、修行をいくら重ねても一向に一つのステージから次のテージへ進むことができなくなり、当人は進んでいるつもりでも勘違いな理知的解釈ばかりが増大していくさまを師は感知しますから破門されざるをえなくなるのがオチでしょう。
ところで、こうした擬自然化という内的野性を活性化させる移入技術やそこから得た知恵は、共同体的意識にもち帰られ翻訳されることで「超人的」なものと見なされ、さらに自然を手懐ける意志と結びつくことによって「超自然的」能力と見なされるわけです。いいかえれば、自らの内的野性に触れながらこれと官能的に一体化することは、人間が内的空間において野性的な自然を人間の自然としての文化に転位させることであり、結果的にこれを統べる力を得ることを意味するのです。そして、この時の転位が一種のジャンプでもあると同時に創造を引き起こす特異点でもあるのです。これはアートを考えるうえでも重要なものですから後ほど詳しく述べたいと思います。
さて、私がアフリカでまず疑問を抱かされたのが自我の問題です。繰り返しになりますが、ここを押さえておかないと私の話が別世界の物語と感じられてしまうかもしれませんから、今一度確認しておきたいのです。自我とは共同体としての私であって社会的な信念と切り離せないものであることは 既に申しましたが、この「信念」なるものが自覚されにくいという性質をもっていますのでなかなか理解し難いものと思います。
手短に申しますと、実際は最も移ろいやすいものの一つである現実世界Aというものに対して、それが確固たるものであるという演出をおこないながら、その信仰的現実A’を生産し続けているものが実はその構造だけを断片的に映し取ったある種の感情A’’もしくは熱情A’’にすぎないという心理的重層性もその要因として挙げられるものです。すなわち、そこにあるのは、リアルな「未決定かつ超決定」的な生々しい世界を自己反復によって覆い隠しながら、固定化した世界観の連続性を「法」として捏造し続けることでそれがいわゆる自己同一性(アイデンティティ)を保障することになるというトートロジカルな構造なのです。そして、こうした閉じた構図を現実と捉えることで生じるのがいわゆる「自我」にほかならないのです。つまり自我はある境界を想起し続けながら、その境界面上にあってこの境界性を強化することがすなわち自己(=世界)強化になるというパラドキシカルな閉鎖構造なのです。
これに対してシャーマンは日常的かつ社会的な意識の境界膜から離脱することによってこれを目撃し、やがてそれが見えなくなる位相にまで遥かな旅をすることによって世界の流動性をリアルに高次元体験していく技術をもっています。この時、彼らにおいてはあらゆる「法」は無効となり、プレ自己的とも超自己的とも言える形容し難い絶対的な「規則」すなわち各位相における元型的リアリティに身を委ねているというわけですが、これを民族学では変性意識として日常的・社会的意識と区別することだけはなされております。
この、世界の流動性(未決定性)と絶対性(超決定性)は譬えれば海のようなものと考えればわかりやすいと思います。というのも、シャーマンは知覚の覚醒においてまるで嵐の海のような自我を解体するダイナミックな世界の流動性をまず体験するのです。ただし、これを恐れると意識は分裂を生じ、狂気に陥る危険性もあるのです。しかし、これを人間の自然や叡知への道として、恐れずに受け入れるための十分な準備と導きがあれば大抵の場合は嵐の海に飛び込むことができるものです。この夏の海というものは、恐れて助かろうとすれば波に翻弄されて溺れてしまうものですが、恐れずに身をゆだねダイビングすれば海のなかは打って変わって安らかな世界なのです。つまりはこれが資質としての勇気が必要だと述べた所以なのです。こうしてシャーマンは、死と再生、解体と生成の修行を 重ねていくことで次第に私たちを「台無しにするもの」や私たちを「去勢するもの」から解き放されていくことになります。
ただし、ここで大きな問題が生じます。それはコミュニティやその代表格としての言語制度といっ去勢力から超脱することで得た「真知」をなるべく去勢させない方法で再び社会的位相に翻訳しなければならないということです。これに失敗すれば共同体の人びとは彼を智者ではなく危険人物や狂人と見なし、ややもすれば社会的に殺害されてしまう可能性すら生じるのですからね。通常の言語的なコミュニケーションには去勢作用が不可避に付随してくるわけですから、シャーマンはこの実践知 の翻訳をおこなうにあたって別の方法を取らざるをえないのです。もし、観念的な情報に翻訳すれば、それは自我を生きる人びとにとっては自己投影的な解釈以上のものにはなりえません。ダイレクトに 伝えるためには彼が体得した実践知を疑似体験させるような官能的な手法を用いることがおのずから要請されてくるわけです。
皆さんはもう既にお気づきと思いますが、それがアートの論理です。このことをもう少しわかりや すくするために一つの対比を試みてみましょう。
シャーマニズムは広義の “神道” ではあっても宗教ではありません。宗教は、その要となるものの不可知性を自覚しながら発達したイデオロギーでありまして、実体の不可視性を自覚しない中空性において発達した社会的現実というイデオロギーと実は血縁関係にあるものです。そこで私はここで宗教と芸術について話してみようと思いますが、この宗教は社会的論理と入れ替えてみても違和感のないものであることがおわかりになると思います。
まずは宗教の定義ですが、たとえばヤン・ファン・バールはこれを「真実として受け入れられている、明示的なまた暗黙の概念や思想であり、経験的に確かめることのできない現実に関係するもの」と述べています。しかし、これはコミュニティに属する「信者」の表象を定義したものと思われます。この場合の宗教を仮に芸術に置き換えてみますと、芸術の崇高性の「信者」としての芸術愛好家や観賞者の立場に対応できるものかもしれません。次にクリフォード・ギアーツは、宗教とは「象徴の体系であり、強力で説得的、持続的な人間の気分と動機づけを確立し、それを全存在物の一般的な秩序についての考え方を明瞭にすることによっておこない、そうした考え方に、それが事実であるというオーラをまとわせ、その結果、それらの気分や動機づけが唯一、現実的に見えることになる」と定義しています。この場合は象徴における体験的な機能を一般化することによって間接的なものに移行させることで、コミュニティにとっての現実に受け入れやすくする効果(操作)について述べられているように思われますので、記号操作という視点をもった「神学者」や芸術で言うところの研究者や批評家の立場に近いものとも言えるものと思われます。
いずれにせよ、そこに共通して見られるのは共にコミュニティの側から「不可知」なものを非カテゴリーというカテゴライズによって単純な神秘性をフロッタージュするか、社会的な「法」に則してカテゴライズすることによって単純な政治性をフロッタージュしようとする思考によって、虚のなかの実を求めながら虚の側に立脚した論理であるということです。すなわち両者ともに「体験」から遠ざかることで宗教をヴァーチャルリアル化しているという訳ですが、これは先に述べましたようにもともと宗教というものが啓蒙的な社会的論理と近似的なものであると同時に、その論理のトートロジーをトートロジーではなく円環的な権力にすり替えてきたという歴史がその根幹にありますので、これに則せば必然的に単純な権力を再び帯びざるをえない認識作用であると言えるものなのです。ではこれに対して芸術やシャーマニズムの論理はと言いますと、これは宗教・社会的論理にとっては現前性・顕在性がありながら、やはり不可知であるがゆえに宗教に対してのそれとは異なる意味で 強力に一般化(カテゴライズ)される試みがなされつづけている歴史をもつものです。芸術が、神性としての聖者=行者的論理に導く象徴体系からコミュニティとしての宗教的論理を広告する啓蒙的な象徴体系と化し、再び宗教的コミュニティからの独立性を主張することになった近代の西欧社会において特にこの傾向は顕著です。
仮に双方に愛の論理という言葉を冠してみたとしましても、両者の間には大きな壁が存在しています。それはこの文脈で最もわかりやすく述べれば、訓練や実践といった「体験性」の有無です。しかも芸術の論理を生きる人びとにとっては神学者や宗教学者たちが始めに捉える「不可知」が不可侵性 やタブーにすり替わることなく「リアルな知」として生きられているという点です。つまり先の神という観念のテキスト化によって保護された「神秘」は、ここでは生命体とリアルな超自然的現実をシ ンクロさせる力がもつ相互可侵的な「神秘」に置き替えられるものでありまして、この超自然といいますのは非人間的で文化に位置づけられた自然という観念レベルを超脱したリアルという意味のもの です。もちろん、これはもとよりトートロジカルな宗教=社会的言語コードでは捕らえることのできないものでありまして、知覚や交感の訓練によって得られる非円環的な「体験」であり、そこからおのずから知識がもたらされる愛の実践なのです。
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(原文連結,用Grok翻譯)若開與撣族的建國神話若開最具代表性的神話,講述佛陀如何教化當地一位名叫旃陀蘇利耶(Chandrasuriya)的國王。國王請求佛陀留下一個代表他自身的信物,並獲得佛陀允許,得以依照佛陀的樣貌鑄造一尊金屬佛像。佛陀隨後親自向這尊青銅像吹氣,使冰冷的金屬獲得生命與能量。這則神話現存最早的文字記載可能出自十六世紀,但傳說的核心內容與對這尊佛像的崇拜,很可能早在十四或十五世紀便已同步發展起來。
這尊金屬佛像逐漸成為若開王國的象徵,也正因如此,它後來成為貢榜王朝波道帕耶王(King Bodawpaya,在位1782–1819年)的目標。波道帕耶王吞併若開後,將這尊佛像遷移到他位於阿瑪拉普拉(Amarapura,今日曼德勒市範圍內)的首都附近。如今它被稱為摩訶牟尼佛像(Mahamuni Buddha),是緬甸最神聖的佛像。
另一則神話則將若開王國的建立直接與巴利文《本生經》第454則連結起來。在這則本生故事中,十兄弟征服了一座名為陀瓦拉瓦提(Dvaravati)的印度城市,而這座城市被等同於若開的現代桑多威(Sandoway)。十兄弟的妹妹安闍那提毘(Anjanadevi)則定居在維沙離(Vesali),同樣被認定為若開境內一座同名的有城牆城市。這則巴利文本生經提供了神話的基本輪廓,但其餘內容則反映了當地傳說。例如,安闍那提毘的後代與一位國王聯姻,這位國王的出身是婆羅門隱士與一頭母鹿的結合。這位國王建立了丹那瓦提(Dhannavati),在若開被認定為那座供奉摩訶牟尼青銅佛像的帶城牆城市。故事最後,這一王朝的一位成員與一位來自印度、屬於釋迦族(即佛陀王室家族)的逃亡王子結婚。
撣族在十四世紀從中國南方進入上緬甸。他們從未形成單一的撣族王朝,而是建立了超過二十個獨立王國;其中有些規模龐大,相當於現代比利時的大小,有些則極為袖珍。撣族與上緬甸的緬族之間關係長期處於緊張狀態,從1551–1581年在位的勃因瑙王(King Bayinnaung)展開北伐開始,緬族通常佔據上風。不過,撣族宮廷作為朝貢國,長期享有高度自治,先是對緬族王朝,後來則是對英國殖民政府。原生的撣族神話如今已不復存在,但現存十八世紀末至十九世紀的撣族國家編年史中,記載的神話大多模仿緬族傳說,卻巧妙地調整以適應當地情境。例如,撣族宮廷將自身起源追溯到同一批釋迦族遷徙至上緬甸的過程,但聲稱其中一支釋迦族後來分裂成眾多撣族氏族,這一概念便是借自緬族編年史。
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勃固的孟人王國現存最早的孟人建國傳說,見於十幾塊石刻銘文,這些銘文大多立於達摩悉提王(King Dhammazedi,在位1472–1492年)統治時期,或可能稍早一些。從這些銘文中浮現出三則重要的傳說。
其中一則以佛陀的弟子、阿羅漢伽梵波提(Gavampati)為中心。他在前世是下緬甸人,而下緬甸在銘文中被稱為蘇萬納布米(Suvannabhumi),意即「黃金之地」——這是取自巴利文獻的一個傳奇地區。伽梵波提這個人物的基本靈感,源自一部在南亞與東南亞廣為流傳的梵文佛教典籍《大業分別經》(Mahakarmavibhanga)。
根據這則神話,蘇萬納布米的第一位國王,是伽梵波提前世的親戚。伽梵波提說服佛陀率領兩萬聖者前來國王首都達通(Thaton),為國王與民眾說法。當時,佛陀答應國王,將由伽梵波提從印度佛陀火葬堆中取出的佛牙舍利贈予他。這枚佛牙後來增殖成三十三枚。國王將每一枚都分別安置在首都達通的石塔中。從佛陀火葬堆中取出佛牙的情節,幾乎可以確定是仿照斯里蘭卡康提(Kandy)佛牙舍利傳說而來。
在同一次造訪達通期間,根據十五世紀的銘文記載,佛陀將六枚佛髮舍利分別贈給六位隱士。每位隱士帶著舍利返回自己的隱居處,並在上面建造石塔。目前只有一處地點能明確辨識,即達通北方克羅薩山(Mount Kelasa)頂上的一座已修復的佛塔。到了十六世紀,這則以佛髮舍利為核心的傳說,便與吉諦瑜的大岩塔(Kyaikhtiyo Golden Rock Pagoda)結合在一起。
孟人銘文中記載的佛牙舍利與佛髮舍利故事,最後都以達通國王去世後、蘇萬納布米佛教衰退作為結尾。接著,這些銘文跳過佛陀入滅後的236年,來到印度阿育王時代的第三次佛教結集。結集結束後,兩位傳教僧侶索那(Sona)與烏塔拉(Uttara)奉派從印度前往蘇萬納布米,教化當地民眾。在他們停留期間,與當地國王一起發現了那些已被遺忘的佛塔,並加以修復。這兩位僧侶的傳教活動,在早期斯里蘭卡歷史編年史《島史》(Dipavamsa)與《大史》(Mahavamsa)中都有記載,而孟人的傳說便是以這些巴利文獻為基礎。索那與烏塔拉將佛髮舍利塔恢復到原址,但三十三枚佛牙舍利則從荒廢的佛塔中取出,由兩位僧侶分散到全國各地。其中唯一能與這次分散行動連結的紀念物,就是位於勃固(Pegu,或稱Bago)的瑞摩屠佛塔(Shwemawdaw Stupa)。
第三則十五世紀的孟人神話最為重要,因為它奠定了瑞大光塔(Shwedagon Pagoda)的基礎。據信塔內供奉著佛陀親自贈給兩位兄弟達普薩(Tapussa)與巴利卡(Bhallika)的八枚佛髮舍利。這則神話刻在三塊石板上,年代約在十五世紀最後二十五年。每塊石板分別以孟文、緬甸文和巴利文刻寫。這些石板原本位於瑞大光塔所在山丘的東坡,後來被移至塔基平台上。
這則傳說的根源來自巴利文經典中一段簡短的記載:兩兄弟曾供養佛陀食物,但沒有從佛陀那裡得到任何回報。然而,五至六世紀的巴利文註釋書將這段故事大幅擴充,聲稱達普薩與巴利卡從佛陀那裡獲得了八枚佛髮舍利。在早期巴利文獻中,這兩兄弟據說來自烏卡拉(Ukkala,即今日印度奧里薩邦);但到了十五世紀,他們已被聯繫到下緬甸的蘇萬納布米。在瑞大光塔銘文中,八枚佛髮中的兩枚被一位名叫闍耶蘇羅(Jayasura)的蛇王偷走,這一情節直接取自十至十一世紀斯里蘭卡的巴利文編年史《那拉達都瓦姆薩》(Nalatadhatuvamsa)。因此,十五世紀的孟人相信塔內供奉的是其餘六枚佛髮。在後續幾個世紀中,這則基本神話被大幅擴展。
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(原文連結,用Grok翻譯)儘管緬甸的神話種類繁多且令人眼花繚亂,但真正塑造國家認同的核心傳說其實只有少數幾則。這些重要的神話在數百年前原本各自侷限於不同地區,但隨著國家政治與文化逐漸整合,在過去幾百年間,它們也逐漸融合成一個涵蓋全國的共同願景。這些主要神話最早出現在十五至十六世紀,大多取材自巴利文經典、其註釋文獻,以及斯里蘭卡的巴利文編年史。其他一些建國故事則有梵文淵源,還有些來源不明。這些神話共同支撐起今日緬甸最神聖的幾處聖地,包括仰光的瑞大光塔(Shwedagon Pagoda)、下緬甸的傑迪約金岩塔(Kyaikhtiyo Golden Rock Pagoda)、上緬甸的瑞塞多金足印塔(Shwesettaw Golden Footprint Pagoda),以及連接若開與上緬甸神話的摩訶牟尼佛像(Mahamuni Buddha image)。此外,還有一則神話宣稱緬甸的王朝世系源自佛陀家族,或印度釋迦族(Sakya clan),這一點將各地區連結在一起。這個主題在貢榜王朝時期(1752–1885)得到進一步發展,其靈感來自巴利文獻中記載釋迦族幾乎被鄰近王國滅絕的故事。一位逃離屠殺的釋迦族國王,被後世緬甸編年史家認定為建立國家第一個首都——位於曼德勒以北、築有城牆的達岡(Tagaung)——的君主。這位國王名叫阿比羅闍(Abhiraja),但在古典巴利文獻中並無記載。達岡後來與緬甸後續所有的首都產生關聯,包括蒲甘(Bagan)、阿瓦(Inwa),甚至十九世紀的曼德勒。最早的建國神話緬甸有記載的最早神話出自蒲甘,見於江喜陀王(King Kyanzittha,約1084–約1112年在位)時期的石刻銘文。銘文中記載,佛陀親自在臨終之際預言:一位名叫「比斯努」(Bisnu)的聖者將建立名為斯里差達(Sri Ksetra)的城市,而在一千六百三十年後的未來世,他將轉世為蒲甘國王江喜陀。江喜陀的父親屬於太陽王朝,這一王室血統借自印度神話;而他的母親據說可能出身於一棵木蘋果樹(Aegle marmelos)的果實。這則早期神話強調了將王國的建立與更廣大的佛教世界連結起來的重要性,這一主題後來成為緬甸所有建國傳說中不斷出現的主旋律。在這則銘文中,佛陀是在印度發出預言的;但在後世大多數的建國神話中,佛陀親自來到緬甸,通常會教化當地國王與民眾,並留下供人禮拜的自身信物,例如佛髮舍利。阿瓦緬甸王國的建國神話上緬甸緬族(Bamar)最重要的建國神話,首次見於1520年在阿瓦編纂的皇家編年史《亞扎溫喬》(Yazawin-gyaw,《著名編年史》)。這則神話取材自巴利文經典《普諾瓦達經》(Punnovada Sutta)的註釋。巴利文原故事發生在印度西部的蘇那帕蘭達(Sunaparanta)地區,該地區包括納瑪達河(即今日的納爾默達河);在緬甸版本中,這些地名被轉移到緬甸境內。例如,上緬甸被認定為蘇那帕蘭達,而納瑪達河則被視為曼河(Mann River)——伊洛瓦底江的一條支流。
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(原文連結,用Grok翻譯)緬甸現代考古學的開端緬甸的考古學,起源於1901年印度總督寇松勳爵(George Nathaniel Curzon,1859–1925)的一次官方視察。寇松以支持印度考古調查局聞名,且個人對歷史遺跡的保護深感興趣。他在1886年緬甸被英國吞併後,看到曼德勒王宮破敗不堪的景象,深感震驚。於是他迅速下達詳細命令,要求維護、看管並修復一批最重要的建築物,並規定原本位於王宮區內的英國上緬甸俱樂部和基督教堂必須遷移到其他地方。
1902年成立的「緬甸考古調查局」(Archaeological Survey of Burma),最初由印度考古調查局負責管理,其年度報告也包含有關緬甸的內容。早期的研究重點主要放在銘文學(epigraphy)上。因為這些銘文是了解緬甸歷史最重要的第一手資料,大量銘文急需被閱讀、編目,並妥善保存在安全的環境中。此外,遺址遭盜掘也是當時的一大問題——這個問題至今依然存在,更進一步加劇了許多緬甸藝術品來源與年代斷定的困難。
該調查局的第一任主任是埃米爾·福爾哈默(Emil Forchammer,1851–1890),他是一位巴利文學者與銘文專家,早年曾撰寫有關緬甸法律以及若開邦古物的著作。接替他的是杜成誥(Taw Sein Ko,1864–1930),一位具有中緬混血背景的公務員。在他傑出的職業生涯中,經常扮演緬甸民眾與殖民政府之間的溝通橋樑。早在1893年,他擔任緬甸助理秘書期間,曾巡視孟人地區,返國後便積極倡導將孟人文物保存在仰光(Rangoon)的費爾博物館(Phayre Museum)等機構中。擔任考古局主任期間,杜成誥於1904年在蒲甘阿難陀寺(Ananda Temple)旁的一棟小建築內,開設了緬甸第一座考古博物館,用以展示石刻銘文與雕塑。
接替道盛哥擔任主任的是查爾斯·杜羅塞爾(Charles Duroiselle,1871–1951),他同樣是一位著名的巴利文學者與銘文專家,曾出版多本專著,包括有關曼德勒王宮以及瑞鐵雷克佛塔(Hpetleik Stupas)的本生經陶磚等主題。1940年,杜羅塞爾的繼任者呂佩溫(Lu Pe Win,1919–1958)接掌職務,並一直擔任到殖民時期結束。
1910年3月29日,四位才華出眾且日後皆有卓越貢獻的人物共同創立了「緬甸研究會」(Burma Research Society)。其中,高登·盧斯(Gordon H. Luce,1889–1979)曾是英國布魯姆斯伯里文學圈的成員,在仰光政府學院擔任英文文學講師。他將餘生全心投入緬甸歷史、語言以及蒲甘史的研究。彭茂田(Pe Maung Tin,1888–1973)則是一位巴利文學者,他與盧斯合作翻譯了緬甸重要的歷史文獻《琉璃宮史》(The Glass Palace Chronicle)。J. S. 弗尼瓦爾(J. S. Furnivall,1878–1960)後來以其對殖民政策的論著而聞名;而J. A. 史都華(J. A. Stewart,1882–1948)則成為緬甸語專家,並編纂了一部緬英字典。他後來還擔任倫敦大學緬甸語教授,並參與創立倫敦大學亞非學院(SOAS)的東南亞研究系。
緬甸研究會提供了一個平台,用以「調查文獻,並鼓勵與緬甸及鄰近國家有關的藝術、科學與文學發展」。該會定期舉辦會議,在當時極為特別的是,當地緬甸人與外國人能以平等的身分共同參與。他們發表各種主題的學術論文,並刊登在《緬甸研究會期刊》(Journal of the Burma Research Society)上。除了日本佔領時期之外,這份期刊從1911年開始定期發行,直到1977年才被當時的緬甸總統奈溫(Ne Win)突然下令停刊。
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(原文連結,以Grok翻譯)緬甸是世界上民族最多元的國家之一。今日這個國家共有135個官方認可的民族,每個民族都有自己獨特的生活方式、語言,以及不同的信仰體系,包括佛教、伊斯蘭教、基督教、印度教與萬物有靈信仰。
我們決定舉辦一場以緬甸佛教藝術為主題的展覽,主要是因為佛教在這個國家擁有悠久且持續不斷的歷史。即使到了今天,全國將近九成的人口仍是上座部佛教的虔誠信徒。這些信徒包括緬族這個主體民族,以及撣族、若開族和孟族,他們合計約占目前人口的85%。這本圖錄與展覽,希望能作為一個起點,幫助大家更深入地認識緬甸獨特的佛教文化,並進一步探索這個國家豐富而非凡的多元性。
1795年6月,一頭剛捕獲的白象被送往伊洛瓦底江上游的古都蒲甘。當時正在巡視的國王波道帕耶(1782–1819年在位)於6月23日在盛大的儀式中接收了這頭白象。在佛教盛行的東南亞,白象一直是王權的重要象徵。將近一千年前,也有一頭白象參與了蒲甘王宮的落成典禮。
今天,在仰光和新首都內比都,公開展示的白象不再由國王飼養,而是由緬甸政府負責照管。然而,這種延續超過一千年的象徵提醒我們:在緬甸,過去始終緊緊包圍著現在,世俗世界與佛教世界也自然而然地融合在一起。
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RAKHINE AND SHAN FOUNDATION MYTHSThe defining myth in Rakhine featured the Buddha's conversion of the local king named Chandrasuriya. He asked the Buddha to leave a token of his person, and the king then received permission from the Buddha to cast a metal image in the Buddha's likeness. The bronze was then brought to life by the Buddha by breathing upon it, infusing energy into cold metal. The earliest surviving text in which this myth is found is perhaps dated to the sixteenth century, but the core of the legend and the worship of the image probably grew up in tandem in the fourteenth or fifteenth century.
This metal image grew to symbolize the Rakhine realm, and it was for this very reason that it became the target for King Bodawpaya (r. 1782-1819), who annexed Rakhine and removed the image to its current location outside his capital of Amarapura (now within the present day city of Mandalay). It is now called the Mahamuni Buddha and is the most sacred Buddha image in Myanmar.
Another myth links the very foundation of the Rakhine kingdom to a Pali jataka (no. 454). In this jataka, ten broth- ers conquered an Indian city known as Dvaravati, which was identified with modern Sandoway in Rakhine. The brothers' sister, Anjanadevi, settled in Vesali, also in India but identified with a walled city of the same name in Rakhine. This kernel from the Pali jataka provided the myth's raw outline, but the remainder of the myth reflected local lore. Anjanadevi's descendants, for example, married a king who was the issue of a brahmin hermit and a female deer. This king founded Dhannavati, identified in Rakhine as the walled city containing the temple that housed the Mahamuni bronze Buddha. The story concluded with a member from this dynasty wedding a prince fleeing from India who belonged to the Sakya lineage, the Buddha's royal family.
The Shan entered Upper Myanmar by the fourteenth century from southern China. There was never a single Shan dynasty but more than twenty independent kingdoms; some were enormous, of a size comparable to modern Belgium, while others were miniscule. The Shan and the Bamar of Upper Myanmar were always in a contentious relationship, with the Bamar generally gaining the upper hand, beginning with the northern conquests of King Bayinnaung (r. 1551-1581). The Shan courts, however, enjoyed great autonomy as tributary states, first to the Bamar and then to the British. Original Shan myths no longer survive, but the extant Shan state chronicles from the late eighteenth and nineteenth centuries contain myths that were largely modeled on Bamar legends but cleverly adapted to local circumstances. Shan courts, for example, traced their origins to the same Sakyan migration to Upper Myanmar but claimed that one Sakyan division split into numerous Shan clans, a concept borrowed from Bamar chronicles.FOUNDATION MYTHS OF MYANMAR The most well-known Shan legend centers on five Buddha images enshrined within the Paung Daw Oo Temple at Inle Lake; the lake was part of the Shan kingdom of Nyaungshwe. The myth surrounding the images is a conflation of episodes found in the classic Bamar royal history, The Glass Palace Chronicle, but much was completely domesticated to Inle Lake. The myth featured an ogress whose son was saved from drowning in a lake by Pagan's King Alaungsithu (r. 1113-1169). The lake, set on a mythical island in the Bamar version, was transposed to Inle Lake in the local chronicles. This ogress thanked a deity for her son's rescue and received in return four sandalwood logs and a piece of the "southern branch" of the Bodhi Tree. These wooden treasures were presented to Alaungsithu, who sculpted five Buddha images upon his return to Pagan. The king then placed the images on his royal barge, and, after cleaving a passage in the mountains surrounding Inle Lake, hid them in a cave. Discovered by the royal family of Nyaung-shwe in the fourteenth century, the five Buddhas have been worshiped by the royal family and the inhabitants of the lake area ever since. This myth probably arose only in the eighteenth or early nineteenth century and at that time entered the local chronicles. The buddhas are now completely concealed in gold leaf, applied over decades by devotees. In the twentieth century, with far easier access to Inle Lake, these five images have entered what might be called the national pantheon.
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