5. 共通した作風を見せるタミル地方出土の石彫仏像(2)

以上、11、12世紀の制作と推察される一群の石彫仏像についてを紹介した。一方、インド深南部には異なる作風をもった複数の仏像を見い出すことができ、それらの中には同地方において仏教信仰がいつまで 続いたかを伝える重要な作例が含まれている。さて現在、同地方における仏教関連の出土品の中、最も時代が下る作例の一つとされるのがチェンナイ州立博物館に展示される金属製の仏立像である。像高67cm、台座と光背を含めると高さ105.5cmを誇る同像は、かつてタンジャーヴールの町で礼拝されていたもので、ラーマチャンドランは以下のように解説しているまず同像は長方形と円形の蓮華座を組み合わせた台座に立ち、本尊はキールティムカを頂上にもつ光背で囲まれている。同像の右手は施無畏印、左手は与願印を結び、いずれの掌にも花文様が見える。また仏陀は布端を畳んだ大衣を纏う。同像において顔は卵型、鼻はワシの嘴のように曲がり、先端が尖る。同像の眉間には白毫が確認できる。頭部は6列の螺髪で覆われるが、それぞれの螺髪は実際の巻き毛を表現したというよりは装飾的に描かれている。また、5つの火の舌からなる炎の表現が頭頂部にのる。一方、作風についてラーマチャンドランは、同像が入念なモデリングで制作されてはいるが、顔には表情が欠け、制作年代については16世紀後半とみなしている。なお、同仏立像に関してデヘー ジアは平板状に表わされた螺髪、巨大なサイズの炎の突出部など、同像の極度に様式化された表現に注目、制作年代については16世紀と推定している。
さて、材質の違いはあるが、同仏立像と非常に近い作風をもつ石彫仏像がタミル・ナードゥ州には複数、見られる。カーンチープラムから南に13キロ離れたアールッパーッカム(Arppakkam)村には現在、ヴィシュヌ派のアーディケーサヴァ・ペルマール(Adikesava Perumal)寺院がたち、その境内で石彫の仏立像が一体、保管されている。馬蹄形の石板に仏陀の姿が高浮彫りされたもので、その偏袒右肩の大衣はくるぶし近くまで垂れ、膝下には大衣の下端が描かれる。また、大衣の端は一部が畳まれ左肩から下がり、余り布は左腕にかかる。頭部は下部両端に丸みがあるアーチ状の頭光を抱いている。頭光の内周縁には蓮華の花弁が並べられ、石板の最上部には正面向きのキールティムカが表わされる。同仏立像は顔面の磨滅が激しく、細部の確認は難しいが、弧を描く弓状の眉を見ることができる。開眼したアーモンド型の目はひときわ大きい。また、チェンナイ州立博物館の金属製仏立像同様、耳朶の下端は肩の上まで届いていない。頭部は螺髪で覆われるが、水平に並んだ螺髪は様式化された表現をもつ。なお、上に紹介したチョーラ朝後期の仏像において、頭頂部と炎の境目には1列分の螺髪が隆起、炎の台座のような形を成していたが、16世紀と推定されるチェンナイ州立博物館所蔵の仏立像、また同寺院の仏立像では炎が直接、頭頂部に接している。同寺院の石彫仏立像とチェンナイ博物館の金属製仏立像で特に近い表現は体躯の描き方である。いずれの像においても大衣の薄い衣が体に纏わりつき、衣を透かして量塊的な肉 体が表わされている。発達した胸部の筋肉は盛り上がりをみせ、腹部は前面に隆起しつつ、弧線で下腹部の窪みが明瞭に示される。また大腿部の付け根に溝を刻んで鼠蹊部が表わされ、張りのある逞しい太腿が描写されている。以上のような身体表現は極めて肉感的かつ写実的で、様式化された顔貌とは対照的な表現である。チェンナイ博物館所蔵の金属製仏立像、アールッパーッカムの石彫仏立像においては、このような相反する表現様式が1つの身体の上に共存し、一見、奇矯な印象を与えている。同時に、これらの仏像におけるモデリングは力強く、彫像としての充実感、強い存在感をもつことも否定はできない。その意味で、いずれの仏像も独自の美意識に則った完成度の高い作例と見ることができるだろう。
チェンナイ州立博物館所蔵の金属製仏立像、そしてアールッパーッカムの石彫仏立像に共通する作風は別の作例にも見ることができる。カーンチープラムより北西に16キロ離れたヴェールール(Velur)県パッルール(Pallur)ではブッダ・メードゥ(Buddha medu, タミル語で「仏陀の塚」という意味)と呼ばれる場所から3体の仏像が発見、 現在、同地に建てられた祠の中に安置され、村人からの礼拝を受けている。3体の仏坐像のうち1体は頭光や背障を持たない丸彫りの石彫仏坐像で触地印を結ぶ。他の2体についてはアーチ状の頭光を伴う仏坐像で、いずれも禅定印を結んでいる。これら3体における頭頂部の炎の突出部、偏袒右肩の着衣法、左脚に右脚を重ねる座法などは一般的なインド深南部の作例と変わるところはない。ここで問題となる仏像は祠の中央に鎮座する石彫保存状態がよく、細部までその表現を確認することが可能である。上向きの花弁と反花を合わせ、その上下に方形の帯を配する二重蓮華座の上に同像は禅定印を結んで坐す。マカラの口から放出されるアーチが同像の頭部周辺を囲むが、その内周縁には蓮弁の列が配され、外周縁には波打つ隆起により火炎が表わされている。同像は図像上、他の仏像と同じ形式を持っているが、その作風は独特である。まず体躯表現であるが、同像の肩 幅は非常に広く、上腕は張り、逞しさが全面に溢れ出ている。組んだ脚の筋肉、また臍を中心として前方に隆起する腹部、左右の大腿部の付け根に溝を刻んで鼠蹊部を表現する等、その身体表現は極めて写実的である。一方、同像の顔貌であるが、開眼したアーモンド形の目は異様なまでに大きく、さらに目は全体が前方に突出する。巨大な目に対しV字を描く口は極端に小さい。また、同像の頭頂部にはしずく状の三角形を形づくる炎がのっており、炎の底面には小さな楕円形、そこから発した4本の曲線が先端 まで伸びて5つの炎の舌となっている。何よりも特徴的なのは炎の大きさであり、デフォルメされた表情と相まって、巨大に燃え盛る炎が同像に特異な印象を与えている。なお、上に紹介した作例と同じく、同仏坐像では直接、炎が頭頂部に接する。以上のように、様式化された顔貌、写実的で肉感性を重視した体躯、さらに頭頂と炎の接触の仕方など、パッルールにおける同仏坐像の表現はチェンナイ州立博物館所蔵の金属製仏立像、アールッパーッカムの石彫仏立像と多くの点で通じている。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

4. 共通した作風を見せるタミル地方出土の石彫仏像(1)

以上のように、インド深南部における彫刻の様式変遷は緩やかながらも、それぞれの時代において個々の特徴を見ることができる。さて、同地方の仏像には画一化した図像形式が認められつつ、その作風は多岐にわたり、制作年代が長期間に及ぶと予想されている。そのため、当稿では近似する作風をもった複数の仏像を選出し、それらの造形的特徴を把握してみたいと思う。
タミル・ナードゥ州セーラム(Selam)県のアートゥール(Attur)から20キロ程離れたティヤーガヌール(Tyaganur)村にはブッダル・コーイル(Buddar Koyil, タミル語で「仏陀の寺」の意)と呼ばれる寺があり、同村で発見された石彫の仏坐像が村の人びとに拝まれ続けている。像高は約2メート、同像はタミル・ナードゥ州出土の仏坐像の中でも類をみない大きさで、かつて当地に大規模な仏教寺院があったことを想像させる。このティヤーガヌールにはもう一体、卓越した造形、さらに保存状態が良好の石彫仏像が残されている。こちらの石彫仏は長らく屋外に放置されていたが、同像を保管するため、ティヤーガヌール村周辺地域の行政管理担当者が広く寄付金を集め、2013年6月、ブッダル・ディヤーナ・マンダパム(Buddar diyana mandapam, 仏陀の禅定の堂)の施工が開始された。同堂の外装はストゥーパを模しながら、広々としたホールの中心には現在、屋外から移動された仏坐像が鎮座している。像高151cm、幅133cm、奥行き54cmの同像は禅定印を結び、膝を浮かせず左脚に右脚を重ね、右足の裏を上方に向けて坐す。首には三道が確認できるが、注目すべきは首と胸部の境目に見られる段差で、まるでシャツを着用しているかのような首回りの表現をもつ。ただし、そのような首元の表現はタミル 地方の他の仏像、さらにヒンドゥー教神像の多くにも見ることができ、同地方の彫像における特徴のひとつとなっている。同像の偏袒右肩の大衣は極めて薄く、大衣の端は一部が畳まれ左肩から垂れ下がる。大衣には衣襞が描かれず、下腹、左手首付近、左の大腿部に布の下端が広がる様子が巧みに描写されている。
また、足首には2本の隆起線があり、大衣と腰布の裾が表わされる。頭部は螺髪で覆われているが、螺髪の大きさは額近くで小さく、頭頂に向かって大粒となる。螺髪は水平に並ぶが、特徴的なのは頭頂部の表現で、螺髪の1列分が台座のように隆起し、その上に炎を象った突出部がのる。同像において炎の頂部は欠損、さらに表面の磨耗が激しく、細部がどのように表現されていたかを認めるのは難しいが、頭頂部における炎の表現はインド深南部の仏像において最も顕著な特徴であり、その形状は作例によって様々である。
同像の顔貌に関しては、四角い形の顔に張りのある頬、微笑む口元、そして正面を見つめる開眼の目など、若々しい青年のような面立ちとなっている。顔の細部を見ていくと、下唇は中央部が楕円状に隆起し、口角線を左右に上昇させることで微笑みが表現されている。鼻根から鼻尖にかけての鼻梁の上昇は直線的に示され、鼻翼部は左右に広がりを持つ。眉は緩やかな弧を描く隆起線で表わされ、眉間には円形の白毫が明確に認められる。同像の顔貌で注目すべきは目の表現で、目尻、下瞼、目頭と細部に至るまで、自然な膨らみが写実的に描き出されている。また同像の耳朶は長く垂れ、その下端が両肩の上に接するが、その表現も耳輪だけでなく、耳珠の隆起、その上にある耳輪脚まで、徹底した人体描写が目指されている。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

2. 従来の調査報告・研究の成果

インド深南部の仏教美術に関し逸早く紹介したのは1878年のIndian Antiquaryの第7巻に掲載されたW. エリオットの "The Edifice Formerly Known as the Chinese or Jaina Pagoda at Negapatam" である。同氏は、中国仏塔(チーナ・パゴダ)として知られるナーガパッティナムの煉瓦塔についてを報告する中、同地で発見された5体の仏像についてを言及している。ただし、同報告書において仏像についての詳細、年代考察などの記述を見ることはできない。一方、T. A. G. ラーオが1915年にIndian Antiquaryの第44号に発表した "Bauddha Vestiges in Kanchipura" には仏像の現存例に関する詳しい記述を見ることができる。まず、カーンチープラムのカーマークシ・アンマン(Kamaksi Amman)寺院から発見された仏立像(現在、チェンナイ州立博物館に所蔵)について、像高は7フィート・10インチ、両手は損失しているが右手は施無畏印、左手は鉢を持っていたのであろうと述べられる。また、鼻が磨滅しているものの、他の箇所については保存状態が良好であり、偏袒右肩の大衣の襞が美しく腿の上に表現されているという。同像のように像高が2メートルを超える巨大な仏像が、何故、ヒンドゥー教寺院で見つかったかについて、ラーオはカーマークシアンマン寺院がかつて仏教寺院だった、あるいは仏教寺院の敷地内に同寺院が建てられたのではないかと推測している。この仏立像のほか、同報告書では、カーマークシアン マン寺院から発見された頭部欠損の禅定印を結ぶ仏坐像、同寺院に接する庭園で見つかった仏坐像、さらにカーンチープラム市内のカルッキラマルンダ・アンマン(Karukkilamarnda Amman)寺院内でヒンドゥー教徒に礼拝されている2体の仏坐像について、像高、座法、着衣法、印相などが言及される。そして、今後、より大規模で念入りな調査が実施されれば、必ずや多くの仏教関連の出土品が見つかるという展望、さらに、熱意ある考古学者が同地方の仏教美術に対し興味を向けて欲しいという期待を述べ、ラーオは同報告書を結んでいる。 大著 Elements of Hindu Iconography(1914年出版)をまとめ、ヒンドゥー教美術の研究者として知られる同氏がインド深南部の仏教美術に対し並々ならぬ注目を向けていたことはインド美術史研究の上でも特筆に値するであろう。ところで、タミル・ナードゥ州に西接するケーララ州からも仏像が出土しており、ラーオはそれらの作例に関して "Jaina and Bauddha Vestiges in Travancore" という報告書を Travancore Archaeological Series (Vol.II, Part 2) に発表している。同氏は旧トラヴァンコール藩領から見つかった5体の仏像についてを紹介するかたわら、同地のバガヴァティー(Bhagavati)寺院で行われているカットゥカールッチャイ(Kattukālchchai)祭りが仏教に由来するものではないかとも指摘している。また、P. C. アレキサンダーが1949年に出版したBuddhism in Keralaでは、ラーオが報告した5例の仏像のほか、2例の金属製出土品を紹介、それら出土品が集中する旧トラヴァンコー ル藩領の中部には、かつて仏教センターがあったのだろうと推察している。
このようにインド深南部の仏教美術に関して報告がなされる中、同テーマの代表的な研究といえる T. N. ラーマチャンドランの The Nagapattinam and Other Buddhist Bronzes in the Madras Museumが1954年に発表される。前述のようにタミル・ナードゥ州のナーガパッティナムからは350体以上もの仏教関連の金属製遺品が発見されているが、ラーマチャンドランはそれらの出土品について、仏立像、触地印を結ぶ仏坐像、禅定印を結ぶ仏坐像、観音菩薩像、弥勒菩薩像、ターラー像、ジャンバラ 像、ヴァスダーラー像、阿羅漢像というように分類、それぞれの図像的な特徴、作風などが詳細に考察されている。さて、タミル地方から出土した金属製の仏像には銘文を有するものが少なからず残り、ラーマ チャンドランの研究書では銘文の内容ととにも書体についてが言及、制作年代を推定する手がかりとなっている。このような詳細な考察の結果、同氏はナーガパッティナムから齎された仏教関連の遺品が11世紀から15世紀にかけて制作され、その大多数に関してはチョーラ朝後期(1070-1250年)に造られたものであろうと推測している。ラーマチャンドランの研究に続きマドラス(チェンナイ)の州立博物館からは1960年、Story of Buddhism with Special Reference to South Indiaという題目の論文集が刊行、その中に収録されたP. R. シュリーニヴァーサンの "Buddhist Images of South India" は南インド下から出土した仏像について図像解釈、図像生成、さらに制作年代の問題というように、多角的な視点から仏教美術を扱った論考になっている。例えば、インド深南部から出土する仏像で広く見られる頭頂部の炎について、シュリーニヴァーサンはヨーガのエネルギーと関連するものであることを指摘、最上のヨーギ、あるいはヨーギの中の帝王としての仏陀は、クンダリニーと呼ばれるエネルギーを脊椎の基部から頭まで上昇させることができ、頭頂から神聖なる炎を放出、仏陀が内在するそのような力を人々に知らしめるために、仏像の頭には火炎が描かれたのではないかという解釈を展開している。さて、金属製の仏像とは異なり、現存するインド深南部の石彫仏像には銘文を残すものが寡少で、制作年代を確定することは容易ではないが、シュリーニヴァーサンは頭頂の炎について、その形状が完全に発展してない仏像は古層に属すと見なし、独自の年代づけを試みている。また、年代考察の別の目安として、同氏はタミル地方の仏像で頻繁にみられるトーラナ型の背障とアーチ型頭光の変遷を挙げている。同地方の仏像の中には下部両端に丸みをもったアーチ状の頭光を抱いている作例、また門(トーラナ)のようなモチーフの背障を伴う作例が数多く見られるが、シュリーニヴァーサンの見解によれば片蓋柱をもったトーラナ型のモチーフはアーチ型頭光からの発展形とし、アーチ型頭光をもつ仏像はトーラナ型背障をもつ仏像に先行すると推測、仏像制作年代の手がかりとしている。これらの目安、さらに作風などを検討しつつ、同氏は個々の作例に関して年代づけを行ない、南インドにおいてアーンドラ美術以降、7世紀から17世紀に至るまで仏教美術の活動が継続したと推察している。さらに同氏は何故、このような長期間、仏教美術が同地方で存続したかについて、北インドの大乗仏教において発達した多様な図像を南インドは享受せず、仏像表現の形式が固執、伝承され続けたためであろうという見解を提示している。
C. ミーナークシーが1979年に発表した "Buddhism in South India" の中にもインド深南部に現存する仏像が言及されている。同試論において仏像は坐像、立像といった像容、また印相などが述べられるに過ぎないが、カーンチー(Kanici)県、チェンガルパット(Cengalpattu)県、南アールコット(Arcot)県(現在のカダルール県とヴィルップラム Viluppuram 県)、北アールコット県(現在のティルヴァンナーマライ(Tiruvannamalai)県とヴェールール(Velur)県)、タンジャーヴール県、ティルッチ(Tirucci)県等で見られる石彫 仏像の現存例が報告、これまで紹介されることがなかった作例に着目している点は意義深い。さらに、「ペルマール寺院に属する庭園は現在もブッダパッリトーッタムと呼ばれる」とか、「ガネーシャ祠堂に接する土地は今もパッリッチャンダムと呼ばれる」など、仏像が出土した場所、あるいは仏像と関連の深い場所について、同氏は仏教信仰の痕跡を探求しており、それらはインド深南部における仏教のあり方を考える上でも貴重な情報となっている。1988年刊行のMarg第39号(no.4)に掲載されたV. デヘージア著 "The Persistence of Buddhism in Tamilnadu" は、同氏が推定する制作年代順にタミル・ナードゥ州から出土した仏像を紹介、通史的な形で同地方の仏教美術が把握できる構成となっている。特に同稿ではボストン博物館所蔵の金属製仏坐像、ブルックリン博物館の石彫仏坐像、シカゴ博物館の石彫仏坐像、ノートン・サイモン博物館の石彫仏坐像など、インド国外の博物館に所蔵されるタミル地方出土の仏像が、鮮明な写真挿図とともに紹介されているのは特筆すべきであろう。それら作例は、いずれも保存状態が良好なく洗練された造形力を見せており、同地方における仏教美術がいかに高い水準を誇っていたかを如実に伝えている。以上のほか、インド深南部の仏像についてを扱った報告書としてはK. シヴァラーマリンガム著 Archaeological Atlas of the Antique Remains of Buddhism in Tamil Nadu、スウェーデンのウプサラ大学から出版されたBuddhism among Tamils in Pre-Colonial Tamilakam and Ilam, Part2 に収録のT. ダ ヤーラン著 "Recent Finds of Buddhist Artifacts and Architecture in Tamilakam" 等がある。前者はタミル・ナードゥ州における仏像関連の出土地、仏像が現存する場所を地域別に列挙、後者はパーンディッ チェーリPandicceri(ポンディシェリ)近郊、マーマッラプラム(Mamallapuram)、ラーメーシュヴァラム(Ramesvaram)等から発見された仏像についてを簡略的に報告、付記として仏教関連の出土品があったタミル地方の地名(85箇所)が紹介されている。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

袋井由布子

はじめに

今日に至るまでタミル・ナードゥ(Tamilnadu)州、ケーララ(Kerala)州といったインド深南部からは数多くの仏像が発見されており、それらの中には今もブッダとして人びとに礼拝される作例が珍しくない。また、同地方から出土した仏像はインド国内外の博物館に所蔵、時にヒンドゥー教寺院境内で安置される事例も頻繁にみられる。一方、村はずれの叢といった屋外に放置される仏像も少なからず存在する。それらの出土品の中には、高い完成度をみせる作例も多く含まれている。同地から出土する仏像は立像、座像、稀な例で涅槃像を見ることができ、座像の場合は禅定印のほか、触地印を結ぶものが多い。また、立像の場合、右手で施無畏印を見せながら左手は与願印、あるいは大衣の端をつまむ仕草を見せるものもある。ただし、いずれの仏像においても、頭頂部に見られる炎の表現、坐勢の場合、膝を浮かせず左脚に右脚を重ね、右足の裏を上方に向けるといった像容が広く見いだされ、画一化された仏像の図像形式、確固たる仏教美術の展開を予想することができる。さて、インド美術史において「南インドの仏教美術」と言った場合、インド東海岸のクリシュナー川、ゴーダーヴァリ川の下流域アーンドラ地方において、西暦1~4世紀前半頃、サータヴァーハナ朝、イクシュヴァーク朝といった王朝の下に開花したアーンドラ美術がこれまで注目、研究対象とされてきた。一方、アーンドラ地方以南、インド半島深南部の仏教美術については、例えばP.パールが「ナーガパッティナムのブロンズ像は研究されつつも、タミル・ナードゥの仏教彫刻に関する総体的な編年の枠組みを構成しようという試みは未だなされていない。」と言及するように、美術史研究において大きな成果が見いだせないままとなっている。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


《台北市立美術館典藏專冊1 台灣美術近代化歷程:1945年之前》,台北市立美術館,2009

莊伯和
日治時代台灣美術在美術史上的重要貢獻之一,應是台灣圖像的建立。
我認為在原住民美術之外,以後來成為主流的漢文化來說,除了承襲明清時代餘緒的 文人畫傳統,台灣的美術活動在日治時代有其獨特的發展。民國成立,民國美術也在 明清餘緒之外有了新的面貌,但當時日本人已統治台灣17年,日治時代台灣美術因緣 際會,另成篇章。
日治50年,台灣出現了第一批西洋畫家、東洋畫家,步入近代的新美術運動因而誕生。以1927年官展成立為分水嶺,出現地方性特色表現。當時台灣畫家描繪台灣景色、民俗風土,表現台灣特有題材,即為成功之處。藝術品味有個人性也有普遍性的特徵,如飲食口味,酸甜苦辣,冷暖自知,但也有因為風土自然、生活習俗等地域因素而產生了解群體的共同嗜好,期間又可能因時代種種因素的變遷而有所改變。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


三、美術行政的大手筆

謝里法教授的《日據時代台灣美術運動史》,催生了「台灣美術」主體論的基本見解,從此以後台灣美術的論述風氣大興,史料紛紛出土。1983年台北市立美術館開館,接力推出的「石川欽一郎展」(1986)、「台灣早期西洋美術回顧展」(1990)、「台灣東洋畫探源展」(2000)、「東亞油畫的誕生與開展」(2000)等劃期性的展覽,外加前輩畫家們大規模的回顧展接二連三登場,台灣美術運動各線跑道上的 代表作,均得以有機會重見天日。
美術館嚴謹策劃的展出,都全面呈現於展覽畫集,史實真相愈辯愈明。加上民間出版的「台展」圖錄之工具書,或前輩藝術家全套畫冊,徹底翻出了深藏許久的參考圖典,接下來就是台北市立美術館典藏組的追蹤作業了。
北美館二十五年來以公部門資源,肩負起文化財的發掘與保存事業,對於1946年以前的作品入藏尤不敢掉以輕心。主辦過數十回大展的經驗之後,不僅知悉作品的下落,也查明作品出處,開始進行大搜尋,真正展現北美館典藏組不屈不撓的精神。
典藏組人力有限,但絕對要豐富的史識來判定入藏的價值性。好不容易尋得的作品,還要經過討論,也須等待專家審查議價通過,但初步議價的落差又有可能失之交臂。總之,從追蹤作品過程的疑慮與確定,到入藏程序的波折或順利,並非典藏組單方面可以決定的。因此常遇一件精品竟延宕多年方得以如願入館的例子,屢見不鮮,也許當初相中的佳作又幾經易主,又得重新來過的繁複過程,皆令典藏組工作人員嘗盡艱辛滋味。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

《台北市立美術館典藏專冊1 台灣美術近代化歷程:1945年之前》,台北市立美術館,2009

李欽賢

一、歷史視野的「運動」

謝里法教授於1978年出版的巨著《日據時代台灣美術運動史》,讀者已能意會到那是前一個世代,台灣美術家積極投入政策「運」作,呈現文化「動」能的成果。作者謝里法以新世代知識份子的敏感度和適當的歷史距離,回顧台灣美術從萌芽到茁壯,探用美術「運動」的宏觀角度,整理出這樣一部斷代美術史。
「運動」之用於文化現象發生學之通稱,亦屬於近代史觀的一環。較早採用的先例,是明治晚期的史家將明治前期首波反權威專制的聲浪,稱之為「自由民權運動」。其實這也是根據漢字轉化的詞彙,以日本文化廣納中國學問的深厚基底,明治維新後又致力引進西方學術,在原來中國所無的新學術領域專有名詞,皆以漢字合成新造語,或者襲用漢字原有的詞彙,重新解讀文化現象。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


第四節 殿堂の絵画

堂塔の画壁

さきに法隆寺五重塔の塑造群像が平城遷都の翌年に完成していると思われるがために、様式上では藤原京期の伝統をより多く受け継いでいるにちがいないけれども、機械的に奈良時代の最初にもってきたのであるが、寺院の堂塔の壁面に描かれている仏画の例として、やはり同じ操作によって、法隆寺五重塔壁画を奈良時代絵画の初めに扱うことにする。五重塔壁画については「古今目録抄」に記載されているけれども、それ以後は誰も見ることができなかったのであるが、昭和二十二年(一九四七)からはじまった解体修理によって四隅八壁の白壁を剥がして発見されたのである。すでに二面は消えていたけれども、残りの六面には金堂の六小壁と図像も寸法も配列方位も全く同じ方式で菩薩像が描かれているのが幽かに認められたのである。また上部小壁にも山岳図があることもわかった。白土を塗って消し去られた曖昧模糊たる仏画であるから、価値を論ずることができないけれども、金堂壁画の下絵をそのまま転用していることと、藤原京・奈良時代における堂塔壁画の形式を考える有力な資料にはなるであろう。
さてこの時代においては、堂塔内の壁面を仏像彫刻と呼応してどのように壮厳したかについては、法隆寺の金堂と五重塔によってわかるけれども、ただそれはあくまでたった二つの例であるにすぎないのであって、ほとんどすべての大寺の堂塔壁面は仏画をもっていたことが文献的にも仏教史的にも言えるのだが、奈良時代前後は唐朝寺院の直模であるからして、むしろ唐朝寺院の事例がそのまま奈良時代の寺院にあてはまると言ったほうがよかろう。中国最初の寺である洛陽の白馬寺や、藤原京・奈良時代の入唐僧が学んだ長安の大慈恩寺、また空海の師恵果が住した青龍寺など、多くの唐朝に栄えた大寺院は今も旧地に寺趾を残しているけれども、厳丈な塼塔の他はいずれも天災法難によって滅んでしまって、唐朝の古姿を保っている平地寺院の殿堂は一字もないのである。そこで、洛陽長安からみれば西境の地である敦煌石窟寺の洞穴の壁画とよく比較されて、法隆寺金堂壁画と唐朝仏寺壁画の類似 が説明されているのであるが、柱と窓のない洞窟空間と地上の建築空間とは全く異質であることをよく心得た上で論じなければならない。むしろ、「歴代名画記」や「洛陽伽藍記」などの幾多の文献が著録している記述に頼るほうが先であろう。善導大師は中国浄土教の大成者であるから特別であるにしても、生涯に浄土変相を三百余壁も造らせたとあるほどで、法隆寺金堂の浄土図も唐朝の流行と無関係ではなかろう。洛陽や長安に較べたら地方であるけれども、唐王朝の離宮もあった蜀(四川省)の成都にあった至徳二年(五八四)建立の大聖慈寺の諸院仏殿には、合せて八千五二四間の壁画があった。この間とは柱と柱の間、すなわち柱間のことであるから、その壁画の広大さが想像されよう。そしてこれらの命題別は、阿弥陀や釈迦などの如来形が一千二一五、菩薩形が一万四八八、梵天・帝釈天が六八、四天王・明王・神将などの守護神が二六三、羅漢・祖師が一千七八五あった。いずれも尊像の数で あるから、合計すると一万三千九一九体の画像があったということで、しかもみな唐朝に描かれた作品を宋代に入って調べた数字である。この尊像図と並んで浄土や変相を描いた群像図が一五八図あったというから、これは尊像壁画よりも一段と大きな壁面であったにちがいない。奈良時代の寺院はどうであったかよく判らないが、「大安寺伽藍縁起幷流記資財帳」には天平八年(七三六)に金堂壁を羅漢像九四体で飾ったこと、「西大寺資財流記帳」では薬師堂の七間の壁に七仏薬師浄土図と天井・柱に音声天や花形を描いたとある。あまり詳細を知ることができないけれども、唐朝寺院よりもはるかに小規模な壁画であったことと、描かれたであろう主題の振合いは、唐朝のそれに近かったであろうという想像が可能である。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


宮殿絵画

宮廷はかなり頻繁にしかも大がかりな仏教法会を行ない、それに必要な仏教美術、ここでは仏画であるわけだが、その宮殿で執行する法会用の整像や幢幡像などの仏画は宮廷の注文で描かせ、また保存する必要があれば宮廷に留めておいたのであるから、俗界においては宮廷がとびはなれて仏画の使用者であった。天皇や皇后や皇親がいかに篤信者であったにしても、宮廷において宮廷人としての公私の生活をしていたのであって、その生活形式が主権者であるがために、世俗社会はもとより貴族社会の生活よりも、規模がちがっていたにしても、それはやはり俗生活であって、寺院における仏家の生活とは異質である。最高の公人である天皇の生活居所が宮殿であるから、宮殿には公私にわたる俗生活に必要な美術、やはりここでは絵画を問題にしているのであるからして、天皇の公私の俗生活のための絵画が用意された。隋唐の律令国家を手本にしているのであるから、宮殿の絵画的設備も隋唐宮殿のそれを学んだことはいうまでもない。中国の宮殿形式はすでに漢時代に完成していて、多くの大廈高楼が建ち並び、各宮殿の性質に応じて主に儒教的題材の大壁画が描かれていたし、また画庫には帝王として必要な多数の図巻が蒐集されていた。時代が下ると共に画題と画法の種類が増加し変化を加えたにしても、宮殿の内外はますます壁画でもって荘厳し㡧画を垂下することで威厳を増したのである。しかし日本の諸宮殿は建築形式がちがうことと、規模が小さいがために、壁画を描く壁面がひじょうに少なかった。奈良時代の宮殿にどんな壁画が描かれたかは不明だが、その初期的な壁画があったであろうことは、平安宮殿によって想像してよかろう。
その後の宮殿史を基にして言えば、日本の宮殿は固定壁画よりも移動のできる壁画のほうが多かったと言える。すなわち、それは襖と杉戸と屏風と衝立のほぼ四種類に限定することができよう。奈良時代にはたして襖があったかどうかは疑問であるけれども、屏風は実に大量に使われていたことを「東大寺献物帳」が証明している。それによると『御屏風壱伯畳』とあるから、一〇〇畳の屏風を聖武天皇は使っていたことを意味するわけであって、従って宮殿にはもっと多くあったにちがいないのである。その一〇〇畳の内訳をみると、画屏風二一、鳥毛屏風三、鳥画屏風一、爽纈屏風六五、臈纈屏風一〇となっているが、爽纈と臈纈は染織であるし、鳥毛も半絵画であるからしばらく別とすると、純粋な絵画の屏風が二四畳も東大寺へ寄進されていることになる。それではどんな題材の屏風であったかと言えば、大唐古様宮殿画屏風は宮城内に林立する宮殿の壮観図であろうし、大唐勤政楼前観楽図屏風は宮殿の一つの勤政楼の前庭で宮廷人が遊楽している図、古人宮殿屏風も宮殿の内か外かに人物が配されている図であろう。大唐とあるのは、光明皇后自身は唐王朝という意識であろうが、古様と限定しているのは漢代以来の宮殿図の伝統を知っているので、それと唐王朝宮殿との比較において古様であったからであろうが、何れにしても奈良時代人の日本的な命名法である。引き続いて素画夜遊屏風と子女画屏風も唐の風俗図であろう。ついで古様山水画屏風と山水画屏風はやはり唐朝山水画の屏風であり、国図屏風は唐の地図屏風、古様本草画屏風は花卉図、鳥画屏風と舞馬屏風は鳥と馬の図をかいた屏風である。これらに混って百済画屏風があるから、百済の風俗をかいた図か百済から献上された屏風の意味か不明であるけれども、ほとんどすべては中国の風物を題材にしており、しかも奈良時代の画師たちが描いたにしても隋唐から請来した原図によっていたことは確かである。
ここにいう畳はどんな意味であるか断定できないけれども、今の隻に当っていて六曲(扇)続きを一隻すなわち一畳とよんでいる、と解釈されているのが普通である。しかし当時の屏風は平安時代のように蝶番で曲と曲とをつなぎ合せて固定してしまって一隻として仕立てられていたのではなくて、一曲一曲を紐で括ってつないでいたのであるから、取りはずしも自由であるし、何曲を必ずつながねばならぬという組立てではなかったのである。屏風の構造の話は別として、この画屏風はすべて弘仁六年(八一五)に正倉院から持ち出されてしまって消失したけれども、さきに半絵画の屏風とよんだところの鳥毛屏風の中の六曲が今も残っていて、そこには淡彩素描で描かれた樹下美人図があるから、鳥毛屏風としての本来の姿を失っているけれども、それは画屏風として取り扱われてよい資格を十分に具えている。天平勝宝八年(七五六)の献物帳によると、各曲は緋色の紗で四周が縁どられ、青い絶で裏あてされていたのだが、現在は紙面だけが仮張りの形式で保存されており、しかも、鳥毛で作った衣裳を着ている貴婦人の姿を彷彿させるためにほんとの鳥の羽が衣服にあたる画面に貼付してあったのであるが、それもすっかり無くなってしまって、今のように下図だけがむきだしに表わされているのである。現存の六面は、一本の木の側に立っている女の図が三面と、同じく腰かけている図が三面とであるから、必ずしも全部が鳥毛立女の図ではないのである。ところでこの女の姿は、髪飾りから顔立や衣服や姿態に至るまですべてが八世紀の盛唐期における唐美人の類形であるからして、唐美人図の原形によって描かれいることは確かであるが、同時に西域においても類似した樹下美人図が発見されているので、奈良時代と西域との関係を説明する資料によく使われている。西域は前漢の武帝が経略に乗りだしてから漢人の移住と漢文化が移出され始めたけれども、形式上でも内容上でも中国文化が支配するようになったのは唐朝になってからであった。西域一帯に州県制度を設けて統治するに至って、唐朝人が永住して漢人社会ができ、西域人社会との交流によって唐朝文化が急速に西域に広まったのである。この漢代から唐代までの西域人はイラン系人種であったから、漢民族の唐朝文化は西域においては西方のイラン系文化との混合化があったことは当然である。九世紀近くなって唐朝末期には、ウイグル系人種が勢力をしめてきたので、イラン系人 種の西域人とはちがってきたけれども、唐朝文化を摂取することでは同じであった。これを唐朝の側に立って考えると、西域人の来往によって長安・洛陽の中心地では西域人がもたらした西方文化を大いに消化して、唐朝の立場で混合文化を形成していた。前にあげた伎楽その他の西域楽劇や諸工芸がイラン文化と関係していることなどは、そのためである。したがって、枝葉の茂った木の下に立つという画題そのものは、西域で信仰された精霊崇拝的な要素を唐朝が形式的にとり入れたのであろう。したがって、唐朝美人図の一形式がはるか西方に及んで西城美人図となって現われ、また海を渡っては東方の奈良美人図になったのであるから、奈良絵画と西域画との脈賂は直接に はつながっていないと言うべきであろう。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


第三節 仏像彫刻

法隆寺五重塔の群像

上にあげた奈良朝寺院の遺構中でも、とくに異彩を放っているのは法隆寺五重塔である。これは平城遷都の和銅三年(七一〇)にはすでに完成していたと考えるのが通説であるからして、藤原京時代の建築とすべきであるが、法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(七四六年撰)に、塔が一つ、五重で高さ一六丈、塔の根もとの四方に涅槃と弥勒と維摩と分舎利の四揃いの塑像で造った浄土が具わっていて、それは和銅四年(七一一)の歳のことである云々という記事があるから、編年的には奈良時代が始まった翌年にあたるわけである。天皇の交替や遷都などによって文化の時代様式が直ちに変ることは例外であるばかりか、聖徳太子の遺業を保守する立場を堅持しているのが特色であるこの飛鳥に立つ法隆寺にあっては、政情の移動が波及するのは特に少なかったにちがいないからして、そのすべての仏教美術も金堂などと同じく藤原京時代的であったとするのが正しかろう。しかし、ここでは法隆寺資財帳に基づいて形式的に奈良時代の先頭におきたい。むしろ奈良時代仏像彫刻を論ずる便法として冒頭にもってきたにすぎないと言い直したほうがよいかもしれない。
五重塔初層の心柱に方形のかこみをして、そのいちばん後方に塑造の山岳をしつらえ、その前面に多くの仏菩薩 や人物の塑像を配列している。この塑像群の主題は南面が弥勒とその従者、東面が維摩と文殊の問答北面が釈迦涅槃、西面が釈迦の遺骨をわかちあう分舎利であって、資財帳と全く合致しているから、少なくともこの塑像は和銅四年(七一一)に完成したと認めるべきである。現在は合せて九十余体しかないけれども、当初はもっとあったことが証明されているし、また現在の配置にも多少の出入があることも指摘できるのであるが、それにしても日本の 仏像史において最古大量の群像であることを注意しなければならぬ。いずれも○・四メートル前後の小像であるけれども、仏・菩薩・天部・羅漢から居士や男女俗人までの各種の尊像と階層の像が混っていることと、羅漢以下の像は聴聞はもとより俗人の喜怒哀楽の日常感情を卒直に示す表情をしていること、さらに一つ一つの像がそれぞれたがいに関連し合った動作や身振りをして群像としてのまとまりを保っているのが特色である。もちろん礼拝されるのが主眼であるけれども、仏伝説話を納得させて信仰を高めようとする説明性の強い主題であるから、観ることによって理解させようとする実感の方向が強い表現である。恐らく薬師寺両塔にあった釈迦八相塑像群もそうであったにちがいないが、縁なき衆生をも救済できる説得表現をするところに、藤原京期仏教の発展を知ることができる。
主題も彫像様式も隋唐の直模であるにちがいないが、大陸像と同じく崇高美を発揮している菩薩像には、隋唐像にはない清純美が含まれており、さまざまな姿態をとる羅漢の中には日本人の特性を示す身振りが入っていたり、唐装の婦人像であるにかかわらず日本女性が表わす含み笑いのような表情がかすかに見える。そこに、意識的無意識的に日本人の感情がこめられる結果になるわけだが、その規模において比較できないほどの格段の相違があるにしても、かの薬師寺薬師三尊像や法隆寺金堂壁画その他の藤原京期の諸尊像と共通した柔軟さが 認められる。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


第二節 寺院の建造

奈良時代の仏教

飛鳥期における聖徳太子の仏教興隆は、先進文化の象徴として移植した傾向が強かったけれども、藤原京期になると、六朝から隋唐にかけて完成された中国の国家仏教が律令国家の建設に必要であったから受容したのであるという解釈ができる。天武天皇期に諸国で金光明経が読誦されたのも、同経が内蔵しているところの護国安民的な教理が共鳴されたからである。さらに進んでは、その仏法と王法とが合一している理解の仕方も可能であったがために、律令政治の遂行にとってこの国家仏教は哲理的にも政策的にも有効であったので、藤原京期における仏教の発展がありえたのである。それを実証しているのが薬師寺薬師三尊像であり、法隆寺金堂壁画であったことをのべてきた。
平城京の建設と共に飛鳥・藤原京の官寺をまっ先に新都に移建して新都壮厳の一翼にしたのも、そのためである。すなわち大官大寺(七四五年、改称大安寺)と藤原家の氏寺厩坂寺(興福寺)が移されたのは、遷都と同時であったし、霊亀二年(七一六)飛鳥寺(元興寺)、養老二年(七一八)に薬師寺、その前後には葛木寺や紀寺も移築されている。それと併行して光明皇后の海龍王寺・法華尼寺・新薬師寺、称徳天皇の西大寺、さらに光仁天皇勅願という秋篠寺、唐僧鑑真の唐招提寺などが陸続と京の内外に新造された。都下の四十八ヶ寺云々という記事が「続日本紀」にあるからして、平城京付近の大体の寺院数として信じてよかろうが、宮殿や民家をはるかに脾眠している堂塔の壮観は、やはり長安城の制に学んでいるのであろう。
しかし建令政治に内在している矛盾は社会の動揺となって現われだし、疫病天災の続出は社会の不安を生んできていたので、律令体制を維持する王法に、より強力に仏法を参加させようとしたのが、奈良朝の天皇、とくに聖武天皇であった。奈良の諸大寺はほとんど官寺になったので、その造営には国家機関である造寺司が担当し、また逆に各寺は天皇と国家のために有益な経義経論の研鑽に没頭したのである。その研究者である衆僧が諸寺を根拠にしてって、いわゆる南都六宗の華厳・法相・三論・律・倶舎・成実の六派を結成して、鎮護国家を目的とする国家仏教の性格を発揮しているのであるが、これを最も雄弁に証明しているのが、聖武天皇による金光明最勝王経への傾到である。この経を読誦修行すると諸尊の加護を得ることを説いている金光明経は、早く藤原京期から信仰されていたが、その金光明経を唐の義浄が異訳したところの金光明最勝王経は、それ以上に加護を得る最勝の法を詳説しているので、前記の法相・三論や天台などはこれを所依としているのであるが、その鎮護国家ぶりを完全な形で実現しているのが、大和国を初め国毎に金光明四天王護国寺を建立する聖武天皇の詔勅である。時に天平十三年(七四一)のことであったが、僧寺と尼寺の両寺に分れていた。これによって仏教と国家との結合は一段と緊密になったわけであるが、その関係の昂まりは東大寺の造営に至って極まったと言ってよかろう。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()


第四章 奈良時代

第一節 宮殿美術

都京と宮殿

輝やかしい希望の下に経営された藤原京は、わずか一五年間の王城であったにすぎなくて、元明天皇和銅三年(七一〇)に平城京への遷都が行なわれた。都城とよぶだけの条件を備えていたかどうかは別として、少なくとも宮城なるものは遠飛鳥宮、近飛鳥宮、豊浦宮、岡本宮、小懇田宮、板蓋宮、浄御原宮と移動していることを文献は伝えており、しかもそれら飛鳥期後期の宮城は大極殿を初め多くの宮殿と諸門をもつ大規模な規画でもあったと記されている。しかし遺跡として立証できるのは藤原宮が最初であって、七間に四間の大極殿、その南に一二棟の堂が並列する朝堂院は東西が約二三七、南北が約六一五メートルの広さであって、最古最大であった。さらにこれに続いて南方に朝集殿が建っていたことを示す遺跡がすでに調査されているから、藤原宮城の規模を知ることができる。
和銅三年の新都平城京における宮城には、本門である朱雀門以下の一二門が四面に各三門ずつあって、その城すなわち屏の内が宮城というべき区画であるわけだが、そこには正殿である大極殿を初め朝堂院、朝集殿、内裏、東宮、西宮などの諸宮殿が完備していたと記録は伝えている。考古学的発掘もそれを裏づけている。すなわち宮城の東方にあった朝堂院は東西約一八二、南北約四九〇メートル、宮城は方一キロメートルの面積であったように発表されている。これが今の奈良市佐紀町に遺る平城宮址である。しかしこの平城宮殿を具体的に実感できる遺構は全く無いけれども、唐招提寺の講堂はこの平城宮の朝集殿が施入されたのであるから、現存する講堂によって平城宮 殿の一端を偲ぶことができよう。もっともこの講堂は鎌倉時代に行なわれた大改造によってほとんど原形を失なっていると建築史家は説いている。

文章標籤:

生之 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

Blog Stats
⚠️

成人內容提醒

本部落格內容僅限年滿十八歲者瀏覽。
若您未滿十八歲,請立即離開。

已滿十八歲者,亦請勿將內容提供給未成年人士。