ところで、南画の再評価はしばしば「東洋復帰」「東洋回顧」として語られた。しかし、南画の再評価を日本の帝国化と不可分のものとして見て来たわれわれにとってはむしろ「東洋への膨張」として論じる方が妥当のように思われる。また「復帰」「回顧」という言辞には、東洋を日本の過去として位置付ける意図が垣間見られる。その辺りをより明確にするために、ここで別の角度から「新時代」の画壇における東洋認識を確認しておこう。一九一〇年代にはにわかに中国へ旅行する画家が増加し、美術雑誌に画家の紀行文が頻繁に掲載された。例えば洋画家.三宅克己は、一九一八年当時の紀行文で次のように中国の印象を表している。

「二三日前蘇州を立つて杭州に参り候。……沿道……は何とも申されぬ夢のやうな景色に御座候。早や霜に染りし森や林や、又色著きし広漠たる草原を隔てて古き高塔、寺門、城郭など相見え申候。堀割には小舟が優長に帆をあげて浮いて居り、或は無数の家鴨が一枚の敷物のやうに密集致し居り、之れ等が菱田の中に餌を漁り居る様面白く候。……連日の快晴、小春日和の日光を浴びて画のやうな湖畔を逍遥すその気持はこの世に於ける真に極楽浄土に御座候。……寸土尺地何れも名所旧蹟にあらざるは無く。前後左右殆ど画題ならざるは無之候。途中にて不量杭州師範学校生徒諸君に邂逅致候。その内豊仁君は巧みに日本語を話され候……」

岡倉天心の中国旅行に同行した「支那通」の早崎稉吉も強調するように、画家にとって何よりもまず「支那は画材を得る為に行く国」であった。中国を旅した画家たちは、当時の中国で「画のやうな」空間や、しばしば「極楽浄土」(近代社会には失われてしまった埋想郷)のようなノスタルジーを期待した。そのような期待を抱いて中国に渡った画家の中には、時に木村荘八のように失望する者もあったが、彼もまた「想像殿堂」(幻想)としての中国をどうにか再確認して帰国した歯。

彼ら画家は新時代の青年として、中国を日本の過去として眺めた。つまり、「西洋文明の空気を呼吸して居る」新時代を生きる彼らにとって、当時の中国はもはや文化的模範ではなく、日本ではもはや珍しくなってしまった「画材」「画題」が得られる「未開」の空間、植民地的空間であった。そこに住む人間ですら「画材」として眺められた。「人間が沢山ゐるだけに色々希らしい風俗がある。乞食だけでもどれだけ風変りなのがあるか知れない。単に「乞食の巻」を描いただけでも面白い風俗画が得られやうと思ふ」とは先の早崎の談である.画材ではなく人間(「新時代」の仲間)として対等に接されるのは三宅の紀行文に出てきた「豊仁君」のような西洋的知識を修得し日本語を解する文化エリートの男性ぐらいであっただろう。

こうした態度は西洋のオリエンタリズムと類縁性を持つ。一九一三年に、洋画家の湯浅一郎は「オリエンダリスト」と題するエッセイを書いている。彼は日本の洋画家をフランスのオリエンタリスト画家になぞらえ、朝鮮や台湾、満州といった日本の植民地に画家が赴き絵を描くことを奨めた。画家が描いた植民地の絵画(中国全土は半植民地として捉えられていた)は植民地に対する帝国日本の優位性を可視化する「希らしい」民族誌的標本あるいは戦利品として展示され、画家自身のみならずその展覧会の鑑賞者にも(東洋の支配者である)帝国日本の国民としての優越感を与えたことであろう。

なお西洋化された眼差しや手法をもって「東洋」を研究することは、西洋人そのものになることではない。それは東洋をめぐる欧米列強との植民地争奪戦に参戦する手段である、従って、逆に西洋への対抗意識から東洋人としての強い自覚を生み出すことになる(東洋主義はその現れの一例である)。「南画新論」から一〇年を経て、『国華』一九二二年二月号に「支那研究に対する我国民の興味」と題する記事が掲載された。ここでは「東洋文化の起源」である中国を研究するのはヨーロッパの学者たちではなく、「吾人東洋人」でなければならないと読者に呼びかけられている詠。注意すべきはここに見られる、「東洋文化の起源」=中国(文化)に対する強い所有欲である、このように見ると、南画再評価も東洋主義も中国(文化)の所有=支配という帝国主義的欲望に結びついていたと捉えることが出来る。また「普通の」東洋人と日本人が差異ある存在として認識されていたことを忘れてはならない。「南画新論」に見たように、学術的研究は徹底した西洋的学術知の取り入れによって漢学との差異化を行い、アジア諸国の人々や風景を描く絵画でも、日本との差異をどう描くかが重要視されたのである。研究者や画家たちはアジア諸国と日本は「東洋文化」を共有するという意識に立ちながら、実際のアジア人と日本人との差異を保とうとした。この同一性と差異の言説こそが、「東洋の代表目支配者」としての日本の帝国主義的覇権を文化的に支えたのである。

 

四.おわりに

日本美術思想は「美術は国の精華」というスローガンを打ち立てた時から現在に至るまでネイションについての言説であり続けている。従って、日本というネイションの帝国化に伴って、日本美術思想も帝国主義化への道を歩むことになった。南画の評価とそれを論じる方法論の変容は、日本美術思想の帝国主義化のモメントを端的に示す一例である。日本美術思想は、帝国主義による軍事的占領や殺戮行為などフィジカルな侵略に直接加担する兵器でこそなかったが、文化的な側面から「東洋の代表=支配者」であり「世界の一等国」である帝国日本の自画像を支える役割を担っていたのである。

最後に今後の展望を示しておく。田中豊蔵などによる南画の新解釈が「新時代の青年」の主体形成を呼びかけ、帝国日本の文化的覇権を支える言説や表象を生み出させる一助となったことは本稿で論じた通りである。なお日本美術思想の帝国主義化に関する南画論以外のヴァリエーションや一九二〇年代以降それらの思想が受容され言説や視覚文化という形で再生産される過程の研究はさらに深められる必要があるだろう。南画論一つを例にとっても、本稿で見た「新時代」の南画解釈は東京の「新時代の青年」だけでなく、地方の青年や文人が読む機会がなかったとはいえず、その場合本稿で論じた例とは違った文化的応答が引き起こされた可能性がある。またこの時期の南画論のいくつかは翻訳されて、中国や朝鮮で受容され、日本とは違った形の東洋主義の言説や表象を生み出すことになった。中国に関しては西槙偉が豐子榿を例に論じているが、中国での東洋主義は中国至上主義という性格を持ったという。また金絃淑、金惠信によれば朝鮮では当地の「学歴貴族青年」たちが日本の東洋主義をずらしつつ受容し独自の民族主義的東洋主義の担い手になったという。田中豊蔵は一九二八年から四二年まで京城帝国大学に赴任することになるが、彼が朝鮮における東洋主義に影響を与えたか否かは興味深い問題である。本稿での考察は東京を中心とした中央画壇に限定したが、南画論だけでもその受容/再生産の裾野はさらに広い。

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