《台灣美術團體發展史料彙編1:日治時期美術團體(1895-1945)》,國立台灣美術館,2019。
(國家圖書館(NCL-Taiwan)典藏 / 李道義 / 日治時期 (1895-1945) / 13.6×7.3cm / 《影饗》)
「日治時期美術團體之形成與美術「現代化」關係論析」から翻訳された。(ChatGPTを利用する)
白適銘
1895年に日本統治時代へと突入した後、日本の植民地政府が推進した全面的な「近代化」(Modernization)の建設とともに、台湾社会は本格的かつ体系的に西洋文明と接触することとなった。それに伴い、美術界にもかつてない変化が生じ、絶え間なく進行する近代化の過程の中で、いわゆる「新しい美術時代」(New Art Age)が形成された。この近代化の進展がもたらした変容は、単に個々の芸術家が西洋美術を理解し、「芸術とは何か」「いかにして『近代』芸術家となるか」といった本質的な探究にとどまらず、美術教育、美術団体、展覧会の開催、美術批評などの新たな美術機構の出現にも見られ、これらが「近代」文化の特質を備えた「美術社会」(Art Society)の形成を促した。
一方で、「美術」(Fine Arts)という概念の形成過程を考察すると、かつては個人の鑑賞・蒐集の対象であった「書画骨董」が、この経験を通じて次第に公共性を帯びた「美術工芸」へと変化し、さらに芸術創作に従事する「美術家」(Artist)も新たな社会的身分や文化的象徴として確立されていった。日治初期から戦後に至る百年間の間に徐々に形成された「近代化した美術社会」の変容は、上述の「公共機構」(Public Institution)の確立と密接に関係している。このような機構の整備は、台湾近代美術の発展に対し広範かつ深遠な影響を及ぼし、現在においてもなおそのシステムは機能し続けているといえよう。
さらに直接的に言えば、台湾近代美術の萌芽、形成、発展は、近代意識や地域アイデンティティの形成における重要な要素となった。一般的に、日本人教師による図画教育の実施や在地創作の奨励は、美術の普及、啓蒙、模範的役割を果たしたと考えられている。特に「台湾美術展覧会」(台展)や「総督府美術展覧会」(府展)の創設は、創作者にとって主要な発表・鑑賞・競技の場を提供し、個人の創作意欲を刺激するとともに、台湾全体の美術や文化水準を向上させる重要な手段となった。これらの展覧会が日本の植民地政府の文教政策とどのように関わっていたかは別として、学校における美術教育、官主導の美術展や組織活動、メディアの報道、美術評論などは、この近代化の推進過程における主要なプラットフォームおよび機構であり、それぞれが相互に密接な関係を持っていたことは明らかである。しかしながら、初等教育における手工・図画の授業は、美術に対する生徒の関心の高まりを十分に満たすものではなく、これを補う形で画会や私塾が次第に盛んになり、観摩学習の場としての役割を果たしていった。
例えば、「台湾洋画の父」と称えられる石川欽一郎は、総督府に赴任した当初、すでに国語学校で教鞭をとる中で「国語学校洋画研究所」(1908年2月)を設立し、課外補習の場として活用していた。同研究所では、水墨画、水彩画、油彩画などの科目を教授し、台湾における最も早期の西洋絵画教育団体となった。その後、規模を拡大し、「紫瀾会」(1908年4月)と改称。会員は国語学校の学生にとどまらず、美術を愛好する社会人へと広がり、授業内容も鉛筆画、木炭画、石膏や人体素描、水彩画、油彩画とより多様化し、さらに野外写生も頻繁に実施されるようになった。石川は積極的に台湾で西洋美術教育を推進し、これを人材育成と創作交流の場とすることで、師生合同展覧会を通じて広く社会の注目を集め、美術を学ぶ風潮が高まり、それに伴い美術団体も次第に増加していった。
日治時期以降、雨後の筍のごとく次々と設立された美術団体は、50年間の間に驚くべき発展を遂げた。参加メンバーは非常に多様であり、組織の性質も異なり、その分布は北部・中部・南部の各地に及んでいた。特に、その数は150以上にも達し、その隆盛ぶりは一般の想像を超えるものであった。しかしながら、これほど豊富で広範囲に及ぶ重要な歴史資料にもかかわらず、これまで断片的な研究は存在していたものの、依然として十分な注目を受けてこなかったのが現状である。その主な要因として、これまでの研究が作品分析や作家の生涯研究に重点を置いてきたことが挙げられる。美術団体に関する資料は、美術史の構築との体系的な関連が薄く、いくつかの著作や専門書において研究対象とされたことはあるものの、その独立した学術的価値に関する議論は不足しており、調査の範囲や資料の収集も十分とはいえなかった。
台湾美術の近代化の過程に関するすべての史料と関連問題を追跡することは、より包括的で多元的、かつ実態に即した歴史認識を構築する上で極めて重要である。美術史の構築は、作品や作家の静的分析のみでは包括的に把握することはできない。美術団体は、規模の大小にかかわらず、設立の経緯、発展と衰退、具体的な活動、作品の発表など、すべてが密接に関連しており、学術的にも重要な意義と研究価値を持つ。本書の研究成果を通じて、民間の組織が美術の近代化の過程においてどのような形で関与していたのか?どのようなバランスを取り、支援し、あるいは対抗する役割を果たしていたのか?どのような実質的影響を及ぼし、時代的意義を持っていたのか? といった諸問題を明らかにすることができるだろう。これらの問題は、台湾近代美術の総合的研究において、未だ十分に認識・発掘・位置づけされていない「隠された歴史」といえる。
本研究を通じて関連史料を再整理した結果、日治時期の美術団体の嚆矢は、1899年に設立された「羅漢会」であることが判明した。この団体は主に詩文や書画の交流を目的とした組織であり、詳細な記録はほとんど残されていない。その後、1901年から『台湾日日新報』において、淡水館の月例会の報道の中で「台湾書画会」に関する記述が登場するようになった。そして、1910年9月29日の〈台北の書画界〉という記事では、この会が1898年に淡水館で創設されたことが明記されている。その創設メンバーとしては、書家の戸田翠香、小野田三逕、藤崎素海、片寄南峰、須賀蓬城、さらに画家の塩川一堂、狩野永讓、川田墨鳳、上田稲江、武部竹令ら十数名の書画家が名を連ねている。本会は日治時期における美術団体の中でも最初期の大規模な集まりといえ、「新書画」の創作交流の場として機能するだけでなく、茶道、華道、音楽、演劇などの芸術鑑賞活動も包含していた。会員には台湾人と日本人の双方が含まれ、総勢数百名に及び、美術界の著名人からアマチュアの愛好家まで一堂に会する一大潮流を形成した。
清の時代における書画団体に関する文献記録はほとんどなく、台湾に芸術愛好者の組織が存在したかどうかは不明である。台湾の近代社会史の観点から見ると、「台湾書画会」は、日治初期の1910年代以前における最も早く、かつ最も重要な美術関連団体の一つと位置づけることができる。本会の会員名簿からもわかるように、「台湾書画会」は主に日本人書画家によって構成され、日本の書画会の伝統を継承する形で発展した。画家、書家、詩人、官僚、紳士など文化知識階層が交流し、詩歌を詠み交わす雅集(サロン)の性格を持ち、当時の台湾における文芸活動の中心的な場となった。このような芸術サロンの形式は、台湾の書画家にも影響を与え、同様の活動が展開されるようになった。例えば、1907年には鄭石、王箴盤、鄭邦杞らが日本人の今西大龍と協力し、新竹で書画会を発足させた。この書画会には、書家の李逸樵、連文逸、林之義ら十数名、画家の呉希唐、林香渠、范光燦ら十数名が参加した。
1910年代以降、「台湾書画会」の活動は次第に衰退し、石川欽一郎らが推進する「新美術」が新たな潮流を形成することとなった。これにより、専門的な個展やグループ展が主流となり、それまでの娯楽や社交の意味合いが強い書画会活動に取って代わった。「台湾書画会」は総督府と深い関係を持っていたが、1913年以降、新聞でその活動に関する報道はほとんど見られなくなった。しかしながら、このような書画交流の集会形式は民間で受け継がれ、新たな団体の誕生につながった。例えば、1911年には川田墨鳳が門下生と共に「画声会」を設立し、1912年2月には日本の書家・千葉青藍が台湾で書道を指導し、「道風会」を組織した。さらに、1915年には新竹の書画家である范耀庚、鄭香圃らが書画会を結成し、1918年には「台湾南宗画会」が設立されるなど、その流れは途絶えることなく続いた。
台湾の伝統書画や日本南画において、このような書画会の形態は、日治時期に伝統書画家の創作活動を支える主要な仕組みであった。特に、台湾美術展覧会(台展)や総督府美術展覧会(府展)が形成した「新美術」が画壇の主流となった後も、入選作品の中には深い意境を持つ南画が含まれていたものの、台湾の伝統的な水墨画の創作理念や形式は、「近代化」を推進する公式展覧会の制度には次第に適合しにくくなった。そのため、民間の書画団体が伝統書画家にとっての主要な活動の場となった。
1927年に台展が開設されると、台湾の書画家を中心とした書画会の設立が急増した。例えば、1928年には嘉義で蘇孝徳、林臥雲らが「鴉社書画会」を組織し、同年には新竹で李逸樵、周春渠、鄭香圃らが「書画益精会」を結成した。さらに、1931年には嘉義の周燕、張洋柳らによって「書画自勵会」が設立された。これらの書画会の活動形態を見ると、その性質は初期の「台湾書画会」のような娯楽や文芸鑑賞の場とは大きく異なり、書画の研究、創作、講習活動を積極的に行うものへと変化していた。また、作品展覧会の開催も頻繁に行われ、美術団体の活動が「近代化」へと向かう時代の潮流に呼応していた。
たとえば、「新竹書画益精会」は、主に書法(書道)と伝統水墨画の研究を中心とする団体であり、その活動は非常に積極的であった。会員は毎月研究会を開き、互いの作品を討論していた。1929年には「全島書画展覧会」を開催し、台湾各地から集められた書画作品は800点以上にのぼった。これは、当時の台湾の伝統書画界にとって非常に大きな出来事であった。新聞には審査のスケジュール、評価方法、審査員のリストが詳細に掲載されており、この展覧会が公募美術展として綿密に計画・制度化されていたことがうかがえる。また、展覧会終了後には正式な展覧図録が発行され、台展や府展などの公式美術展にも匹敵する規模と質を備えていた。このような精巧に設計された展示会の開催を通じて、伝統書画家たちは「新美術」の影響に対抗しつつも、新たな展示・鑑賞方式を意識的に取り入れ、伝統書画を近代的な文脈の中に位置付けようとしていた。そのため、西洋画や東洋画が公式展覧会の制度を通じて台湾画壇を主導する一方で、民間の書画組織は歴史的な伝統を継承しながらも、伝統芸術の組織活動を「近代化」させるという重要な役割を担い、現代美術社会の一部となっていったのである。
さらに、1910年代以降に次第に隆盛した「新美術」の潮流は、1908年2月に石川欽一郎が自宅で開始した「洋画研究会」に端を発すると考えられる。同年4月、『台湾日日新報』の記事で第1回洋画展覧会の開催予告が報じられた際、この研究会は「紫瀾会」という名称で正式に登場し、それ以降、石川欽一郎を中心とする「紫瀾会」のもとで、「新美術運動(Movement of New Arts)」が活発に展開されていった。
実際、西洋美術の台湾への流入は石川欽一郎が初めてのことではなかったが、その普及と基盤形成においては、彼と彼の率いる洋画研究団体の貢献が極めて大きかった。洋画の流行が加速する中、「紫瀾会」以外にもさまざまな洋画団体が次々と誕生した。例えば、1915年に設立された「蛇木芸術同攻会」、1920年の「赤土洋画会」、さらには塩月桃甫が指導した「素壺会」や「黒壺会」などが挙げられる。
しかし、これらの初期の団体は主に日本人による洋画組織であり、台湾における新美術の普及において重要な役割を果たしたものの、西洋画が台湾社会に根付き、広く普及するためには、台湾人による洋画団体の出現を待つ必要があった。台湾人が主導する洋画組織が誕生してはじめて、西洋画の発展が「定着」「成長」「普遍化」へと進んでいくことになったのである。
上述の地域的な美術組織や画壇を主導する大規模な美術団体に加え、美術環境が成熟し、美術理念が多様化した1930年代には、主流に迎合せず、「個性」の表現を強調する絵画団体も登場し始めた。
1937年、洪瑞麟、許声基、陳春徳、陳徳旺、張万伝らによって「ムーヴ(MOUVE)洋画集団」が結成された。この団体は若さ、情熱、明朗さを掲げ、「現代的かつ純粋な絵画」の研究を方向性としていた。「ムーヴ洋画集団」は1938年3月に第1回作品展を開催し、実験的な画風を用いながら、絵画の「純粋性」を追求した。彼らの活動は、それまでのように官展への入選を目指す従来の創作目的とは異なり、研究的性質を持ち、新しい美術潮流を牽引する先駆的な絵画団体であった。
また、1933年に創立された「新興洋画会」や、1941年に「ムーヴ洋画集団」が改組された「台湾造形美術協会」なども、主流の画壇とは一線を画し、個人の芸術理念を追求する場として新たな領域を切り開いた。こうした異なる性質・規模・理念を持つ美術組織が次々と誕生したことで、美術環境は多層的に構築され、美術活動が社会のあらゆる階層に浸透していった。その結果、単なる美術の発展にとどまらず、「自己の意志」の探求や「創作の主体性」を重視する、美術社会としての成熟が進んだのである。
その中でも、日治時期の台湾民間において最も重要な美術団体の一つである「台陽美術協会」は、戦後も活動を継続し、1948年には台湾光復後初の美術展を開催した。また、もともと「台湾造形美術協会」の主要メンバーであった画家たちは、1954年に「紀元美術協会」を再結成し、第一回の美術展を開催した。
さらに、戦後初期には、日治時期にすでに名を馳せた台湾の画家たちが、地域ごとの美術組織を次々と立ち上げた。例えば、1952年には劉啓祥、張啓華らが「高雄美術研究会」を、郭柏川が「台南美術研究会」を組織した。一方で、これらの団体が美術の普及や教育を主な目的としたのに対し、1950年代後半に相次いで設立された「五月画会」や「東方画会」は、前衛的な美術思想を掲げ、現代美術の推進を目標とした。これらの団体は、官展制度の枠外で活動し、会員による合同展覧会を通じて独自の芸術的価値を確立したのである。
時代や目的はそれぞれ異なるものの、美術の前進と改革を推進する「在野の力」としての役割は共通していた。言い換えれば、戦後の前衛美術団体は、日治時期に築かれた堅固な基盤と、批評意識の強化と継承のもとに誕生したといえるのである。
日治時期から戦後にかけての数十年間にわたる画会組織の誕生と変遷は、台湾美術の近代化の歴史的軌跡を示すものであり、初期の研究者によってその主要な発展動力と見なされてきた。しかし、これまでの美術団体を対象とした「美術運動史」研究は、研究者が民族主義や政治的イデオロギーを過度に強調したため、史実とかけ離れた結論を導き出してしまうことが少なくなかった。
実際、日治時期の台湾の画会の多くは、研究・交流・観摩・展覧会参加を目的とする同好会的な組織であり、その設立趣旨、実際の活動、作品内容を見ても、明確な民族意識や対抗的な政治意図が込められていたわけではない。彼らの最終的な目標は、美術の「近代化」を推進し、さらには近代文化の内実を備えた「美術社会」を創造することにあった。
しかし、近代美術の普及、国際的視野の拡大、そして芸術家個人の近代文化意識の強化に伴い、画会同士や官展との競争関係がますます激化していった。このような新たな競争関係の中で、在野の美術団体は次第に、かつての雅集(文人たちの集まり)としての受動的・消極的な立場から脱却し、地方から中央へ、あるいは中央から地方へと相互に影響し合いながら、美術史においてますます重要な役割を果たすようになった。
こうした認識の変化を受けて、在野画会の歴史研究は、これまで官展や個々の芸術家、作品中心の研究に限定されていた視点を超え、台湾美術の発展を包括的に捉えるための重要な資料となりつつある。また、美術の「近代化」は、単に政府の政策に従った受動的なプロセスではなく、本書の研究と資料調査を通じて明らかになるように、民間の美術団体が主体的に形成してきた「隠れた歴史」であり、その背後にある最も重要な推進力であったことがわかる。
本書では、日治時期の美術団体を総合的に考察することで、これまで公開されることのなかった新たな史料や写真を発掘し、当時の歴史を再検証し、より客観的・正確かつ体系的な解釈を試みる。この研究の基盤のもと、過去の研究における誤りを正し、台湾美術の近代化における美術団体の歴史的な発展関係やその重要性を明らかにすることができる。
また、この研究は、時間的な広がりや台湾美術近代化への実践的な関わりという点において、単なる地方の民間組織ではなく、全国的な美術の場で独自の役割を果たした団体としての意義を示すものである。こうした観点からすれば、日治時期の美術団体の歴史を再発掘することは、台湾近代美術史の「全体像」を再構築する上で指標的な意義を持ち、美術史研究における新たな可能性を切り開くものである。同時に、これまでの研究に見られる偏向や不足を補い、より正確な歴史像を提示するための積極的な参考資料となるだろう。