close

江上波夫,《モンゴル帝国とキリスト教》,東京:サン パウロ,2000。

アジアのネストリウス派関係遺物、ことに石彫品は、大体これを様式上二群に分かつことができるようである。第一群は中国風ともいうべき蓮弁・蓮台のある十字架図文をもったもので、第二群は西方風ともいうべき宝玉飾のある十字架図文をもったものである。すなわちネストリウス派関係遺物はその十字架図文をメルクマールとして東西の二群に大別することができるように思われる。そうして中国風の第一群は火燈窓形式の縁取りの有無によって、さらに二類に分けられるようである。以下アジア各地発見のネストリウス派遣物につき、オングト部族の墓石と比較観察しつつ、このことを明確 にしよう。

まず第一にあげるべきは、南中国の泉州周辺出土の十字墓石で、そのうちの三つは、明の崇禎年間(一六二八─一六四四)の前後に中国にあってキリスト教の宣教に従事したエマヌエル・ディアス(Emmanuel Diaz, 1574-1659)が、当時 『唐景教碑頌正詮』なる一書を著した際、巻頭に実物の模写を掲載したもので、「泉州十字架」Zaitun Crosses の名のもとに早くより学界に知られた。他の一つは、一九〇六年モーヤ(C. Moya)によって発見され、ペリオによりその写真が T'oung Pao(『通報』)誌上に公表された石彫品であるが、これら泉州十字架の実物はいずれも近年所在が分からなくなっていた。ところが一九二八年以来、中国の呉文良らが泉州で古碑を探訪して、多数の碑文を得て、呉は一九四四年に『泉州古代石刻集』を編したが、一般には知られず、その後、一九五四年にフォスター(J. Foster)が呉ら発見の十字墓石類をThe Journal of the Royal Asiatic Society(『王立アジア協会誌』)上に紹介し、さらに、一九五七年、呉文良が中国科学院考古研究所の考古学専刊の一つとして『泉州宗教石刻』を出版するに及んで、多数のネストリウス派やイスラム教の墓石がマニ教・バラモン教関係の碑石などとともに、一九四一年以来泉州より出土した事情が世に知られるに至った。この書の図版には、ペリオが紹介した十字墓石ならびに同種のものもあり、その 中にはディアスの本に図の載っている墓石と似た写真も含まれる。

聶1.png

泉州のネストリウス派墓石は、その可能性のあるものを含めると、様式上三類に分類される。

第一類は、頂部が火燈窓の形(上端が尖ったアーチに近い形)をなす、縦長の長方形の板碑で、高さ三〇ないし五〇センチ、その表面の上部に十字架を浮彫し、その下にシリア文字、パスパ文字、漢字などで墓銘を刻している。墓銘は時に裏面にも及んでいる。十字架は腕の末端がまっすぐなもの(腕の形c)と突出して三角になったもの(腕の形b)とがあり、宝玉飾の付された例が少なくない。蓮弁のほか、雲文、天使などの図文で十字架を受けている場合が多く、その年代は元の至大(一三〇八─一三一一)、泰定(一三二四─一三二八)、至正(一三四─一三六八)などの紀年を有するものがあって、元時代に属するものが相当数あることは疑いない。

第二類は、断面が火燈窓形をなす寝棺風の墓石で、多くは長方形の台座にのせられている。末端に立方形の部分はなく、火燈窓の形をなす正面に同形の縁取りをもって囲まれた十字架は、第一類と同じであるが、宝玉飾を付きない。みな蓮華で十字架を受けている。墓石の側面に唐草文帯を浮彫している場合もあり、全体としてこの類の墓石がオングトの十字墓石に類似していることは否めない。ただ後者の頭部にあたるところが、前者に欠けている点が大きな相違である。長さ一一〇ないし一五〇センチ、高さ一八ないし二七センチで、大きさもオンのそれと大差ない。

第三類は、かつてディアスやモーヤの紹介したものがこの類に属するが、それらの実物が再発見された例に加えて、新発見例がある。碑石の全体がほぼ三角形をなす板碑で、火燈窓式の輪郭をもっている。十字架は腕の末端が三角形に突出したものにかぎられ、これを蓮華、草花、渦巻、火焰、天使といった要素からなる大柄な図文で受けているところに特徴がある。墓銘はない。呉文良はこの種の墓石をカトリのものと考えている。

泉州のネストリウス派墓石の第一類と第二類は、同じく泉州で発見された南宋・元時代のイスラム教墓石の第一類と第二類に形式が完全に一致するが、イスラム教墓石で泉州キリスト教墓石の第三類に対応するものはない。たぶん第三類は第一類と第二類の混合形式で、年代上も最後出のものであろう。そういう点で第三類がカトリックの墓石様式である可能性はあるが、確証はない。

聶2.png

泉州の第二類墓石と同類と認められるものに、中国中部の揚州の回教寺院内に保存されていたネストリウス派墓石がある。その形状は佐伯好郎によれば、高さ約三〇センチ、底幅二〇センチの寝棺式で、頂上に至って湾曲して駒形屋根(断面が将棋の駒のような形の屋根)式のものとなっており、その一端の断面に十字架と蓮華とが火燈窓形式の縁取りのうちに浮彫されている。このネストリウス派墓石の全長は、完形のときは一〇〇ないし一二〇センチぐらいのものであったと想像されており、現存の部分は長さ約七五センチで、後部何十センチかは失われたものであるという。すなわち揚州の十字墓石もオングト部族のそれと等しく寝棺式で、大きさも両者大差ないことが知られるが、ただこの場合は、泉州の第二類墓石と同じく、オングト墓石の身部にあたる部分のみで、頭部にあたる部分が付属していない。また揚州墓石の場合、その蓮華が大きく、泉州の第三類墓石に似て完全に枝葉のある自然の花を表しているのに対し、オングト部族のそれは単なる蓮弁みの蓮華が小さく表されているのに過ぎないことも両者の異なっているところで、また前者の火燈窓形式の縁取りの尖りが単一なのに対し、後者のそれが内向きの尖りもあって多数であることも注目すべき差異である。しかしながらオングト・泉州第二類・揚州の墓石がいずれも寝棺式で、いずれもその十字架がギリシア式であること、その十字架蓮華をもって受けていること、火燈窓形式の縁取りをもってこれを囲んでいることなど、その墓石の形式や十字架図文に著しい共通要素の認められることは、もとより偶然の一致とは解し難い。すなわち泉州第二類と揚州の十字墓石とオング卜部族のそれとの間に様式上の関係の存在することはほとんど疑いないであろう。なお揚州の先述した十字墓石の屋根形の稜線の両側に、流麗な線で宝相華を表した多葉形の(尖りが複数の)火燈窓形式の彫り文様があり、これはオングト墓石の火燈窓形式を連想させるものである。

聶3.png

以上のほかには、確実にネストリウス派の十字墓石と認められるのは、中国中・南部ではまだ知られていないが、華北にも類似の形式のネストリウス派遣物が見出される。

その一つは河北省房山近郊の三盆山にある十字寺発見の一対の石彫品で、各石はその正面に十字架を、その両側面に花卉を浮彫しているが、その十字架図文はギリシア式十字架を蓮華または蓮台で受けており、泉州十字架の第二類、第三類と共通した特徴を示している。ただ異なるところは、その一つが十字架の左右末端にそれぞれ三個 の宝玉を付し、他の一つがそれぞれ一個の比較的大きな宝珠のようなものを付加していることであり、また、これらの十字架の中心に華文を飾っていることである。すなわち十字架そのものに飾りをつけることが、この房山の十字架図文をオングト部族の十字架図文とも、揚州や泉州第二類・第三類のそれとも明確に区別する特徴である。そうしてこの特徴は大秦景教流行中国碑の篆額の十字架図文にも認められる。

圖4.jpg

聶5.png

大秦景教流行中国碑は、言うまでもなく、唐太宗の貞観九年(六三五年)に景教(ネストリウス派のキリスト教)がペルシアから来た景教の聖職者である阿羅本らによって中国に伝来し、これが唐代に流行したことを銘記するため、徳宗の建中二年(七八一年)に長安(現在の西安)に建てられた碑文であって、その篆額の上方にネストリウス派の十字架が陰刻されている。それはギリシア式十字架であるが、その十字架の末端にそれぞれ三個の宝玉が付加されており、その上端中央のものは火焰を加えて宝珠形になっている。またその十字架の中心の円形も四個の小宝玉で飾られている。そうしてこの十字架の下に雲気文を左右両側にもった蓮弁を表し、これを受けているのである。その蓮台は、房山のネストリウス派石彫品の一つのそれに近似しており、十字架そのものに飾りをつける点でも両者共通した特徴を示している。ただ、後述のように景教碑の十字架の方が、房山のそれより一層西方のネストリウス派本来の宝玉飾ある十字架に近いことは注目に値し、後者は、それだけ、より中国化していると見られよう。そうして、このことから房山のネストリウス派石彫品の年代に関しても一つの推定が得られるのである。すなわち、それらは様式上、大秦景教碑より後出で、しかも、それとあまり年代上の隔たりのない、おそらく唐末宋初頃に属するもののように観察される。

聶6.png

一方、これらの遺物とともに、同じ房山の十字寺境内に現存する遼碑と元碑に、この十字架文のあるネストリウス派遣 物を指したものと従来認められている記載があり、その年代の考察が問題となる。すなわち応暦一〇年(九六〇年)の遼碑に、

殿宇頑毀するも、古跡なお存す、石幢一座、乃ち晋唐の興脩、実に往代の遺跡なり、

とあり、至正二五年(一三六五年)の元碑には、

三盆山崇聖院は実に晋唐の遺跡、迺ち大遼の脩営、己に多載を経て、兵火焚蕩、僧居ること難く、碑幢二座有るを見るに止まる、

という記載である。これら二つの碑文に述べられた幢が前述の房山の十字架遺物が一部をなしていた石幢(石で造った特 殊な形の記念柱)で、したがってこの一対の遺物の年代が遼の応暦一〇年以前に遡るものであるということが既にムール(A.C. Moule)や佐伯好郎によって指摘され、佐伯は更に両碑についてその「晋唐の興脩(造立)」、「晋唐の遺跡」であるという所伝に基づき、次のように述べておられる。すなわち「この晋唐の二字を解して晋と唐とし晋を西晋とすればこの石幢の剏立は西紀二百六十五年─同三百十六年時代のものとなる。また之を東晋とすれば西紀三百十七年─同四百十九 年時代のものとなる。更にまた晋唐を解して後唐とすれば西紀九二三年から同九三五年後晋とすれば西紀九三六年から同九四三年までとなる。その興脩が遼の応暦十年から僅に十数年前のものとなるのである。而して執にしてもこの十字架の石幢は応暦十年(西紀九六〇年)より十数年又は数百年以前のものである。併し「実往代之遺跡」と云へる文句より推定すれば、数百年前のものと云はねばならないのである」(引用文の一部は同書正誤表による)と述べ、この房山十字架遺物の年代問題から更に進んで、ネストリウス派の中国伝来を普通に言われている唐の貞観九年(六三五年)以前、晋代にまで溯らせ得るであろうことを強調しておられる。しかしながら、前述のように房山のネストリウス派石彫品はその十字 架図文の様式の上から、唐の建中二年(七八一年)の大秦景教碑より後出であることは推測にかたくないところであり、かつその花卉の図文に徴しても、西晋や東晋の時代はもちろん唐初までは到底溯らせ得るものではない。それで遼・元の両碑に晋唐の興脩あるいは晋唐の遺跡と伝えられる晋唐とは、唐末の晋王李克用の晋国とその子李存勗の建てた唐国(五代の後唐、九二三─九三六)を意味したものと解せざるを得ないであろう。そのように解釈すれば遺物の図文の示す年代とも大体合致するように思われる。しかしその場合、遼碑に「実に往代の遺跡」とあるのが佐伯の指摘されたように問題になろうが、これは碑文の撰者の文飾として軽く解釈すべきものではあるまいか。

さらにネストリウス派十字架図文を現した遺物として北京跑馬場付近出土と伝えられる、一部が欠失した、水平の墓石 と思われる石彫品がある。それは佐伯によれば、表面の長さ約九四センチ、裏面の長さ約八五センチ、幅約三〇センチ、厚さ約二四センチの長方形の石板である。断面はほぼ台形を呈し、その表面の中央に幅約三センチの条帯が縦に一直線につくり出されており、その条帯を中心として十字架が大きく浮彫りされている。そうして十字架と縦の条帯によって四つに区画された表面の各部分に優麗な唐草文の浮彫が飾られており、この石板の両側面には、それぞれ火燈窓形 式のわくで囲まれた四個の浮彫が並び、そのうちには小十字架と雲気文とを表したもの、菊花、柘榴、蓮華等の図文をも ったものなど種々ある。

さてこの石板の十字架は、表面、側面いずれのものも中心に円形を表し、十字架の各腕の末端が三角に突出した類で、これを下から受ける蓮華や華台のようなものを全く欠くが、両側面の十字架には末端から左右に立ちのぼる雲気が表されており、大秦景教碑や房山のネストリウス派石彫品の十字架雲気文の意匠に共通している。しかし北京跑馬場出土ネストリウス派十字石が蓮華や蓮台のような十字架を受ける図文を欠く点は、華北における他の三個のネストリウス派遣物の十字架図文と相違しており、一方オングトの十字墓石のそれに往々単独の十字架を見る場合があるのに等しい。またこのネストリウス派遣物の側面の火燈窓形式の縁取りは華中.華南およびオングト部族のネストリウス派十字架文に共通する特徴を示している。この遺物の年代は明確にし難いが、その図文の様式から見て金・元時代頃に属するものと考えて大過ないであろう。

最後に、以上の地域とは別に、敦煌発見の絹本着色のネストリウス派絵画にも十字架が表されている。そこにはやや仏像に似た表現のネストリウス派の人物像が描かれ、頭上に月桂冠風の簡単な冠を戴き、その冠の正面には蓮華座の上に立十字架を付し、更にその左右に羽翼状の装飾が加えられている。そうして頚飾にも冠上のそれとほぼ同様な十字架を垂れているが、これにはもとより蓮座はない。このうち、少くとも冠上の十字架の末端の各隅に宝玉が飾られていることが 注目される。このネストレス派絵画は松本栄一によってササン朝ペルシアおよび中央アジアの人物像との比較がなされており、その年代は唐代と認められよう。

以上、東アジアの各地で発見されたネストリウス派遣物を通観すると、いずれもその十字架はギリシア式であるが、それに宝玉飾(A)のあるものとないもの、十字架を受ける蓮弁(蓮台)あるいは雲気・火焰(B)のあるものとないもの、火燈窓形式の縁取り(C)のあるものとないものがあって、それらの装飾要素の組合せの関係を表示すると、表IIIのようになる。すなわち東アジアのものは大観して三つの組合せグループがあることを知るのである。第一グループは、AとBがあってCがないもの、すなわち西安・敦煌・房山のグループ、第二グループはBとCがあってAがないもの、すなわちオングト・泉州第二類・揚州・泉州第三類のグループである。第三グループは前二者の中間ないし過渡期のものとみられるもので、各種の装飾要素を多くの場合、もったり、もたなかったりしている点に特徴が認められる。このグループには北京跑馬場・泉州第一類が属する。そうして、第一グループに属するものは、すべて遼代以前のもので、第二グループに属するものは、ほとんど元代あるいはそれ以後に属するることが注目され、前者はいわば唐様式、後者はいわば元様式と解されよう。さらに第一グループに東西相隔たること遠い敦煌と房山が共存し、第三グループに南北相離れた北京跑馬場と泉州第一類が入っており、第二グループに同じく南北に相去ること遙かなオングトと泉州第二・第三類が併存しているところをみると、この三グループの装飾要素組合せの相違が地域差によるものではなくて、年代差に基づくことは容易に推測されるところであろう。そうして以上三つのグループに共通なことは、Bを共有するということで、これが中国のネストリウス派十字架意匠全体を特徴づけたものに他ならないが、オングトがこのいわば中国式の第二グループ(元様式グループ)に属すことは、表IIIによっても確実である。

聶7.png

聶8.png

一方、中央アジアおよび西アジア発見のネストリウス派遣物を見るに、ほとんどすべて十字架に宝玉飾(A)その他の付飾のあるもので、十字架を受ける蓮弁や雲気・火焰(B)のあるものはなく、また火燈窓形式の縁取り(C)のあるものもない。すなわち(一)中央アジアの新疆ウイグル自治区トルファン発見の唐代ネストリウス派教会堂址の騎馬人物壁画キリストのエルサレム入城図に見える十字杖上の十字架図文、(二)トルファン発見マニ教寺院址出土唐末頃のマニ教あるいはネストリウス派関係の絹絵のそれ、(三)ロシアのバルハシ湖の南方に位置するセミレチエ(Semirech'e)地方のトクマク(Tokumak)およびピシュペック(Pishpek)付近発見の一三、四世紀のネストリウス派墓石のそれ、(四)西トルキノンのナマンガン(Namangan)出土ネストリウス派墓石のそれ、(五)メソポタミアのティグリス川をはさんでモスル市対岸のマール・マタイ(Mar Mathai)修道院内に遺存するバール・サウマ(Bar Sauma)らの墓誌の十字架図文等、現在知られる西方のネストリウス派関係遺物のすべてに見られる十字架図文はほとんどみな各腕の先端に宝玉飾(A)を付しているが、十字架を受ける蓮弁や雲気・火焰(B)、また火燈窓形式の縁取り(C)をもつものは一つもない。このように中央アジア・西アジアのネストリウス派遣物と中国(東アジア)のそれとは、十字架意匠をメルクマールとした場合、様式上判然と区別されるのである。表IIIの上下両段を比較すればそのことは明瞭であろう。すなわち宝玉飾などの付飾をもって特徴づけられた十字 架意匠の中央アジア・西アジア式(西方式)と、蓮弁・雲気・火焰などをもって特徴づけられた中国式(東方式)に二大別され、さらに中国式は前述のように三つのグループ──唐様式と元様式と、その中間ないし過度期の宋様式──に分類される。なお南インドの聖トーマス山上の聖堂にある七、八世紀のネストリウス派墓石や、インド亜大陸南端に近いケララ州のコッタヤム(Kottayam)のネストリウス派教会内にある一〇世紀頃の墓石は、いずれもギリシア式の十字架を表し、それには宝玉飾があり、しかも羽翼のような図文で十字架を左右から受けており、さらにそれは三段の台上に立っていて、アーチ形で縁取られている。色々な点で、この南インドのネストリウス派墓石の十字架意匠は中央アジア・西アジア式よりも中国式に近似しており、インド式とでも称すべきものである(表III)。要するに宝玉飾などの十字架付飾のある西方式がネストリウス派本来の様式で、それが唐代中国に伝えられて、仏教芸術の要素たる蓮弁・雲気・火焰を加えて唐様式(A+B)を成立せしめ、元時代になると宝玉飾などの十字架の付飾が脱落するとともに、イスラム美術の要素たる火燈窓形式の縁取りを加えて、元様式(B+C)を生み出した。一方宋様式は唐様式と元様式の中間的、過渡的存在であって、各要素が安定せず、その有無が浮動して、士A士B士Cの状態であった。それらの関係を図式化すると表のようになり、このような関係は十字架図文の様式と年代の上からも、ネストリウス派の東アジアへの伝播の歴史の上からも容易に理解されるであろう。そうして中国の元様式が、仏教・イスラム教の要素を容れながら、一方、元来のネストリウス派的要素たる宝玉飾などの十字架付飾を脱落させていて、西方様式から甚だ異なった性質のものとなっていることは、元時代における中国のネストリウス派そのものの性格が仏教・イスラム教などの影響を多分に受けて、西アジア・中央アジアの西方ネストリウス派とかなり内容、性格の違ったものになっていたことを示唆する。

聶9.png

聶10.png

一方、オングト部族の墓石が様式上西方式ではなく、中国式、なかんずく元様式に属することは明瞭であるが、このことからオングト部族のネストリウス派の系統が、おそらく西アジア・中央アジア系でなく、中国系であったことも推測に難くないのである。

歴史上からみても、オングト部族は長く遼・金のために長城を守っており、中国との関係は深く、一方塞外の民族とは対立の関係にあった。また元時代のオングト王家がモンゴル大ハンと特別親縁な関係にあったことは、オングト部族と中国とをより一層近づけたに相違なオングト部族王府のネストリウス派の役職者の子マルコス(Markos)が大都(北京)のネストリウス派の聖職者サウマ(Sauma)の名声を慕って、その門をたたき弟子入りしたという所伝も、オングト部族のネストリウス派キリスト教徒が当時の中国のそれと密接な関係にあった証拠になろう。さらに、そのマルコスが一二八〇年、ネストリウス派の総主教デンハ(Denha)によって「カタイとオングトの大教区」のために京城大徳(メトロポリタン)に任命されたことは、カタイ即ち北中国とオングトの両教区が一人の大司教すなわちカンバリク(北京)の大司教によって管轄されるところの大司教区をなしていたことを明示している。なお、村山七郎によれば、オングト部族出身とみられる指導的宗教家が元代江南のマニ教徒やネストリウス派キリスト教徒を管領していたことがあるようで、トルコ文と漢文で書かれたその人の墓誌が泉州で発見されている。このように歴史上からもオングト部族のネストリウス派キリ教徒と中国のそれとが互いに密接な関係にあり、たぶん同系統であったことがうかがわれ、遺物の上からみた前述の推定を裏書きすである。

聶12.png

一方、タングトの大司教がペルシアのアルニの司教とともに、オングト部族出身の総主教ヤバラハ三世や北中国出身のサウマの失脚を策したことや、宋元時代のウイグルのネストリウス派墓石と推定されるセミレチエのそれがすべて西方式である事実は、オングト部族に西隣したタングトやウイグルのネストリウス派キリスト教徒が中国系ネストリウス派キリスト教徒とは立場を異にし、西方ネストリウス派に属していたことを示唆し、そこに中国とオングトの東方ネストリウス派とタングト・ウイグル以西の西方ネストリウス派との宗派的対立関係さえ感じさせるのでそうして、そのことは両者のネストリウス派の内容、性格の相違に基づくものに相違ないめろう。

このように、オングト部族がトルコ系種族でありながら、他のトルコ系種族と異なった立場にあったことが、そのネストリウス派についてもうかがわれることは、オングト部族が宋元時代にもった特異な位置と役割を理解する上に一つの新しい手がかりをあたえるものであろう。

聶11.png

聶13.png

 

arrow
arrow
    創作者介紹

    秋風起 發表在 痞客邦 留言(2) 人氣()