すなわち、これまでの簡略な考察による、元代から明代中期(一二七一-一五二一)まで、元代李郭派・明代南宋院体山水画風という二つの東アジア国際様式が行われた、二百五十年の中国山水画史の展開を踏まえつつ、ほぼ同時期の日本の鎌倉後期・南北朝・室町中期までの山水画史、韓国の高麗後期から朝鮮王朝前期までの山水画史の展開を各々数点の伝存作品に即して改めて概観し直してみよう。

楊柳觀音半跏像
(挿図12)

まず、高麗(九一八-一三九一)の場合は、縦約四メートル二十センチ、横約二メートル五十センチという壮大な巨幅であり、なおかつ、至大三年(一三一〇)五月に宮廷画家によって制作されたことが知られる基準作をもなす「楊柳観音半跏像」(挿図12・鏡神社)を初めとして、仏画には多くの作品が現存するものの、残念ながら、山水画の現存作例はない。ただ、当の鏡神社の「楊柳観音半跏像」や、縦二メートル三十センチ、横約一メートル二十六センチの大幅の「楊柳観音半跏像」(大徳寺)のうち、前者は半跏で、例外的に画面向かって右向きで奇岩に坐す楊柳観音を拝礼する善財童子とを、後者は、同じく半跏で、通常どおり、向かって左向きで奇岩に坐す楊柳観音と拝礼する善財童子とに加えて、向かって左下に「洛山聖窟說話」(『三国遺事』巻三)による小像を画いており(葉竹淳一「高麗時代の仏教絵画」「作品解說 191 楊柳観音半跏像(大徳寺)」「同 192 楊柳観音半跏像(鏡神社)」『世界美術大全集 東洋編 10 高句麗・百済・新羅・高麗』小学館、一九九八年)、ともに何かを注視するのでもない両尊像の両眼の高さにある視点から、見事に観音像など大小の諸像を大画面の浅い空間に定位する画家の力量は、高麗時代には、仏画のみならず、山水画にも高度な展開があり、それを踏まえて初めて到達し得る水準にあると称することができる。例えば、大徳寺像の両眼より上、頭上に張り出した岩の上面えず、両尊像の両眼より下の両腕や両手の甲、膝前、岩座の上面、水面がすべて見下ろせるよう配慮されていることが、その紛れもない証左に他ならない。

同様な作品が北宋時代の仏画にも存在する。瑞雲に乗り下降しながら、やや左へ旋回しようとする孔雀の背上の蓮花座に坐し、拡げたその尾羽を光背の周辺部として、半眼で正面に鋭い視線を投げかける「孔雀明王像」(挿図13・仁和寺)や、山中の巌窟で静かに結跏趺坐しつつ、両眼を大きく見開き、やはり正面に鋭い視線を投げかける「賓度羅跋囉惰闍像(十六羅漢図第一尊者)」(清涼寺)(宮崎法子「伝奝然将来十六羅漢図考」『鈴木敬先生還暦紀念 中国絵画史論集』吉川弘文館、一九八一年。井手誠之輔「作品解説 18 十六羅漢図、第一尊者、賓度羅跋囉惰闍」『世界美術大全集 東洋編 5 五代・北宋・遼・西夏』小学館、一九九八年)は、上述の両楊柳観音半跏像についてと同様に、ともに尊像の両眼の高さほどに、見えない地平線を設定し得る、現実的な「透視遠近法」に則る空間の中に定位されており、北宋後期の郭熙「早春図」(一〇七二年)(挿図14・台北故宮博物院)(「本文 1 郭熙 早春図」、前掲『臥遊』)で完成に至る透視遠近法を軸とする、南北朝・隋唐時代以来の山水画の空間表現の發展を無視しては語り得ないからである(拙稿「五代・北宋繪畫的透視遠近法-中國傳統繪畫的規範」『開創典範:北宋的藝術與文化研討會論文集』台北故宮博物院、二〇〇八年。拙稿「五代・北宋絵画の透視遠近法-中国伝統絵画の規範」『美術史論叢(東京大学)』25、二〇〇九年)。

実際、北宋版大蔵経(九八三年)とそれに付される第二代皇帝太宗御製の『秘蔵詮』全二十巻とを、ともに覆刻する高麗版大蔵経(文宗朝:一〇四六-一〇八三年)の『秘蔵詮』(江上綏・小林宏光『南禅寺所蔵『秘蔵詮』の木版画』東京:山川出版社、一九九四年)各卷に数点ずつ付される「山水人物図版画(『秘蔵詮』第六卷・第四図)(挿図15)があり、重複を除く全五十図すべてが、画面の三分の二以上の高いところに見えない水平線を置く、北宋初にしては古様な形式であるものの、透視遠近法を遵守する作例であるからである。ともより、本版画は、北宋版の覆刻に過ぎないという見解もあろう。ただ、このような版本が、高麗国内に広く流布したことの絵画的影響は、上述の鏡神社・大徳寺の両楊柳観音半跏像を顧みれば、否めない。言い換えれば、山水画の分野においては、基本視点の高さより下の地面や水面などのものの上面は見え、上のものの上面は見えないという日常的かつ容易に理解できる視覚に則った透視遠近法は、元代山水画の直接的影響は優るとも劣らない影響力をもつと言ってよい高麗版大蔵経の刊行以後、絵画のみによるより、遙かに連く高麗山水画の手法として受け容れられていったと推察される。

そのような山水人物画が、朝鮮王朝とされる宋能「五百羅漢図」(挿図16・知恩院)(鈴木敬編『中国絵画総合図録』東京大学出版会、第四卷:JT56-003、一九八三年)である。画面中央やや上に画かれる釈迦・文殊・普賢の釈迦三尊像の腕や膝前・蓮華座の上面や、五百羅漢のそれなどが見える一方、最上部の元代李郭派の手法による完成度の高い山嶺は稜線のみしか見えないことから、本図の見えない地平線は、山嶺を側面視する画面六分の五から七分の六ほどの高いところにあり、『秘蔵詮』の「山水人物図版画」と同断であることがわかる。この視点の高さは、元代李郭派の朱徳潤「林下鳴琴図」(台北故宮博物院)や、李容瑾〔郭忠恕款〕「明皇避暑宮図」(大阪市立美術館)に通じるものであり、先に述べたとおり、元代李郭派と高麗との強固な関係が存在したことや、元代李郭派の李升「釈迦說法図」(クリーヴランド美術館)のような作例が存すること。また、道教絵画ではあるものの、南宋時代の「地官図」(三官図之内)(ボストン美術館)は、既に郭熙の雲頭皴と蟹爪樹による山水と地官との山水人物画となっていることなどに鑑みれば、宋能「五百羅漢図」のような李郭派山水仏画は、高麗時代に夙に行われていたものと考えて大過あるまい。あるいは、宋能「五百羅漢図」それ自体が、高麗時代の作例と解することも可能であろう。
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