では、漢字文化圏の「書画の東アジア」の伝統は、南洋勧業会から百年余を経た現在もなお、決して断絶してはいない状況のもと、果たして「東アジア美術史の統合的構築は可能であろうか?」洪教授の根源的な問いかけは、そのように言い換えることができる。東アジアについては、地理的に言うと、中国大陸と台湾・香港などと、朝鮮半島・日本列島が含まれる。問題は、東アジア美術史の東アジアをどう規定するかにはない。これまで、中国における「美術」概念の揺籃期に即して述べきたおり、美術史それ自体に何を含めるかにある。中国の場合、西湖博覧会の「芸術館」において、「書画」を第一に挙げ、既に「建築」も含めていたよに、現代の『中国美術全集(絵画編・彫塑編・工藝美術編・建築藝術編・書法篆刻編)』(北京:人民美術出版社・上海人民出版社・北京:文物出版社・北京・建築工藝出版社・上海書画出版社 一九八四-九二年)でも、ヨーロッパの「美術」概念を踏まえつつ、「書画篆刻」という文人書画観に基づく分野を保っている。また、韓国においても、同断であり、『韓国美術全集:日本語版』(ソウル:同和出版公社、一九七四・七五年)では、「篆刻」を欠くものの、「書」「画」「建築」の巻を有るからである。その意味では、中国や韓国において、文字どおり「東アジア美術の統合的構築」を行おうとすれば、「絵画史」などに「書法史」「建築史」を含まなければならない。それに対して、日本においては、「書法」は、既に触れたとうり、明治時代に「美術」の範疇から外されて、史的考察は、「美術史」とは独立した「書法史」として行われており、「建築史」も、同様に、工学系部局の建築研究室で「美術史」とは全く別に研究されて来ている。すなわち、日本においては、「書法」が外れることは別として、「建築」も「美術」概念に含まれないまま、例えば、『日本美術全集』(東京:講談社、一九九〇-九四年)では、原始から飛鳥・奈良、平安、鎌倉、南北朝・室町、桃山、江戶、近代まで、時代順に通史的に各時代の絵画・彫刻・工藝・建築各分野に関する記述を各担当者が行って、ヨーロッパ本来の概念と整合性を保ちつつ、「日本美術史」として相応の一貫性を有しているとすれば、日中韓三国それぞれの時代順に通史的に各時代の絵画・彫刻・工藝・建築各分野に関して各担当者が行った記述をまとめることが、「東アジア美術の統合的構築」の第一歩となろう。「書法」についても、同様にまとめることは、可能である。

「東アジア美術の統合的構築」は、絵画に即して述べると、中国や韓国の王朝、日本の王朝や幕府の交代により、様式変化が起こる東アジアの場合、ロマネスクからゴシック、ルネサンス、マニエリスム、バロック、ロココ、新古典派、ロマン派、印象派へと国際様式が次から次へと継起し展開するヨーロッパの場合とは異なって、H. W. ジャンソン『美術の歴史:絵画・彫刻・建築』(東京:美術出版社、原著第三版、一九九五年)のように、様式展開を軸に各国での状況を記述する方法を採ることはできない。既に拙稿「中国絵画-東アジア国際様式の消長」『日本美術全集 12 水墨と中世絵巻 南北朝・室町の絵画I』東京:講談社、一九九二年)で述べたとおり、東アジア絵画史においては、明代ご宮廷院体南宋山水画風が、朝鮮王朝時代の韓国や室町時代の日本に波及するなど、圧倒的な中心をなす中国絵画が東アジア国際様式を生み出してきたもの、ヨーロッパに比して、様式変化を起こす国々の多様性と、それに伴う波及力のある新たな様式展開の継続性とが充分ではなく、王朝の交代による中国絵画の様式変化のみを軸として東アジア絵画史を構築することは必ずしも可能ではない。

とすれば、可能であるのは、以下のような捉え方である。すなわち、中国絵画史の展開を踏まえうえで、日韓両国絵画史のすれについて、中国絵画の影響を受けた時期とを客観的に分析し、比喩的に言えば、三国の絵画史の展開の三重の螺旋状に捉え記述し得たとすれば、その結果が、「東アジア絵画史の統合的構築は可能であろうか?」という問いかけに対する答えとならろう。より具体的には、例えば、元代(一二七一-一三六七)から、明代中期(一四二六-一五二一)まで、二百五十年の中国絵画史に二つの東アジア国際様式(拙稿、前掲「中国絵画-東アジア国際様式の消長」)が継起した展開に即して言えば、元初に現れた趙孟頫(一二五四-一三二二)から元代李郭派を経て、明代前期(一三六八-一四二五)から中期(一四二六-一五二一)の画壇を主導した宮廷画家の浙派へと繫がるのが、その間二百五十年の中国絵画史の展開の主流をなす。そのうち、元代には、やはり趙孟頫に影響を受け、後に元末四大家と称される黄公望(一二六九-一三五八?)、呉鎮(一二八〇-一三五四)、倪瓚(一三〇一-一三七四)、王蒙(一三〇八?-一三八五)が出るものの、沈周(一四二七-一五〇九)、文徴明(一四七〇-一五五九)の師弟が、明代中期の後半(一四六五-一五二一)に、彼ら四大家に学んで呉派文人画を確立し、後期(一五二二-一六二〇)から晚期(一六二〇-一六四四)の画壇を独占するに至るまでは、四大家の影響は、大きなものではない。この時期、より大きな影響力を有していなのは、友人黄公望の題のある「群峰雪霽図」(台北故宮博物院)(「本文 45 曹知白 群峰雪霽図」拙著『臥遊 中国山水画-その世界』東京:中央公論美術出版、二〇〇八年)を伝える曹知白(一二七二-一三五五)や、元の首都大都(北京)で高麗の前国王瀋王の知遇を得て、高麗の文人とも親交を結び、「林下鳴琴図」(台北故宮博物院)という文人の清遊を主題に選ぶ朱徳潤(一二九四-一三六五)(西上実「朱徳潤と瀋王」『美術史』東京:美術史学会、一九七八年)ら在野の文人画家と、「倣郭熙秋山行旅図」(挿図2・台北故宮博物院)(「本文 47 倣郭熙秋山行旅図」前掲、『臥遊』)を代表作とし、宮廷画家としての経歴を有する唐棣(一二八七-一三五五)ら、李成から郭熙への北宋山水画の主流に倣う元代李郭派である。

唐棣 倣郭熙秋山行旅圖
(挿図2)
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